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神隠しの杜−5

「通れませんか?せやったら、ボクも一緒に帰ろうかな?どうやろう、十番隊長さん、せっかくやから、このままお茶でも?」
「誰が、テメエなんかと!」
 こんな圧力をかけておいて、何を言うんだと日番谷は思い、にべもなく断ると、市丸は心底不思議そうな顔をしてみせる。
「ええ〜、ボク、なんでそない嫌われてますの?ボク、何かしました?」
 してるだろう、今、嫌がらせを!と言ってやりたかったが、市丸にとってなんでもないようなことに過剰に反応している、つまり格が下だとか弱いとか思われたくなくて、日番谷は強い目で睨み付けながら、
「好かれる要素もないだろう」
「キミ、可愛え顔して、言わはるな〜。たぶん、何や勘違いしてはると思いますで?その誤解を解くためにも、ぜひお茶でもご馳走させていただきたいんやけど」
 これだけ言ってもにっこり笑って、臆面もなく誘ってくる。
 脅しをかけて効かないとなると、今度は懐柔しようということか。
 これでは逆に、隠していることがありますと言っているようなものに思えて、日番谷は眉を寄せた。
 やはり、何か、あった?
 本人に聞くのは危険な気がするが、いっそう調べないではいられない気持ちになる。
 だが、あからさますぎる市丸のその態度は、日番谷から何か隠そうとするように見せて、まるで逆に、早く真実を探し出せ、早く記憶を取り戻せと煽られているようにも感じた。
「な?ええお店知ってますんよ?」
 その腹の底をなんとか探ろうと黙って睨んでいる日番谷に、市丸は全く頓着しない笑顔で言って、「おいで?」とでも言うように、すうっと手を上げてきた。
 あまりに自然なその仕草に、思わずその手を取りそうになって、慌てて引っ込める。
「行かね、つってんダロ!」
 今度こそ隙をついてその脇をすり抜けてやりながら、何故か身体中の血が熱く燃えるような感覚に、日番谷はしばらく十番隊にも帰ることができなかった。



 
 日番谷はその夜夢の中で、またひとつ記憶を取り戻していた。
 まだ少し、暑さの残る夜だった。
 狐に教えられ、上位の死神の指導も受けて、日番谷はあれから、目覚ましい勢いで己の力の制御を覚えていた。
 斬魄刀の扱いにも慣れ、指導に来る死神の官位が、どんどん上がってゆく理由もわかっていた。
 その間、何故か狐はしばらくやって来なくて…、キミの力がボクを呼ぶんよ、と言っていた言葉と、日番谷が力を抑える術を覚えてきたことと、関係があるのかもしれないと、漠然と思っていた。
 このまま日番谷が力をつけていったら、もう狐は来なくなるのかもしれない。
 そう思ったら、胸が痛いほど、淋しいような気持ちを覚えた。
 だからかもしれない。
 その晩、見たこともない男が突然部屋にやって来た時、日番谷は即座に、その男があの狐なのだと、すんなり理解した。
 顔が、びっくりするほど狐顔だったからではない。
「久し振りやね。キミ、霊圧抑えるの、うまなったなぁ」
 姿が変っているというのに、日番谷が自分が誰だか言わなくてもわかると信じ切っているように、名乗りもせずに、男は言った。
 その男があの狐であるのはすぐにわかったのだが、…日番谷は、うっすらと月灯かりに浮かぶその姿を見て、思わず息を飲んでいた。
 きらきらと輝いていたあの狐の毛並み以上に美しく、射し込む月の光を浴びてさらさらと揺れる銀色の髪。
 スラリと高いその背は障子の高さより高くて、わずかにかがむ身体はほっそりしているのに、受ける存在感は圧倒的で、霊圧ではないもので押されそうになった。
 真っ黒いその着物が死神の着る死覇装だと、日番谷はすぐにわかった。
 でも、これまで会った死神と、男は何もかもが、違って見えた。
 霊圧の使い方や護廷隊のことについてよく知っていたから、正体はきっと死神に違いないと、うっすらとは思ってもいた。
 でもこんな、…こんな、見たこともないような、印象的な男の姿は、あの狐からは想像もできなくて。
 流れるような動きの全て、発する言葉の全てが神秘的で、日番谷は魅入られたように、頭が真っ白になった。
「しばらく来てやれんと、堪忍な?今日はボク、キミを迎えに来たんよ?…一緒に来てほしいところ、あんねん」
 細く長い柳のような眉や、その下の開けているのかよくわからない目は冴え冴えとしていて、あまり感情というものを感じられなかった。
 大きな口も笑みのような形を作っているが、逆にそれ以外の形をするところを想像できない。
 男はその形で笑みを結んだまま、日番谷の方に、そっと手を差し出してきた。
「おいで?」
 その姿に圧倒され、何が何だかわからず、呆然とするばかりの日番谷に、男は軽く首を傾けて様子を窺うようにしてから、いっそう優しい声で、狐と同じあの声で、もう一度、おいで?と言った。
「どこ、に…?」
 ようやく出した声は掠れて、声を出せたこと自体に、自分で驚いたくらいだった。
「ボクのお山に」
 男は答えて、いっそう深く笑った。
 その手は促すようにもう一度軽く上げられ、その動きに操られるように、日番谷は立ち上がり、男の元へふらふらと歩いていった。
「ええ子や」
 目の前に差し出された手は大きな大人の手で、ほっそりと指が長い芸術家のような手で、節の立った男の手だった。
 おずおずとその手を取ると、優しく褒めるように握られて、その低めの体温に、ドキリとする。
「ボクが居るから、なぁんも怖ないよ?」
 日番谷が緊張していることを感じ取ったのか、男は優しくそう言って、ふわっと握った手を引いてきた。
 あっと思った時には夜空を駈けていて、家々の屋根を越え、小さな木立を抜け、どこからともなく現れた黒い蝶に導かれるように、暗い道をくぐった。
「霊圧、きちんと抑えとるんよ?」
「ああ」
 現世での実習をする時に、同じ蝶を使ってトンネルを抜けた。
 トンネルそのものは裏道みたいに狭くて小さなもので、実習の時使ったものとはずいぶん違うけれども、きっとこの道は現世に続いているのだろうと、そこを通りながら日番谷は思った。
 男の手が、守るようにふわっと日番谷の肩に伸び、トンとジャンプをするようにして、どうやらトンネルを抜けた。
 現世でも夜のようで、薄い月灯かりの中で、ぼんやりと目の前に大きな建物があるのがわかった。
 柱や横木が朱に塗られ、壁は白く、荘厳で重厚な、門のような建物だった。
 男は何も言わないままそれをくぐり、日番谷の手を引いて、階段を登っていった。
(どこだろう、ここは。…神社?みたいだけど)
 夜の神社は、お世辞にも、長くいたいと思うようなところではなかった。
 霊的なものの存在をあちこちに感じて、無意識にブルッと身体が震えてしまう。
 ぎゅ、と大きい手が日番谷の手を握り直して、もっと近くに寄るように、手を引いてきた。
 見上げると、男は優しく日番谷を見下ろして、大丈夫だと言うように微笑んだが、言葉を発しないところからして、ここでは話をしてはいけないのだ、とぼんやり日番谷は理解した。
 もっとも、言われなくても、声を出せるような雰囲気がそこにはなかった。
 月の明かりはあったが、しんとした静寂に包まれ、今にもどこかから何かが出てきそうな、神秘というより妖魔に支配されているような、妖しい空気に満たされていた。
 また少し階段を上り、右手に折れると、ずらりと鳥居が並ぶ道に出た。
 男は日番谷の手を引いて、ためらいもなくそれをくぐってゆく。
 幾基も並ぶ鳥居の道は朱色のトンネルのようで、折れ曲った道の先は闇の中に続いている。
 日番谷は圧倒されて、ゴクリと唾を飲んだ。
(この道は…どこに、続いているんだ…?)
 猛烈な不安感に自然と足が重くなり、男が気付いて振り返る。
「怖い?」
 静かな声で、男が聞いてきた。
 日番谷は反射的に首を横に振ったが、もちろん嘘だった。
 小さな声であっても男が言葉を発したことで少し安心し、話してもいいんだ、とは思ったが、やっぱり声はひとつも喉から出てこなかった。
 男は日番谷を気遣うように歩調を緩めたが、足取りに迷いはなく、このまま気持ちを変えて日番谷を帰してくれる気は、全くなさそうだった。
 長い朱色の道には途中いくつか古めかしいランプが下がっていて、鳥居の朱をぼんやりと照らしていたが、その先の闇はその光すら吸い込むように暗く、やはり何も見えない。
 その小さな明かりが、なおいっそう奥の暗闇を不気味に見せているような気がした。
 その先に、行きたくない。
 その道が曲がった先に、足を踏み入れたくない。
 絶対に行ってはいけないと、本能が全力で警告音を鳴らしているのに、日番谷は男の手を振り払うことができなかった。
 男が怖かったからではなく、もちろん一人で戻るのが怖かったからでもなく、ただ、男がしっかりと自分の手を握ってくるから。
 その手が大きな大人の手で、日番谷の手をすっぽりと包み込み、一緒においでと誘うから。
 だって、この男は、あの狐なのだ。
 あの狐が人間の姿になって、日番谷を迎えに来たのだ。 
 抑えてはいるけれど、自分を指導に来てくれた上位の死神達の誰よりも、揺るぎなく強い力を感じる。
 日番谷はその力に強烈に魅かれ、安心感のようなものを強く感じた。
 そして何より、この不思議な男と、もっと一緒にいたかった。
 どこへ連れて行かれるにしろ、この手を離したら、もう二度とこの男とも、狐とも会えないような気がした。
 胸が苦しいほどドキドキして、日番谷は無意識に、ぎゅっと男の手を強く握ってしまっていた。
 男の手は応えるように力強く握り返してきて、それから指と指を交互に組み合わせるように、しっかりと握り直してきた。
 絶対に逃がさない、と言っているようにも、こうしていれば安心やろう?と言っているようにも思えて、日番谷の胸にも、不安と安心がごちゃごちゃになる。
 ただ、日番谷には、実際その手だけが拠り所だった。
 ずっと続く朱色の道を歩いていたら、いつの間にか自分がどのくらい来たのか、どこを歩いているのかも、わからなくなってくる。
 自分が歩いてきた道が、通り過ぎる先から消えてなくなっているかもしれないと思うと怖くて、振り返ることさえできなかった。
 この鳥居の道に入るまで、そして今でも鳥居の向こう側に、不吉な何かの気配がしている。
 みっしりと並ぶ鳥居がその何かから、中を通る者を守っているような気がした。
 鳥居と鳥居の間には少し隙間があって、日番谷くらいの体型なら簡単にそこから外に抜けてしまえるが、そうしたら最後、闇の世界へどこまでも落ちてしまうような気がした。
 どれくらい来ただろう。
 すぐ近くで聞こえていた、さらさらと水が流れるような音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 朱色の鳥居の内側の、四角に切り取られたような空間が連続した道が、少しずつ軋んで傾き、平衡感覚がおかしくなりそうだった。
 大きくカーブするその先を見ていたら、傾いている方向に、転がって落ちそうな気がして怖くなる。
「もうすぐ、抜けるで?」
 男がそっと、励ますような声で言った。
 ずっとその先に辿り着くのが不安だったのに、この不安定感に堪えられなくなっていて、日番谷はその言葉を聞いて、ホッとしていた。
 道の先は、ずっと暗い闇だったのに、いつの間にか、その先からうっすら明かりが漏れて見えていた。
 一歩、また一歩。
 石敷きの道を進んでゆくと、とうとう、三方にずっと続いていた朱色の鳥居が消え、パッと開けた世界に出た。