.

ただ今外出中です−1

 いってきま〜す、というはつらつとした声と同時に、部屋のドアに掛けられたプレートが、ぱたんと裏返しにされた。
 待ってましたとばかりに、こちらも元気のよい声が、おう、気を付けて行ってこいよ、と答えた。
 その答えは、元気に部屋を飛び出していった少女には届いていないのだけれども、『ただ今外出中』の少年は、いつも律儀に返事をしているのだ。
(ほんま、律儀なお人やわ。表になったり裏になったり、こないつまらん仕事、ええ加減にしたったらええのに)
 裏返されて仕事の終わった『お部屋にいます』の市丸は、大きく伸びをしてくつろいだ。
 プレートの裏表である市丸と日番谷は、毎日こうやって交代で仕事をしていた。
 裏を向けられると仕事は終了で、次に表に向けられるまで、休憩時間だ。
 休憩時間中は、周りの音は聞こえるけれども景色は見えず、声を出すこともできない。
 だからといって必ずしも眠っているわけではなく、プレートの反対側にいる相手とだけは、内側から話すことができた。
 毎日毎日裏になったり表になったりするだけのこんな仕事が、市丸は退屈で退屈で仕方がなかったけれども、日番谷はいつも元気で、表に向けられると、壁に貼られたカレンダーや額絵、廊下に置かれたランプやプランターと楽しそうに話したり、窓の外の景色や様子を楽しんだりしているようだった。
「日番谷サン、俺、今日であなたに会えるの最後なんで、意を決して言っちまいますけど」
 市丸がうとうとと眠りに入ろうかとしていた時、向かいの壁に掛けられたカレンダーの緊張した声が聞こえてきて、市丸はさっと意識を覚醒させ、耳をそばだてた。
「そうか、今日で4月も終わりだしな。めくられちまうか。一ヶ月、仕事お疲れさん。ゆっくり休めよ」
「あなたのおかげで一ヶ月が、夢のようでした。俺達はひと月でお役御免ですけど、毎日あなたの顔を見て声を聞いて過ごせたことが、どれほど幸せだったか」
「…」
「好きです、日番谷サン。ここに貼られた一月から、あなたの声を毎日聞いて、その顔を見ることができる日を、どれだけ待ったことか。…俺、俺、…」
「…ゴメン、気持ちは嬉しいけど、俺、…」
 カレンダーの告白に、日番谷は困ったように答えた。
(モテモテやな、この子。何人目や、告白されんの)
 プレートの裏表なので、毎日一緒にいても、市丸は日番谷の顔を見たことは、一度もなかった。
 いつも抑えたような声の出し方をするけれども、元の声は男にしては高い方で、大人になりきっていない若さを感じたし、確かにその姿に期待をしてしまうような、魅力的な声だった。
 よく皆が彼を『可愛い』とか『綺麗』とか形容しているから、実際に姿形も魅力的なのだろう。
 カレンダーをフッて居たたまれないのか、塞ぎこんでしまった日番谷に、市丸はひっそりと声をかけた。
「日番谷はん、またフッてもうたの?ほんま、罪なお人やねえ。可哀相にあのカレンダー、フられるわめくられて捨てられるわ、悲惨な末路やねえ。せめて最後にええ夢くらい、見させてやったらええのに」
「そういうウソは、俺は、嫌いだ」
 市丸の言葉に、日番谷はムッとしたように答えた。
「そんなのは、誠意じゃねえ」
「誠意てなんやろうね。『ボクはウソつきませんでした』ゆうキミの自己満足やないの?」
「な…んだと…!」
 軽く挑発しただけで、日番谷は簡単に頭に血を上らせたらしかった。
「テメエなんかに言われたくねえよ!いつもウソばっかで、誠意の欠片も持ち合わせていねえような、テメエにはな!」
「ボクがいつ、ウソつきましたやろ?」
「ついてるじゃねえか、何度も!例えば去年の十一月、テメエ、カレンダーに、何したよ?!忘れたとは言わせねえぜ!」
 もちろん忘れたわけはないが、どうでもいいことでもあった。
 ひと月しかない自分の役目を嘆いていたカレンダーに、強い風が吹いた時に、大きく身をよじって自らを本体から切り離し、窓の外へ飛んで、自由を手にしてみたらどうかと言ってみた。
 思い詰めていたカレンダーは簡単にその言葉に乗り、ある朝吹き込んできた風に乗って、窓の外へ飛んでいった。
 その晩、強い雨が降った。
「ウソなん、ボクはついてへんよ?あのカレンダーは運が悪かっただけや」
「テメエがそそのかしたせいで、あと半月ここにいられたのに、雨に打たれて死んじまったんじゃねえか!」
 そんなつまらないことをいつまでも怒っている日番谷に、市丸は唇の端を吊り上げて大きく微笑んだ。
「毎日毎日めくられて捨てられる日を怯えて過ごすより、一日でも自由を知って死んだなら、それはそれで幸せやないの?」
「変な理屈こねんな!少なくとも、その危険性も教えてから選択させてやってもよかったんじゃねえか!」
「幸せなお人やね、日番谷はんは」
 わざと気に障るような言い方をして、市丸は笑った。
「そないな危険なん目に入らんくらい、あの子にとってはここでの生活が、辛かったんよ。毎日泣いてはったから、ボクはそれから逃れる方法を教えてあげただけなんよ」
「ふざけるな!テメエはいつもいつも、人の弱みにつけこむような真似ばかりしやがって、何が楽しいんだよ、そんなことして!」
 日番谷はわかっていない。
 タメ息をつく感情すら枯れて、市丸はただ、乾いた笑みを浮かべただけだった。
 真面目で誠実で、面倒見がよくて、照れ屋で負けず嫌いで、すぐ怒る。
 なかなか笑ってくれないけれども、何にでも一生懸命で、いつでも真っ直ぐに太陽の方を向いている。
 そんな日番谷の可愛らしい声をすぐそばで聞きながら、毎日毎日市丸が、どれほどの苦痛に耐えていると思っているのだろう。
 いつの日からかジワジワと市丸の心を蝕んできた、途方もない、底なしの渇望。
 誰よりもそばにいながら、永遠に自分は日番谷の顔を見ることすらできないのだと気が付いた時の、声も出ないほどの絶望感。
 気を紛らわせるためなら、なんだってする。
 この地獄から抜け出せる方法があるなら、どんなことでもする。
 どれほどそう思っても毎日は平穏で、時間は残酷なまでにただ緩やかに流れてゆく。
 変わらない毎日。変わらない景色。いつまで経っても、日番谷と背中合わせの自分。
 心の中で、何かがどんどん腐ってゆくのがわかる。
 このままでは取り返しがつかなくなるとわかっていても、止める方法もわからない。
 なんでもいい。ブレーキをかけられないなら、いっそ目一杯までアクセルを踏み込みたい。
 だが、どんなにもがいて苦しんでも、自分達はただドアプレートの裏表で、永遠にただ、裏になったり表になったりを繰り返すだけなのだ。
 永遠に。途方もなく長い時間、ただひたすらに。
 いつの日か捨てられて、日番谷と二人でどろどろに溶けることだけが、自分に許された唯一の逢瀬なのだろうか。
 自分の半身。
 裏と表ほどに自分と違う日番谷。
 可愛らしい声。
 どんなに見たいと願っても決して叶うことのない、皆を魅了してやまない、その姿…。
 笑ったら可愛いのだろうか。怒っても魅力的だろうか。泣いた顔は?困った顔は?喜ぶ顔は?
 考えずにはいられないけれども、考えると狂ってしまいそうだった。


 夜になり、部屋の主である少女が帰ってきて、市丸が表を向けられると、日番谷が眠りに就いたのを確認してから、市丸はカレンダーに声をかけた。
「4月ももう終わりやね。お役目ご苦労さん。チラッと聞いてもうたけど、キミ、日番谷はんが好きやってんな。せっかく告白してくれたのに、冷たい子ォで、ゴメンな?」
「はは…。仕方ないです。俺じゃつり合わないの、わかってましたし。それでも誠実に応えてくれましたんで、俺、もう思い残すことはないです」
「そう。最後にいっぱい、あの子のお顔、目ェに焼付けといた?」
「はい、あの大きな碧の目とか」
(ふうん、碧の目なんや…)
「キラキラした銀色の髪とか」
(髪の毛銀色なんや…)
「ほっそりした身体とか」
(ほっそりしとるんや…)
「いっつもシワの寄ってる眉間とか、可愛いピンクの唇とか…」
(……)
 日番谷の姿を知りたくて聞いたのに、聞いているうちに市丸は、だんだん腹が立ってきた。
 自分が見たこともないものを、こんなに幸せそうに、うっとりと語るカレンダーに。
「よっぽど好きやってんな。離れてまうの、可哀相にな」
「…いえ、フラれましたし、潮時ですよ」
「…ほんまはな、そうでもなかってんけどな?」
「え?」
「もう、見てられへんから教えたるわ。あの子素直やないし、もうお別れやてわかっててんから、あないなこと言うたんよ。ほんまはキミのこと、好きやったみたいやで?」
「ま…、まさか…」
「キミがどれだけあの子のこと好きか、試しとったんかなあ。明日、キミめくられる前に、もう一度あの子に好きやて言うてみ?あの子が何て言うても気にせんと、精一杯の気持ちを込めて、思い切り気持ちぶつけたり?そういう情熱を、あの子は待っとるんよ?」
「ほ…ホントに?」
「ほんまや。精一杯の気持ちで言うたら、精一杯の気持ちで、あの子は返してくれはるよ?」
 優しい優しい声で言って、市丸は慈悲深い笑みを浮かべた。