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神隠しの杜−13
「ボクは…あの時キミの中に、ボクを注ぎ込んでもうた。虚の欠片が混じってた、ボクの霊圧も一緒になァ。キミの言うとおり、キミと間近で向かい合うまで、ボクもそのことに気付かなかった。キミが、とても上手にそれをおなかの中に閉じ込めてはったから」
あの時…と言われて、日番谷はとっさに赤くなった。
今朝はまだ思い出していなかったと言っておきたいのに、これではもうタイミングを逃している。
「せやけど、ボクの霊圧やから。他の誰にもわからなくても、ボクにはわかるんよ。とてもちっちゃなものやから、このままいったら、キミの中で、そのまま消えてしまうかもしれへん。それでええんやったら、ボクもそれでええ。…どないする?」
わけのわからない選択をいきなり迫られて、日番谷は混乱した。
「お前の霊圧に…虚の欠片が混じってたって、どういうことだ…?」
「キミも薄々察してはるように、ボクがあの虚を討伐しに行ったのは、あれで二度目やった。ボクは…」
言いかけて、市丸はさっと後ろを振り返って、
「あかん。閉まってまう。時間があらへん。説明はあとでいくらでもしたるよって、行くか、やめるか、今すぐ決めてや」
「そんな…」
そんなことを言われたら、行かないわけにいかない。
何がなんだかもわからないうちに、またも市丸に連れ出されてしまうのは、不本意この上ないことなのに。
「もう一度、あの山に行くのか?」
「そうや。行くんやったら、その羽織は、ここで脱いでな?」
目立たないために?本当に?
だが、無言のまま急げと促してくる市丸にせきたてられ、ぐずぐず迷っている暇はなかった。
隊首羽織を脱いで氷輪丸を背負い直した日番谷に、市丸がさっと手を差し出してくる。
指の長い、芸術家のような、あの男と同じ手を。
感情に流されてはいけないと思うのに、胸に熱いものが込み上げてきて、気が付いたら日番谷は、その手を取ってしまっていた。
市丸はしっかりとその手を握って、素早く外へ出ると、ふわっと高くジャンプした。
家々の屋根を越え、小さな木立を抜け、あの夜と同じように、ふたりで夜空を駆け抜ける。
やがて現われた小さな門をくぐり、地獄蝶に導かれて、暗くて狭いトンネルを進んでゆく。
やがて見覚えのある、あの大きな建物の前へと出ると、日番谷は潜在的な恐怖で、無意識に市丸の手を、強く握りしめていた。
どこまでも続く、朱色のトンネル。
小さな可愛らしい手を再び握って、市丸はまた、その前に立っていた。
面倒くさくて忌々しいあの虚を倒すため、最初に通った時は、長くてただ退屈なだけの道だった。
二度目に来た時は小さな可愛い手を握っていて、その道は神秘の世界へ続く道のように感じた。
今またその同じ手を握って、その手が小さく震えているのに気が付いて、市丸はそっと少年を見下ろして、怖い?と聞いてみた。
少年は怒ったように顔を上げ、「平気だ」と言って睨んできた。
「ほな、行くで?」
軽く手を引くと、日番谷はちょっと足をもつれさせそうになったが、すぐに力強く歩き出した。
小さな子供の歩幅はせまくて、本人に気付かれないようにさりげなく、市丸は日番谷に合わせてゆっくりと歩いた。
少しでもこの時間が長ければいいという願いもあった。
日番谷の小さな手は柔らかくて、この手であれほどの冷気を出すのかと驚いてしまうほど、温かい。
その手が本当に可愛くて、いつまでも握っていたいのに、彼がそれを許すのは、この妖気の漂う神秘の道を歩く時くらいのものだからだ。
「ボクが向こうとつないだ道やから、ボクと手ぇつないでないと、キミ途中でどこかに迷い込んでしまうかもしれへんよ」
そう言ったから、日番谷はひとりでこんなところへ置いて行かれることを恐れて、決して離されないように、しっかり市丸の手を握ってきてくれる。
本当は、よほど意図的に道から外れない限り、どこかへ迷い込むようなこともないだろうが。
市丸のその口実は、日番谷にとっても、実はこの道をとても怖がっているみたいな彼に、大人に手を引いてもらっても彼のプライドを保てる、絶好の口実にもなっているようだった。
出口がまるで見えない、この長くどこまでも続く朱色の道を歩いてゆく途中、日番谷は何度も市丸の存在を確かめるように、ぎゅっと握る手に力をこめてきた。
その度にその手をぎゅっと握り返して安心させてやりながら、それ以外にも時折振り返っては、彼と目を合わせ、励ますように微笑みかけてやる。
最初にふたりで歩いた時は、日番谷は霊術院の着物と袴姿だった。
今は羽織は羽織っていないが、市丸と同じ死覇装だ。
それでも彼の体格は、あれからそれほど変わっていない。
市丸の手の中に入ってしまいそうな小さな足にはいた、眩しいほどに白い足袋が、袴の下からちらちらと見え隠れしながら、ちょこちょこと擬音が聞こえそうな可愛らしい動きで休むことなく歩を進めている様子が、以前も今も、胸を騒がせるほどに愛らしい。
彼と手をつないで行くこの道が、二人の永遠のパラダイスへと続いていたらどんなにいいだろうと、市丸は真剣に思わずにはいられなかった。
いや、市丸にとってはこの道は、…市丸が支配できる世界へと彼をさらってゆける、天国への道にも近いものだった。
小さなその手を引きながら、愛しい愛しいその少年を、自分の思いのままにできる瞬間を、肌が粟立つほど待ち侘びた。
黙って歩いていると頭がおかしくなってきそうなほど、延々と続く鳥居の朱が、時折灯っているランプの光が、一足ごとに、市丸を狂気の世界へといざなってゆくように感じる。
理性も立場も何もかもを鳥居の向こうに置き去って、ただこの少年だけを手に入れたい欲望に、負けてしまいそうになる。
ゆったりとカーブを続けるその妖しの道のその向こう、神様の力の宿った、神聖なこの道のその向こうに、永遠に日番谷と二人、閉じ籠められてしまったらいいのにと思う。
そんな思いに引き込まれそうになる度に、小さな手が力をこめてきて、市丸を元の世界へ引き戻す。
古いランプが市丸を照らす度に、その影が狼の姿になっていて、日番谷に全てを見抜かれてしまうのではないかと不安になって、日番谷を励ますような顔をしながら、彼の目の中にその色がないか、慎重に覗き込まずにはいられない。
この鳥居を抜けてしまったら、自分は自分を保つことができるのだろうか。
あの虚やその下僕達のように、獣になってしまうのではないか。
神秘の道が生み出す空気に、それが不安なのか期待なのか、それすらわからなくなってきてしまう。
この道を抜けても、この少年は、自分を受け入れてくれるのだろうか。
この道を抜けても、自分はこの少年を失わずにいられるのだろうか………
夢に見たのと同じお堂のような古い建物の中で、日番谷は市丸と向かい合って座っていた。
日番谷にとってそこは、二度と来たくない、思い出したくない忌まわしい記憶のある場所だったが、同時に胸が苦しくなるような、切ない気持にもさせる場所だった。
「さあ、それじゃ、最初から説明してもらおうか」
日番谷とは違って懐かしそうにお堂の中をぶらぶら見て回っていた市丸に焦れて、ようやく彼が満足して腰を落ち着かせたところで、早速日番谷は切り出した。
「昔と変わらへんな、ここ」
日番谷が、一秒でも長くここにいたくないと思っていることを、わかっているに違いないのに、市丸はのんびりと答えた。
いや、厳密には、日番谷の言葉に答えてはいない。
苛々して日番谷が、そんなことはどうでもいいから、と言おうとしたら、
「この空間は、あの虚がお山の力を借りて作ったもんや。消滅したら、ここも消えてしまわなおかしい思わへん?」
言われて日番谷は、ギクリとした。
それはつまり、日番谷の中にその虚がいることの証明だと言いたいのか。
無意識に自分の腹に手を当てた日番谷に、市丸はふっと軽く微笑んで、
「ちっちゃな霊気でも、このお山につながっとるらしいんよ。お山の霊気と、その霊気と、なんでも取り込んで、実体作る。キミからいただいた霊気をここに送って、ここでこないな空間を作る」
「じゃあ、じゃああの時の虚が、またここにいるってことか?もう一度、ここで、…あいつを呼んで、討伐しねえといけねえってことか?」
用心深い虚だと言っていた。力も特殊で、呼び寄せることが、一番難しいのだと…
まさか、ここでもう一度、あの時のように、あの方法で、呼び寄せようということか。
それで再び、日番谷をここへ連れて来たのか。
日番谷が顔色を変えると、市丸はすばやくそれを読み取って、
「あかん。それはできん。あの方法は、二度と使わん」
思いがけない鋭さで言われて、日番谷の方が驚いた。
その顔を見て、市丸はふっと息を吐くと、
「…あの虚は、好みがえげつないねん。可愛え子が泣き叫ぶの見るのが好きやねん。そういう趣向やないと、出て来よらん。そうやったやろ?…キミが…、嫌ややめて言いながら、ほんまは喜んではるんやったら、ボクもはりきってまうけども、…あないなお目々で泣かれてもうたら、…」
ずっと人でなしだと思っていたから、そんなことを言われて、また驚いた。
あの時は、全く市丸が好きでやっていることだと思っていたが、なかなか出てこない虚をなんとかおびき出すために、あんなことをしたのだろうか。
優しくなったり、酷くなったり、それも日番谷を操る手なのだと思っていたが、本当は、そんなやり方は、彼の本意ではなかったのだろうか。
(…騙されねえぞ)
信じかけて、慌てて日番谷は気を引き締めた。
これも、自分がそうだったらいいと思っているだけで、そう思いたがっていることを相手の前にチラつかせて飛び付かせるというのは、よくある手なのだ。
日番谷が、…そうであったらいいと思っていることを、…。
「じゃあ、どうする」
まるで飢えた子どものように、市丸の真意を知りたがっていると思われたくなくて、あえて日番谷は、それ以上その話には触れなかった。