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神隠しの杜−16

 咎めるように言うが、抱っこちゃんのように市丸の胸にしがみついたままでは、あまり非難に説得力もなかった。
 市丸は逃がさないとでも言うように、離さないから安心しろとでも言うように、片時も日番谷を下ろさないまま、片手で器用に布団を広げながら、
「固いお堂の床の上なん、可哀相なことできへんねん」
 続く行為が当たり前のように言う市丸に、日番谷はカッとして、市丸を突き放してその腕から飛び降りた。
 そんなに当たり前に行為になだれ込めるほど日番谷は大人の世界に慣れていないし、今までの市丸の言葉も全て、それが目的みたいに思えてしまって、不安になった。
「な…に考えてンだ、テメエ!俺の中のモンは、取り出したじゃねえか!もうあのやり方はしねえんだろ!それともおまえ、また…そんな目的で、ここに俺を連れてきたのか!」
 そのまま結界の端まで行って、市丸を睨みつける。
 結界の外で、日番谷がそばに来たことに気が付いて、獣達が興奮して、集まってくるのがわかる。
 だが、日番谷はその気になれば、そんな獣達など、一瞬で滅してやることができる。恐れることなど何もないし、この程度の結界だって、簡単に破ってしまえるだろう。
 市丸はじっと日番谷を黙って見ていたが、やがて小さく息を吐いて、布団の上に腰を下ろした。
「ボクが…、キミが、記憶を戻してボクのところに来てくれた時、どれほど嬉しかったか、わかるやろうか?」
 狂おしいほど熱く真剣な目で言われて、日番谷は少し怯んで、答えられなかった。
「キミを求めるあまりあないなことしてもうて、その上そのまま放ってしまったボクのところに、それでもキミが来てくれた時、ボクがどんな気持ちやったか、キミにわかるやろうか」
 わかるやろうか、と言われても、あれは誤解だった…とは言えなくて、日番谷は息を詰めて、緊張して市丸をみつめた。
「あの後会いに来なかった言うて、ボクを可愛らしく責めはったキミを見て、ボクはもう…、ボクの全てが、キミへの想いで、灼き切れてまうかと思うた。こない可愛くてこない大切な子を、これ以上、どうして放っておけるやろうか」
 次々と繰り出される市丸の言葉に、日番谷はまたも抵抗力を失って、ひとことも聞き逃すまいと、一生懸命耳を澄ませた。
 そんな言葉、真実かどうかもわからないと思うのに、嘘とも思えなくて、警戒心が、信じたい気持に負けてゆくのがわかる。
 結界の外に集まってくる獣達の気配も、市丸に向ける気持ちに押し出されて、日番谷の意識の中から、薄く掠れて消えてゆく。
「ここは、キミにとって、忌まわしい場所かもしれへんけども、ボクにとって、ここは、…どこよりも神聖で、忘れられない、思い出の場所なんや。虚だけやのうて、ボクまで狂わせるほど可愛かったキミが、今でもボクの胸を焦がすんよ?」
 そんなことは…、なかった。
 市丸の気持ちがわからなかった時、思い出すのは確かに忌まわしいものばかりだったが、こうして再び熱い目をした市丸を前にすると、そうばかりではなかったことを次々と思い出して、何もかもが一斉に浄化され、胸が熱くなるような想いばかりが残ってしまう。
 市丸の言葉に酔わされるように、熱い熱いものばかりが。
 市丸は結界の隅で立ち竦んでいる日番谷にそっと手を伸ばして、「おいで?」と言った。
 この男は、何度そう言って、手を差し出してくるのだろう。
 この男がそうする時、いつも何か不安を感じてしまうのに、日番谷は結局、何度その手を取ってしまうのだろう。
 日番谷は、市丸とその手をみじろぎもしないでみつめたまま、色んな、色んな思いが胸に甦っては過ぎてゆくのを感じ、…もう一度、市丸が「おいで」と言った時、ふらりと自分の足が、意思に反して市丸の方へ歩みを進めてしまうのを、どうすることもできなかった。



 結界の外に、日番谷のそばに、懐かしい、熱い獣達の熱気が集まってくる。
 そんなに端っこにいてはいけないと今すぐにでも連れ戻したいのに、市丸はじっとそれを我慢して、日番谷をみつめ続けた。
 もう一度、おいで、と声をかけた時、ようやく日番谷の可愛らしい足が、市丸の方へふらりと一歩を出した。
 まだためらうような、可愛らしいその足取りに、熱い熱い欲望が下腹部に集まって、そんなまどろっこしいことなどしていないで、立って行って捕まえてきて、力づくでここへ押し倒してしまえと叫んでいるけれど、市丸はなんとかそれを抑えて、静かな表情を崩さなかった。
 じっと手を差し出したまま、辛抱強く待っていると、日番谷はゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。
 理性と感情が葛藤して、とうとう理性が負けたような、そんな歩き方に、欲望がそそられる。
 とても怖いのに逆らえない、そんな不安そうな目にどうしようもなく煽られる。
 本来だったら、かつてあんな目に合わせた男に、再び組み敷かれるとわかっていて、来るはずなどない。
 それでも日番谷をそうさせるものは何だろうと考えると、ゾクゾクするほどの歓喜に肌が粟立つ思いだった。
 日番谷は…、あの時泣いて嫌がって、その後記憶まで封じてしまったほど、あの行為にショックを受けていた。
 それは完全な拒絶なのだと、あの頃市丸は思った。
 思い出したくないから、忘れるのだ。
 受け入れられないから、封じたのだ。
 それを知った時、その事実に、市丸は息が止まりそうになった。
 長い長い、朱色に染まった、夢のような道。
 小さな可愛い少年を連れて、妖しの世界へと向かった時、大きな歓びの中に、ほのぐらい、うしろめたいような気持ちも、ほんのりと感じていた。
 きっとこの子は許さないだろうと、心のどこかでわかっていた。
 もっと他に、時間をかけて、優しく彼の心に入り込んでゆく方法があるのではないかと、心のどこかで何度も、自分の行動を止めようとしていた。
 でも、できなかった。
 この方法は、初めて姿を見せる、一度きりしか使えない。
 まだ日番谷が、彼の欲望に気付いていない、その時しか使えない。
 そして実際、あの虚を滅してしまうべきタイムリミットは近付いていて、狐に変われる機会も、もうあまりなかった。
 日番谷があんなにも可愛らしくなついてくれていたのは、姿が狐であったからだということは、わかっていた。
 彼の普段の様子をこっそりのぞきに行ったこともあって、その時他の大人達に向けていた瞳の光の鋭さに、驚いた覚えがある。
 誰も、彼を子供だなどと思っていなかった。
 いや、まだ若く成長過程であるという意味での子供ではあるのだが、本来の、幼いと言ってもいい年齢であるということは、誰ひとりとして、意識していなかった。
 日番谷が、ひとりであんなに苦しんでいることも、まるで感じさせず、誰も気付いていない。
 その時市丸はハッキリと、自分が彼の特別であるということを、強く強く理解し、意識した。
 そのことで、なおいっそう、日番谷の元へ通わずにはいられなくなった。
 特別である自分を、確かめたくて。その特権を味わいたくて、生の彼に、触れたくて。
 だが市丸は自分が男であることも、同時に痛烈に思い知らされた。
 日に日にその特権は違う特権になるべきではないかと思い始め、彼の無垢な信頼をブチ壊してやりたいという凶暴な衝動に支配されてゆくのを感じた。
 生あるものは、逆らえない。
 特にオスには逆らえない。その強烈な本能、食欲と、性欲。
 そのどちらにも比較的欲望が薄いとばかり思っていた自分が、こんな業に囚われるなんて、思いもしなかった。
 それともその全ての情熱を向ける相手が、今までいなかっただけなのか。
 こんなにも理性を、何もかもを狂わせる欲望を味わったのは生まれて初めてで、市丸はその制御の仕方を知らなかった。
 今晩とうとう、あのお堂であの子を抱くのだ。
 そう思ったら、完全にその誘惑に魅せられて、理性の声などもう聞こえなかった。
 ゆらゆら揺れる、四方を囲む、幻想的な灯り。
 市丸の中の獣の本能を、集まってきた獣達の熱気が、更に煽り立てた。
 信じていた自分に裏切られたショックがありありと浮かんだ可愛い可愛い顔を見るのは、いっそ気持ちよかった。
 おままごとのような関係など、もう跡形も残す気はない。
 だが、そんなことをしたら、彼の心を失うのは、当たり前のことなのだ。
 遂に欲望を吐き出して、我に返ってそれに気付いても、フォローをするチャンスは与えられなかった。
 突然下された任務に赴かざるをえず、そのまますれ違い、日番谷は……
 日番谷が記憶を失ったからといって、市丸のことを拒絶したからといって、もちろん諦めるつもりなんて、毛頭なかった。
 ただ、彼を完全に手に入れるためには焦ってはいけないのだと学習し、周到にあらゆる根回しと情報収集を始め、期を待った。
 この山を三番隊の管轄区として手に入れたのも、その一つだ。
 とはいえ肝心の日番谷の心だけは、掴むための秘策など、何も思いつきもできなかった。
 それでも。
 日番谷は、来た。
 十番隊の隊長となって、三番隊の、市丸のところへ。
 記憶を取り戻し、あの夜のことを怒って、市丸のところへ。
 そして今、全てを知っても拒絶しきれずに、呼ばれるまま、市丸のところへ…。
 指の間をすり抜けていってしまったとばかり思っていた日番谷は、今、こうして目の前にいる。
 可愛らしい身体がとうとう手の届くところまで来ると、市丸は最後の辛抱をして、軽く誘うように、差し出した手を少し彼の方へ伸ばした。
 日番谷は睨むようにしながらも、夢を見ているような、どこかぼうっとした熱っぽい目をしていて、初めて人の姿で彼をここへ誘いに行った時、彼が自分に向けてきた目に似ていると市丸は思った。
 それは理性で抑えることのできない力に捕らえられた者の、つまりは恋をする者の目だと思えてしまうのは、市丸の願望だろうか。
 そんな目を向けられると、市丸の理性も、魔法にかけられたみたいに溶けていってしまいそうだった。
 可愛くて可愛くて可愛くて、今にも食べてしまいたくなる。
 とうとう市丸の手をとった日番谷を、驚かせないようにゆっくりとした動きでそっと抱き寄せて、
「…可愛えお目々や」
 心の底からそう言って、市丸は日番谷の目頭に、そうっと口付けた。
 日番谷は反射的に目を閉じて、市丸が唇を離しても、まだねだるように瞼を閉じているから、嬉しくなって、今度はその透き通るような瞼に口付けた。