.


神隠しの杜−15

 日番谷は大きな目をぱっちりと開けたまま、挑むように市丸を見た。
 挑むように、睨むように、宣戦布告をするように。
 まっすぐただ、揺るぎなく、射抜くように市丸を見た。
「キミが好きや」
 唐突に、市丸が、それに答えるように、言った。
 反射の速さで、脳が理解する前に、日番谷の頬が、勝手にパッと赤くなった。
 遅れて心臓が、煽るようにドンドン打ってくる。
 市丸は慈しむように、その頬に、指の先で軽く触れてきた。
 市丸の言葉で魔法をかけられたみたいに、その感触が、痺れてしまうみたいに気持ちいい。
 もっと触れてほしくて閉じてしまいそうになる目を、日番谷は必死で開いて、みじろぎもせず市丸をみつめ続けた。
「忘れたことなん、一度もない。キミは信じてくれへんかもしれんけど、何もかも、キミが好きで好きでしたことや。ボクはあの日、キミの手を引いて…、自分は天国へ向かっているんやて、本気で思うてた。ボクのこと、狐のお友達としか思うてへんキミの、その壁をブチ壊してしまいたかったんや。ほんま言うてまうと、虚退治も、もちろん必要ではあったけれども、ほとんど口実や」
 そんなことを言われても、怒りが全く湧かないなんて。
 その方法は明らかに間違っているけれども、その思考回路は四番隊よりも、いっそ十二番隊でどうにかしてもらった方がいいんじゃないかと本気で思ってしまうけれども、…
「頭おかしいんじゃねえの、テメエ」
 そんなことを言いたいんじゃないのに、口から飛び出してきたのは、とんでもない言葉だった。
「壁ブチ壊すついでに、信頼関係もブチ壊してたら、世話ないぜ」
 人情的には言うべき言葉ではないが、常識的には、言っておいた方がいいに違いない言葉だ。
 日番谷が冷たく言うと、市丸は気を悪くした様子もなく、ああ、キミは、まだ男として恋したことがないんやね、と言った。
「恋した相手の恋愛対象になられへんのやったら、いっそ信頼関係なんていらんねん。そんなんやったら、いっそ憎まれた方がマシやねん」
 市丸の言葉に、日番谷はびっくりして耳を疑った。
 男として、というよりも、それは市丸限定じゃないのかと本気で思った。
 そんな、破滅的な…と日番谷は思ったが、もしかしたらそれは、情熱的、と言えるのかもしれない。
(いや、言わねえだろ!ムチャクチャだろ!)
 思うが、本当にムチャクチャなのは、そんな愛し方をする市丸よりも、そんなことを言う相手の、手を払えない自分だろう。
 そんな男に想われて、あんな目に会わされて、いい迷惑だ、という言葉では足りないくらい、許せないことなのに、忌むべきことなのに、有り得ないことに、日番谷の心は嫌悪感でないもので震えていた。
 その事実を受け入れるのが怖くて、顔が赤かろうが手が震えていようが、ひたすらに市丸を睨みつけることしかできない。
 手を離せ、と思うのに、実際に手を離されることを想像したら、胸が潰れてしまうくらいに切なく苦しく感じた。
「なあ日番谷はん?今ではキミも、隊長さんや。自分のことは自分の意思で決めたらええし、自分で責任をとることもできるんよ?」
「……」
 日番谷の手を握る市丸の手が、少しだけ、引き寄せるように彼に寄せられた。
「キミの中の虚、ボクに取り出させてもらえないやろうか。そいつのことは、ボクが誰より知ってるんよ?」
 市丸は日番谷の目をまっすぐにじっと見て、言った。
「ボクを、キミの、中に入れて?」
 悔しくて泣けてしまいそうなほど、もう抗う術もない。
 なぜなら市丸の手は大きくて、指の長い、芸術家のような手をしていて、あの時日番谷を迎えに来た男と同じ手で、その手でしっかりと手を握りしめられてしまったら、あの時男に魅せられて、ただただみつめていたあの気持ちが甦ってきて、もう言葉も出ない。
 そしてその同じ顔で、同じ声で、ずっと日番谷を想っていたなどと言うのだ。
 日番谷の気持ちを踏みにじって、裏切って、利用して捨てていったわけではなく、市丸も苦しくて、日番谷のことをとても好きで、今この再会が心から嬉しいと言うのだ。
「…俺は、もう二度と、絶対、おまえなんか」
 情けないくらい声が掠れて、それが本心なのかどうかさえ、もはや自分でもわからない。
 だが、その言葉で市丸の手がピクッと震えて、込められていた力が少しゆるんだので、日番谷はハッとして、とっさに逃すまいとでもするように、その手を握った。
 ほんの少しの力だったのに、市丸はすぐに気が付いて、その目がみるまに熱っぽくきらめいた。
「了解や」
 嬉しそうに言ったとたん、つないだ手から、市丸の霊気が入ってきた。
 痺れるようなその感覚に、ビクッと背筋が震える。
 市丸が、日番谷の手から、奥の、奥へ。
 巨大な霊圧が凍てつく大地のように全てを凍らせる、日番谷の内部へ。
 その感覚に怯えながらも、閉ざされていた門が次々と開き、揺るぎなく力に満ち溢れた彼の霊気の手を、みるまに迎え入れてしまう。
 市丸は、日番谷の冷気にも、その圧力にも全く動じず、怯みもせず、飛ぶように内部を駆け抜けた。
 まるであの、白い狐のように。
 溢れ出る強力な霊圧をものともせず、日番谷に近付き、声をかけ、毎晩のように会いに来た。
 日番谷の胸に、月光を浴びてキラキラと幻想的に輝きながら、家々の屋根を飛ぶように駆けてゆく美しい狐の姿が甦った。
 日番谷は警戒し、距離を測りながらも、嬉々として彼を迎え入れた。
 その力に憧れ、その傍で心を安らげ、…そして人間の姿で現れた彼に、息をのむほど魅せられた。
 彼に手を引かれてゆく先が、朱い鳥居が永遠に続く神秘の道のその先が、胸が苦しくなるほどの、恋の成就を予感させる甘い陶酔感に満ちた世界であることを、心のどこかで夢見ていた…
「あ、あ、あ…っ…」
 日番谷が大きく身体を震えさせると、市丸はその手を引いて倒れ込んできた身体を抱きとめて、抱きしめた。
 手からだけではなく、全身が彼の霊圧でくるまれた感覚に、さらに熱い痺れが全身を駆け抜ける。
 身体の奥の奥を探られる感覚に、知らず肌が粟立って、体温が上昇してくるのがわかる。
(…う、そ…)
 思わず知らずぎゅっと市丸の着物を握ると、いっそう力強く抱きしめられた。
 それはまるであの時むりやり市丸に教え込まれた悪夢のような、そして抗い切れない悦楽をも連れて来たあの感覚に似ていて、どうしようもない不安に襲われながらも、市丸以外に頼るものもない。
 そんな状況に追い詰めているのは市丸なのに、その本人に縋るしかないというのも、あの状況と同じだった。
 市丸が、日番谷の中を縦横に探りながら、突然ブルッと震えた。
 そしてそれを払うように、いっそうしっかりと日番谷を抱き締めてくる。
「…日番谷はんの身体の中はあないにあったかかったのに、キミの中、めっちゃ冷たいんな…?」
 苦笑するみたいな声が頭の上から聞こえて、市丸も楽々そうしているわけではないことがわかる。
「それでもやっぱりキミに包まれとるの、ええ気持や…」
 うっとり言う声は本当にそう思っているみたいで、それを聞いたら胸がいっそう熱くなってきて、閉じていた最後の扉が、とうとうゆっくりと開き始めたのがわかった。
 市丸は素早くその中に滑り込み、一直線に目的地へと向かってゆく。
 胸の奥底に隠していた大事な大事なものが暴かれて、奪われてゆくような心もとなさ、淋しさのようなものをとっさに感じて、思わず閉じかけた扉を市丸はするりと抜けてゆく。
 入ってきた時と同じように、ためらいもなく、迷いもなく出てゆくその手に、追ってすがってしまいそうになり、日番谷はぎゅっと閉じた。
 気が付いたら日番谷は市丸の大きな胸にしっかりとしがみつきながら、荒い呼吸を繰り返していた。
 いつの間にか全身の肌が燃えるように熱く、あそこに血が集まってしまっていた。
 どうしていいのかわからなくて、泣きそうになりながら震えていると、市丸が熱い息を吐いて、ぎゅっと日番谷を抱き締めた。
「キミの中のもん、すっかり取り出したで。よう頑張ったね?」
 子供扱いされているようなその言い方にムカついて、そして目的を果たした今、市丸が今にも身体を離してしまうのが怖くて、日番谷は黙ったまま唇をかみしめた。
 だが市丸は黙ったまま、日番谷を抱き締める腕を離そうとはしなかった。
 ぴったりと密着した胸から、市丸が辺りの気配を窺っていることに気が付いてふと見ると、ふたりの周りにあの時と同じような獣が集まりつつあった。
「あ…!」
「しっ!」
 日番谷が怯えた声を上げると、鋭く市丸が言って、見上げると、大きな口がゆっくりと吊り上がってゆくのが見えた。
「結界張ってあるよって、あいつらは近付けへんし、ボクらのこと見られもせん。せやけどキミの可愛え声は、外まで聞こえてしまうねん」
「…いつの間に、結界なんか…」
 獣達の気配が自分を狙っていることをハッキリと感じたため、記憶が甦って本能で怯えたが、今はもうあの時の日番谷ではない。
 こんな結界も自分で張れるし、市丸に対抗することだってできる。突き放すことだって。
 ただ、今は、あの時と違う理由で、どうしてもそれができないだけだ。
 市丸は日番谷を抱いたまますうっと立ち上がり、お堂の中をゆったりと横切っていった。
 中で移動したのがわかるのか、獣の霊が結界の外で、ふたりの後をついてきた。
 市丸は気にした様子もなく、物置のような戸を開けた。
 中にはひと組の布団が入っていて、市丸は日番谷を片腕で抱いたまま、片手でそれを引きずり出し、再びお堂の真ん中へ戻る。
「…おい、何始める気だ…」