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ただ今外出中です−2

「市丸。またお前、何かカレンダーに吹き込んだだろう」
 朝の一騒動が終わった頃、日番谷は怒りに震える声で市丸に言った。
「はて、なんのことやろね」
 カレンダーは、日番谷が表にされるなり、自分がめくられてしまうまで、何度も繰り返し、日番谷が好きだと叫び続けた。
 めくられて、捨てられてゆくカレンダーに、日番谷は唇を噛み締めながら、ゴメン、としか言うことはできなかった。
「とぼけるな!昨日テメエが表になるまでは、俺達の間では、あの話は済んだことだったんだ!それを、テメエが、何か余計なこと言いやがったんだろう!」
「キミのこと、諦められへんかったんやないの?残酷なことしはるよね、キミ。ほんまに最後なんやから、俺も好き、くらい言うたったらよかったのに。あない必死で言うてはるのに最後までゴメンやなんて、あの子も浮かばれんわ」
「俺が、それしか言えないことわかってて、テメエは、」
「またボクのせいかいな。まあええわ。キミがそうしたいなら、そうしとき。せやけどあの子は、まだ幸せやと思うわ。みんなこの世の終わりみたいに言わはるけど、めくられたら、もう自由なんやからなぁ」
「…」
 市丸の言葉にドキッとして、日番谷は黙り込んだ。
 いつの日からか、市丸はドアプレートの仕事にすっかり飽きてしまって、ここから逃げ出すことを考えるようになった。
 今は少し落ち着いているようだが、一時期は色んな情報をどこからか仕入れてきては、色んなことを試して、なんとかプレートから解放されようとばかりしていた。
(…いつまでも一緒だって、言ったくせに)
 この世に生れ落ちてすぐに、日番谷は自分の背後にいる市丸に気が付いた。
 市丸もすぐに日番谷に気が付いて、話しかけてきた。
「そちらにいらっしゃるのは、どちらさんですか?ボクは市丸ギンいいます。どうやら在宅中やゆうこと知らせる案内係みたいや」
「…俺は日番谷冬獅郎。俺の方は、外出中ってことを知らせる係みたいだ」
「そうなんや。やったらボクらは、二人でひとつなんやねえ。なんやドアプレートなんつまらんもんに生まれてきてもうたけども、ボクらは幸せやで。みんな誰もがひとりで生まれて一人で死んでゆくのに、ボクらは生まれながらにふたりなんやからね。楽しいことも、辛いことも、いつもふたり一緒や。幸せは二倍、苦しみは半分や。ボクらはほんまに、幸せやで?」
「そうか。そうかもな」
「これからよろしゅうな、日番谷はん」
「よろしく、市丸」
 生まれてすぐ、まだ何もわからない時に、市丸はそう言った。
 それから、その言葉が日番谷の心の支えだった。
 市丸は話も楽しくて考え方も驚くほど柔軟で、真面目なばかりの日番谷に息を抜かせることがうまかった。
 しゃべり方も柔らかく、人の感情を読むことに長けている市丸に、それとはわからないほどの自然さで、何度励まされ、何度癒されてきたかわからない。
 皆にもそうだとばかり思ってた市丸が、柔らかな物腰はそのままに、信じられないようなひどいことを言ったりしたりしていることに気が付いたのは、いつ頃だったろうか。
 問質してものらりくらりとごまかすばかりで、要領を得ないまま、いつの間にかそれが市丸なのだと理解するようになった。
 そういうところは許せないけれども、それでもやっぱり、日番谷の心は市丸のあの言葉に支えられていた。
 市丸とふたりでひとつなのだと思ったから、どんなに辛いことにも耐えてきた。
 それなのに市丸は、いつの間にか自分から離れようとしている。
 自由を手に入れることばかり考えている。
 ひどい裏切りだと思ったが、日番谷にはどうすることもできなかった。
 市丸がこの状況に退屈し切ってしまう気持ちは、日番谷にもよくわかる。解放されたいという気持ちも、よくわかる。
 でも、解放されてしまったら、もう二人はひとつではなくなってしまうのだ。
 市丸がそれを何とも思っていないということが、日番谷には何よりも悲しかった。



 それから何日か経った頃、廊下に新しい仲間が増えた。
 少女の母親が友達から預かってきた、古いけれども見事な細工が施された、壁掛け式の鏡だった。
 少女の部屋のドアの斜め前に掛けられたそれは名を藍染といって、温和で親切で、とても物知りな男だった。
「みんなこんなところでずっと暮らしていたら、退屈だろう?僕が外の景色を色々写してあげるから、それを見て楽しむといいよ。ほら、あれをご覧。小石を敷き詰めたような、輝くような白い雲が見えるだろう?君達は知っているかい?あれは巻積雲といって、…」
 毎日語られる藍染の話に、皆嬉々として耳を傾け、そこに写される景色をうっとりと眺めた。
 皆の心はあっという間に藍染に惹き付けられたが、市丸は積極的に藍染に話しかけることはしなかった。
 誰よりも知識を欲していたから、誰よりも熱心にその話を聞いていたが、もともと市丸が表に出るのは、少女が帰ってから、日も落ちたくらいの時間からだった。
「藍染はんは、色々なことを、よう知ってはりますねえ」
 空に大きな月が昇ったころ、ようやく市丸はひっそりと藍染に声をかけた。
 皆が寝静まり、誰も話を聞いていないこの時を待っていたのだ。
「やあ、市丸くん。今日はずいぶん、ご機嫌が良さそうだね?」
「別に今日特別ゆうこともありません。毎日飽き飽きしてしゃあなかったところへ、藍染はんみたいなよう物知ってはる方が来はったから、ずっとご機嫌ですわ」
「そうかい?…でも君は、他の子達みたいに、鏡に写った外の景色について説明してあげるだけじゃ、満足しないみたいに見えるよ?」
「外の景色は、飽きるほど見ました。見える角度変えたくらいで、そない変わるものでもあらしません」
「はは」
 藍染は、物を知っているだけの退屈な男だと思った。
 現実にある物について詳しいだけで、そこから先への知識の広がりはないように思えた。
 たとえば。
 たとえば、市丸が本当に知りたいことを。
 教えてくれる男なのか。
「見える角度が変わったら、どれだけ世界が変わるのか、君はまだ知らないようだね?」
「えっ?」
「例えば君を縛り付けているその呪縛から解き放たれたら、君の世界は、どれほど変わるだろう?」
 いきなり核心を突かれて、市丸は息を飲んだ。
「呪縛?なんの話ですか?」
 とりあえず慎重に、続きを待った。
 市丸の存在そのものを揺るがすほどのこの秘密を、そう簡単に、こんな出会ったばかりの男に晒すわけにはいかない。
「君を縛り付けているのは、その可愛い坊やだろう?」
「坊や?」
「知らないのかい?日番谷くんだよ。日番谷くんが小さな坊やだということも知らないこと。それが君の呪縛だろう?」
 落雷のようなショックだった。
 日番谷が坊やかどうかということではない。
 市丸の心の一番深く、誰にも見せたことのない危うく繊細な部分を、いとも簡単に掴み出されたことがショックだった。
 そういうことは、これまで自分の専売特許だったのに。
 誰よりも早く誰よりも深く相手の機微を読み取って、追い詰めるのも手の上で転がすのも、市丸の気まぐれな心ひとつだった。
 これまで誰にも弱みを見せたことはないし、うっかり出てしまった時だって、つけこめる相手もいなかった。
 だが、藍染は。
 藍染の隙は欠片もみつからないのに、瞬時に市丸の弱点を暴かれてしまった。
 そんな経験は生まれて初めてで、市丸はどう対処してよいかわからないほどうろたえた。
「言わはる意味が、ようわかりませんな。プレートの裏と表やから、日番谷はんの姿知らんのは、そら当たり前ですよ?」
「そう。君は知らない。ここにいる全ての者の中で、君だけが知らない」
「…なんや、嫌な言い方されますねぇ?自分はなんでも知ってはるゆうこと、自慢したいんですか?」
「今は僕の話をしているんじゃないけれど、それでもいいよ。そう、僕はなんでも知っている。わかるんだよ。君が本当は、ただ日番谷くんの姿を見たいと思っているだけではないということも」
 静かな声に、ゾッとした。
 その男の手が、自分の喉元に当てられているような、恐怖にも近い思いが、生まれて初めて市丸を襲った。
 今まで誰かの弱みに付け込むことは、赤子の手を捻るほど簡単だった。
 それが今は、自分がそうされている。
 それをひしひしと感じながら、抗う術もない。
 市丸は息を詰めかけて、ハッと吐いた。
「だからなんやゆうの?」
 弱みだと思うから、弱みなのだ。
 そんなことで自分はビクともしないと、強く思えばいいだけのことだ。
「日番谷はんは、みんなのアイドルなんよ?日番谷はんと仲良うしたい思うのは、皆同じや。みんなが可愛え可愛え言わはるから、そのお顔見てみたいとも思いますし、生まれた時から一緒やからね。特別な感情持つのも、当たり前や」
「君は、おもしろいね」
 いつもと同じ笑みなのに、まるで別人のような笑みで、藍染は市丸を見た。
「そう。君は本当に、おもしろい。ここにいる中で、いや、僕がこれまで会ってきた中で、君が一番、おもしろいよ」
「なんや嬉しくもないですけども、おおきに」
「日番谷くんは、可愛いよ。それはもう、君がそうやって日番谷くんに悪い虫がつかないように番をしていなかったら、僕が食べてしまいたいくらい可愛いよ?」
「…何が言いたいんですか?」
 軽くかわす余裕もなかった。
 かわしたところで、藍染には何の牽制にもなりはしないだろうけれども。
「一夜の夢と、永遠の呪縛と」
 必死で固めた市丸のバリケードすら、ただ多少楽しみを増やすだけの他愛ない抵抗と思っていることがありありとわかる余裕の表情で、藍染は悠然と微笑んだ。
「君なら、どっちを選ぶかな?」
 ほんの、軽い戯れで。
 吹けば飛ぶほどのたやすさで。
 藍染は、市丸の全てを絡めとった。