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神隠しの杜−4

「首筋に息吹きかけるんも、やめて」
「文句が多いなあ、お前」
 呆れるように言うが、狐を前にすると感じていた緊張感は、すっかりどこかへいってしまっていた。
「…あのさ、俺…、…今度、護廷隊の死神が、俺の力を見てくれるんだって」
 それで思わず、日番谷は親に報告するみたいに、言ってしまった。
「それも、結構上の人が、俺の指導についてくれるんだって」
 それを聞いた時、正直日番谷は嬉しかった。
 護廷隊の死神は、とても霊力の強いエリートなのだと聞いている。
 化け物みたいに強いのだと。
 同じように、ずっと化け物だと言われてきた自分も、その死神になら、化け物だと思われず、ありのままを受け入れてもらえ、自分は特別なのだと諦めにも似た思いを抱かずにいられるのではないかと思った。
「ああ、そうやろね」
 だが狐の反応は、日番谷の喜びに水を差すほど、思った以上に薄かった。
「護廷隊の隊士でも、始解すらできてへんのもおるからなぁ。ここでひととおりのことを覚えたら、キミはどこかの三席あたりとして入隊して、仕事覚えたら副隊長になって、卍解できるようになったら隊長になる…順当なとこで、そないな流れやろか?」
 あっさり言って、ガッチリ捕まえていたはずの日番谷の腕からするりと抜け出して、枕元に置いてあった氷輪丸のところへ、ぴょんと跳んだ。
「卍解は、まだなんよね?」
 日番谷はその言葉に失望を隠しきれないまま、狐を見やった。
 自分程度で、即高位の席官になれるとしたら、死神という集団は、そんなにすごいものではないように思えてしまったのだ。
「…卍解できるようになったら、そんなに簡単に隊長になれんのか?」
 温かで柔らかな狐の身体が腕から逃げたのと同時に、密かな期待も腕をすり抜けてしまったように感じた。
「簡単やないよ。色々面倒くさいところやねん、あそこ。せやけど、大したことでもないんも、事実かもな。…キミくらいの力、持ってたならな」
 狐は振り向いて、すぐさま日番谷の心情を察したようだった。
 苦笑のようなものをこぼして、再び日番谷の元へ戻ってきた。
「なんや、がっかりしとるんか」
「…別に」
「護廷隊に入ったらええことある思うとるんやったら、そないな夢は、見ん方がええで」
「わかってる。期待なんか、してねえ」
 素っ気ない声で厳しいことを言う狐は、すっかりいつもの狐で…、何故か、ひとりだけ、置いて行かれたように感じてしまった。
 狐はそんな日番谷をじっと見ていたが、大きく尻尾をひと振りして、しゃあないなあ、と言った。
「今夜はもうちょっと居られそうやから、キミが寝るまで、ボクの尻尾貸しといたるわ」
「えっ」
「反則やったけど、ボクのこと見事捕まえたしな。ご褒美や。ボクの尻尾抱いて寝させたるよって、お布団行きや」
 狐の言葉にびっくりしてポカンとしてしまったが、いらへん言うんやったら、ボクはもうこれで帰るけども、と言われて、慌てて立ち上がった。
「一緒に寝てくれるのか?」
「一緒には寝ぇへんよ。尻尾貸したるだけや」
「じゃ、俺、急いで風呂入ってくる」
 タンスから夜着と手拭を出してきて言うと、狐は少し動揺したように、
「キミは、ボクを誘うとるんか」
「えっ?だって、寝る前はいつも、風呂入ってから…、」
 言う意味がよくわからなくて言うと、狐は珍しく忌々しそうな舌打ちをして、「わかった、わかったから、早う入っておいで」と言った。
 尻尾を抱いて寝させてやるなんて、子供に対する褒美みたいで少し引っかかるが、寝る時一人でないなんて、久し振りだった。
 風呂から出て布団に入ると、狐は本当にその長い尻尾を布団に入れてくれて、日番谷は柔らかなそれを抱き締めて目を閉じた。
 狐の尻尾は、やはり不思議な独特の香りがした。
「キミが寝るまでやで。お話したるから、早う寝るんよ」
「話ってなんだよ。子供じゃねえぞ」
 言うが、狐のしてくれた話は、予想以上に心躍る楽しい話だった。
 優しいその声を遠くに聞きながら、やがて日番谷は夢の世界へと落ちてゆき、…翌朝目覚めると、やはり狐はあとかたもなくどこかへ消えてしまっていた。




 日番谷は仕事にひと切りつけると、護廷隊の書庫へ向かった。
 膨大な数の蔵書を誇るそこには、一般の書物の他に、過去の事件や護廷隊の記録のようなものも置いてある。
(狐が人間になる話はよく聞くけど、人間が狐になる話なんて、あまり聞かねえよな…。でも、あれはどう考えても、市丸だったんじゃねえのか?声も、言葉も、喋り方も、まんまあいつとしか思えねえし。顔が狐に似てるのも、なんか関係あるんじゃね?)
 次々と思い出してゆく白い狐の記憶に、日番谷は戸惑いながらも、真実が知りたくてたまらなかった。
 途方もない力を持つ斬魄刀を手にした代わりに色々なものがズタズタになっていたあの頃の日番谷は、ほんの、細い糸の上を歩いているようなものだった。
 力も精神状態も不安定で、いっそ狂気に身を任せたい誘惑に何度駆られたかわからない。
 その日番谷を今に繋いだのは、紛れもなくあの狐だった。
 なのに、その記憶が、こんなにもすっぱりと失われていたなんて。
 しかもその狐が、どう考えてもあの三番隊の隊長だったと思えて仕方がないなんて、まるで本当に、狐につままれたみたいな気持ちがした。
 あの狐に感じていたような好感を、まるで市丸に感じられないのに、それが同一のものだと心のどこかでは、すんなりと認めている。それも不思議だった。
 あの狐が、何のために日番谷の元へ現われていたのか、結局何もわからない。
 いつの間にか記憶がないから、いつ何がきっかけで来なくなったのかも、わからない。
(もしもあの狐が本当に市丸だったとしたら、何かあいつに狐と関係ある事件があったんじゃねえのか?ええと、俺が霊術院にいた頃だから、…あいつはもう、三番隊の隊長だったのかな?それとも…?)
 もどかしいものが胸に残って、記録を探しながら、日番谷は必死で、自分の中の記憶もたぐる。
 あの狐のことを思い出した時、嫌な気持ちは湧かなかった。
 でもどこかで、思い出してはいけないことのような気がして、勝手にドキドキと胸が高鳴ってくる。
「…十番隊長さん?」
 集中していたから、声を掛けられた時、本気でびっくりして身体がビクッとしてしまった。
 声で誰かはわかっていたが、慌ててさっと視線を走らせると、予想通りの男がそこにいて、何故かゾッとするようなものを、彼から感じた。
「意外なところで会いますねぇ?何探してはりますの?」
 柔らかな言葉。穏やかな口調。
 だが、してはいけないことをしているところを見つかったような、それを咎められているような、とても危険な空気をそこに感じて、緊張感に、肌が粟立った。
「別に。…お前は、何しに来たんだよ?」
「なんや、来たらあかんかったみたいな言い方に聞こえますけども。ボクに知られたら不都合なことでも、調べてますの?」
 笑顔が、怖い。
 明らかに何か気付いていて、何らかのプレッシャーをかけようとしているとしか、思えない。そのために、ここへ来たとしか。
「調べられたら不都合なことがあるのかよ、お前」
 心の底で怯みながらも、それを気取られてはいけないという気持ちが働いて、日番谷はわざと横柄に顎を上げて返した。
「あは、その言い方やと、まるでボクのこと調べてはったみたいや。ボクの何が知りたいんですか、十番隊長さん?」
 その顎の下へ、長い指がふわりとした軽さで、だが目にも止まらぬ速さで伸びてきて、ちょんと触れていった。
「…!何しやがる!」
 思わず2mほども飛び退いて、触れられた顎の下をゴシゴシこすってしまう日番谷に、市丸は大げさに困った顔をして、
「なんや〜、ちょっと触っただけやないの。スキンシップですよ?そない大げさに反応されると、意識されてるか思うて、ドキドキしてまうよ」
「顎の下なんかに触れるのは、失礼だろう!バカにしてんのか、お前!」
 顎の下に触れられた…ということは、そのまま喉に入られた、急所を押えられたに等しい。
 ドッと汗が出るのを感じて、日番谷は燃える目を市丸に向けた。
「まさか。十番隊長さんが、可愛らしい顎上げはるから、触って欲しいのかと思うただけですよ」
 尊大な態度だったことをやんわりと非難されたように感じて、日番谷はカッと頬を染めた。
「どけ!俺はもう帰る!」
「ああ、そうですか。どうぞ?」
 狭い書棚の間に、通せんぼをするように大幅を取って立っていた市丸が、半歩だけよけて、わずかに道を作る。
 確かに身体の小さな日番谷が通るには十分な幅だが、…通り過ぎる時に捕まえられてしまうのではないかと思う隙のなさと嫌な予感、それから逃げるには不十分な隙間だった。
「テメエ、デケえんだよ、もっとどけよ!」
 思わず怒鳴ると、市丸は平然と笑ったままで、人差し指を一本、口の前に立てた。
「シィー。ここは、書庫やで。大きな声出したら、あきませんよ?」
 市丸が言った瞬間、突然しんとした静寂を意識した。
 市丸はそう言うが、二人の他に、誰もいないかのような。
 まるでこの空間が、ふたりだけを別の世界に閉じ籠めてしまっているような。
 意識したとたん、言いようのない不安に、日番谷は動揺した。
 市丸とこのままふたりだけでいたら危険だと、なんとしても今すぐ逃げるべきだと、本能がガンガン警告してくる。
 だがそれなのに…、形容しがたい不思議な誘惑も、何故かそこに同時に感じて、ますますわからなくなる。
「…いいから、とにかく、どけ」
 ひとつ大きく息を吐いて、日番谷は低く言った。