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神隠しの杜−3

 日番谷はパッチリと目を開いて、見慣れた天井を凝視した。
 薄く汗をかいている。
 のそりと起き上がり、ぱちぱちと瞬きをして、今見た夢を思い出してみた。
(…夢じゃねえよ。なんで俺、忘れてたんだろう。狐、狐が、確かに俺のところに、来たんじゃねえか…)
 もちろん誰にも言っていない。
 笑われるだけで信じてもらえないに決まっているからだ。
 日番谷は布団を出ると、顔を洗い、死覇装に着替えた。
 あの頃は、まさか自分が着るとは思ってもみなかった羽織を取って、さらりと羽織った。
 あの白い狐に教えてもらった方法で、日番谷は霊圧を抑えることを覚えた。
 もちろん鍛練を繰り返して後ではあるが、網を張ることを覚えてからは、周りに迷惑をかけるような霊圧を漏らすようなことはまずないし、あの白い狐が前足を乗せてきたそこに、今でも門を作っている。
 あの狐は…
 予告通り、あれから毎夜のように、日番谷の元へ訪れた。
 すました様子で白い尾をぴんと立て、霊圧を抑えられるようになったかと、毎回聞いてきた。
「お前は一体、何者なんだ。どうして俺のところへ来るんだ」
「狐に何者もあるかいな。狐は、狐やで。それに言うてる通り、キミが呼ぶから、ボクは来るんよ」
 ただの狐が、しゃべったり、霊力の扱い方を知っているわけがない。
 それにこの狐は見事に抑えてはいるが、相当な霊力を持っていることがわかる。
「もしかしてお前、神様の使いか何かか?聞いたことがあるぞ。狐を使徒にしている神様がいるって。お前みたいに真っ白な狐なんて、見たこともないし…」
 真剣に言ったのに、またも狐は腹を抱えて人間のように笑い転げた。
「キミ、ほんまに可愛えなあ。そないな力持ってはるくせに、どこまで無垢やねん」
「誰が無垢だ!子供扱いすんな!」
 雛森のような少女に対して使うならともかく、無垢とは日番谷にとって、褒め言葉ではなかった。
 確かに子供ではあるが、そのへんの大人に負けないくらい、苦労も努力もしてきているのだ。
 日番谷が気を悪くして声を荒げると、狐はそんなことは全て承知しているとでもいうようなしたり顔で頷いて、日番谷の脇のあたりに、その長くて先の尖った獣の鼻面を押し当ててきた。
「な、なんだよ…」
「キミな、子供やゆうのは、褒め言葉やで。まだこないミルク臭い子供やのに、大人以上の力持っとるいうんは、誇りにしてもええことや」
「ミルク臭いてなんだよ!おまえ、俺のこといくつだと思って…」
「せやけどキミ、まだ男の匂いせえへんもん。阿保みたいに霊力の強い、無垢で汚れのない子供…」
 狐の言葉は後半、どこかドス黒い、不吉な色を帯びた。
 それを敏感に感じとって、思わず日番谷はブルッと震えそうになったが、怯えていると思われたくなくて、わざと大きな声を張り上げる。
「阿保みたいてなんだ、全然褒めてねえじゃねえか、お前!」
「ああ、阿呆みたいて、とてつもないとか、めっちゃすごいゆうような意味なんよ。言葉通りに受け取ったらあかんよ」
 日番谷の拳固をやはりひょいと避けて、狐はその大きな尾を、見せつけるように振った。
 もちろん日番谷だってそんな言葉の意味くらいわかっているが、それでもやっぱり、先ほどのセリフは胸に不安を起こさせるようなものであったことは変わらない。
「お前の狙いは、なんだ。俺をどうしたくて、ここに来るんだ」
 何度も聞いて、答えの得られない問いを、それでも何度も繰り返さずにはいられない。
「ひゃあ、聞きようによっては、ずいぶん刺激的なセリフやね」
「真面目に言ってる」
 不思議なこの白い狐は、いまだに日番谷の警戒心を解かせはしないけれども、同じような能力を持った者同士でしか分かち合えない、今までやり場のなかった思いを理解し、共有してくれる。
 しゃべる白い狐なんか怪しいだけなのに、その何もかもが怪しいのに、日番谷はどうしても、狐を無下には追い返せないのだ。
 それどころか、頻繁には来るが必ずしも毎晩ではないことが、恨めしいほど待ち侘びている。
 その弱みすら見透かすように、狐は裂けた口をますます吊り上げて、ひょいと前足を上げて後ろ脚で立ち上がった。
「キミのその力がなァ、ボクを呼ぶんよ…」
 やはり同じ答えを、狐は繰り返した。
 それはつまり、仲間を求めているという意味なのだろうかと、日番谷は黙ったまま思った。
 この力のおかげで、今まで日番谷は、ずっと孤独だった。
 だから同じ力を持った仲間を、無意識に求めているという意味なのだろうかと。
 それに応えて、この白い狐は来てくれたのだという意味かと。
 そう思ったら不思議な親しみを感じて、もっともっとこの狐のことを知りたいという欲求が自然に生まれた。
 狐の前にそっと両手をついてその顔を覗き込むようにして、
「お前さ、年はいくつくらいなんだ?」
「んん?年?」
「それだけデカイんだから、狐だって、けっこう長く生きてるんだろ?百年くれえ、生きてんのか?俺より年上なのかな?」
 日番谷はまだ、百年も生きていない。
 獣ではあるが、自分よりも長く生きているかもしれない落ち着きと知識、そして力を持っていると思って聞いてみると、狐はまたも弾かれたように笑い転げた。
「百年、ボクが生きたか聞いてはるの?なんの基準で百年やねん。百年生きてへんのは、キミの方やんか」
 よほどおかしかったのか、畳の上に転がってぴくぴく腹を震わせながら、百年やて…とまだ笑っている。
 その反応におおいに気を悪くしたが、要するに、この狐は百年以上生きているのだ。自分よりも年が上なのだ。予想はした通りだが、そこまで笑うことないのに、と日番谷は軽く頬を膨らませた。
 狐ではあるが、もともと自分よりも物をよく知っていることはわかっていたし、年も上となると、なんとなく自然に、甘えてもいいような気持ちが湧いた。
 狐だからこそ、普通の人間の大人に甘えるよりも、抵抗がなかったこともある。
「なんだよ、そんなに笑うなよ。百年以上生きているんだったら、尻尾が一本しかないって、どうなんだよ。お前、狐だろう?」
 百年生きた狐は特別な霊力を持ち、その尾も九本になる、とかゆう物語を思い出し、日番谷が笑われたお返しに言ってやると、
「尻尾が九本なん、はしたないやんか。ボクはこのお上品な一本で十分や。ふわふわで、触り心地もええんよ?」
 くるんと尾を前に回して、見せびらかすようにその鼻先で愛撫する狐の仕草に、日番谷の目はその尾に釘付けになった。
「…柔らかそうだな」
「触ってみたいん?」
「いいのか?」
「ええよ。…触れるもんなら」
 その言葉を合図みたいに、日番谷は反射的に狐に飛び付いていた。
 狐はふわりと身を翻し、簡単にそれを避けてしまう。
「この野郎!」
「あは。鬼さんこちら、や」
 もともと日番谷は動物や、もふもふっとしたものが好きだった。
 純粋に触りたいのと、逃げる動物を捕まえたくなる本能と、負けてたまるかという勝気さで、次第に本気になってきた。
 だが狐は驚くほど身が軽く、動きが速く、そして頭もよかった。
 日番谷の動きを予測して、フェイントまでかけてくる。
 建物の中で走り回るなど、稽古以外では行儀の悪いこととして、日番谷は決してしたことはなかった。
 おばあちゃんに教えられたことはきちんと守る、真面目な少年だったのだ。
 だが、からかうように煽っては逃げる狐に、本来持っている子供の性質も顔を出し、久し振りに夢中で追いかけっこなどをしてしまった。
「待て、待てったら、止まれ、このヤロ!」
「もう息上がっとるやん〜。そないなことやと、捕まえられへんよ〜。ボクのこの魅惑の尻尾触りたいのとちゃうの〜?」
「おのれ!大人しく捕まれ!」
「キミの力で、捕まえや」
 悔しいが、どう頑張っても、狐は自分よりも一枚も二枚もうわてだ。
 もともと修行をした後で、疲れていたこともある。
 とうとう日番谷はばったりと畳に倒れ、大きく息をついた。
「あらら、もうおしまいなん?まだまだ・やね?」
「…足がつった」
 悔しそうに言って、手を伸ばし、袴の裾を上げて足をさする。
「キミまだ完成してへん子供の身体やからなぁ…大丈夫なん?」
「痛ぇ…」
 心配でもしてくれたのか、狐の霊圧がわずかに揺らぎ、そっと近づいてくる。
「見せてみい」
「ん…」
 日番谷は素直に答えて、さすっていた手を離して狐を見上げた。
「お前、治療する力もあるのか?」
「治療する力なん、あってもなくても、足つったの診るくらい誰でもできるで」
「ふーん…」
 上半身を起こして腰をひねり、日番谷は自分の足に鼻先を近付けてくる狐をじっとみつめた。
 狐からは、警戒するような緊張感がわずかに感じられたが…、
「捕まえた!」
「ぅわっ、何すんねん!」
 いつも一分の隙もない狐に、わずかだができた隙を、日番谷は見逃さなかった。
 尻尾どころか丸ごと掴まえて、歓声を上げる。
「ヤッタ、捕まえたぞ!ハハッ、案外チョロいな、お前」
「色仕掛けなん、卑怯やん、キミ!子供の使う手とちゃうで!」
「何が色仕掛けだ、頭脳プレイて言うんだ、卑怯でもなんでもないぞ。隙見せたお前が悪い。…わー、ふかふかだー…」
 腕だけでなく脚も使ってガッチリと捕まえて、柔らかな毛並みに頬擦りした。
 獣の身体はびっくりするほど温かくて、久し振りに触れる生き物の体温に、心が癒されるように感じた。
「キ、キミ、案外大胆やな…」
 身体を密着させると自然に伝わってくる狐の霊圧も、優しく力強く、とても安心できる色をしていたことが、いっそう日番谷を心地よくさせた。
「柔らかいなあ、お前。それに、あんまり獣の匂い、しねえな。それどころか…なんだか、香…?みたいな、いい匂いすんな?」
「や、やめて、腹撫でるのはやめて…!ボク腹弱いねん。逆毛にするんも、やめて〜」
 昔可愛がっていた犬にするみたいに腹を撫でたら、猛烈に嫌がられた。
「なんだよ〜、いいだろ、腹くれえ」
「あかんて〜、腹はあかん。犬と一緒にせんといて」
「じゃあ、喉」
「キミはボクの命狙うとるんか」
「じゃあ、耳」
「なんやねん〜、ひっくり返さんといて〜」
 実際強いし、色々教えてくれるから、なんとなく敬うような気持ちがあったが、こうして抱えていると、大きなぬいぐるみみたいだった。
 身体の接触は、心の壁を、いとも簡単に取り払う。
 ずっと偉そうだった狐がとても可愛く感じて、日番谷は無意識に、ふふっと笑った。