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神隠しの杜−12

 ひどい汗をかいて、日番谷は目覚めて呆然とした。
 なんということだろう。ついに、全てを思い出してしまったのだ。
(有り得ねえ…)
 無意識のうちに震えていた手をじっと見て、額の汗をぬぐって起き上がる。
 静かな部屋に、時計の音だけが小さく響いていた。
(俺…あんなことも忘れたままで…あいつのところに会いに行っちまったんだ…)
 市丸が敢えて日番谷の記憶を呼び覚まそうとしなかったわけも、できるならばそのまま忘れさせておこうとしたわけも、すっかり理解できた。
 自分がショックで記憶を封印し、何もかも忘れてしまったわけも、隊長となって最初に市丸を見た時に、こいつに近付いてはいけないと、強く思ったわけも。
 それなのに、最初に戻った白い狐との優しい記憶に惑わされて、二人で千本の鳥居の下を歩いた神秘的な記憶に心を乱されて、彼の警告も聞かず、ふらふらと市丸に近付いてしまった。
 挙句の果てには、市丸に記憶が戻ったと言って、どうしてその後会いに来てくれなかったんだと責めるようなことまで言って、今夜、二人で部屋で会う約束を……
「うわああああああ!」
 思わず悲鳴を上げたら、隣の部屋から驚いた松本が飛び込んできた。
「隊長、どうされました?!」
「あっ、いや、何でもねえ、なんでも!」
「でも、ひどい汗。嫌な夢でもみたんですか?タオルを絞ってきますから、待っててくださいね?」
 慌てて部屋を出てゆく松本の後ろ姿を見やって、日番谷はドキドキと跳ね上がる鼓動を落ち着かせることに、必死になった。
 冷静に考えれば考えるほど、自分の今朝のあの訪問は、マズかった。
 中途半端な記憶と推測の域を出ないあやふやな根拠から、虚討伐とか囮に使ったなどと言ってしまったから、市丸は完全に全てを思い出したと思っているだろう。
 全てを思い出した上で会いに行ったのだと、あんなことがあっても彼を許すと、彼との関係を復活させたいと言いに行ったも同然だ。
 それで市丸はあんなに驚き、喜び、…
(どどど、どうしよう…)
 ここまで思い出したといっても、市丸の本心はというと、やっぱりよくわからない。
 あの出来事について、詳しく知りたいという気持ちは変わらなかったが、市丸の事情によっては、とても危険な状況に立たされるかもしれない。
 例えば、…市丸が、事実を思い出した日番谷を、闇に葬り去ってしまおうと思っている可能性もあるわけで、あの場ですぐに説明をしなかったのは、その準備をするための時間が必要だったのかもしれない。
 あるいは市丸は、日番谷と身体の関係だけ復活させることにはやぶさかではなくて、すっかりその気で来るかもしれない…
 あの夜、市丸に与えられた、この世のものとは思えない快楽と苦痛、そして屈辱。
 思い出してもそれを事実として受け入れるだけで精一杯で、市丸との今後について考えるまでは、追いつかない。
 でも時間だけは、刻一刻と過ぎてゆき、…
(とりあえず、あいつがどう出るにしろ、説明だけは、聞いておかないと)
 本当のことを言うとは限らないから、冷静に頭を働かせて、真実を見極めないといけない。
 日番谷は外へ出て井戸のところへ行くと、上半身裸になって頭から水をかぶった。
 冷たい水が気持ちの悪い寝汗や、淀んだ思考をスッキリさせてくれる。
「きゃーvvv 隊長、なにやってんですかvv」
 なぜか嬉しそうな副官の悲鳴を聞いて、日番谷はチッと舌打ちをして、手拭を取った。




 その夜日番谷は仕事を早めに終え、食事も早めに十分にとっておき、風呂にも入ったが、もう一度死覇装を着た。
 あの時とは同じでない、死神で隊長なんだということを、忘れさせないためだ。
 もちろん、闘うことになるかもしれないことも、考えに入っている。
 日番谷はするべきことを終えると畳の上に静かに座り、目を閉じて、あらゆる場面を想定し、自分がとるべき態度、言うべき言葉を考える。
 まず、今朝の段階では完全には思い出していなかったことは、言いづらいが、言っておかねばならない。
 そして全て思い出した今、彼が自分にしたことを、許せないと思っていることも。
 決して公にして、彼の立場を危うくさせようと思っているわけではない。
 市丸は市丸で、詳しい事情はともかく、虚討伐のつもりでしたことなのだ。
 実際、あの後のことはもう覚えていないが、彼は虚を討伐したのだろう。
 日番谷の痴態に誘われてとうとう現われた虚を、あの一撃で、見事葬り去ったのだろう。
 だからそのことは何の記録にも残っていないし、何の問題もなく、何事もなかったかのように、日は過ぎた。
 口止めする必要もなく、あんなことをされて日番谷が誰かにそれを言うことはできないだろうし、それどころか記憶を失くしてしまったのだから、彼にとって万々歳だったろう。
 そもそもその詳細は、日番谷は何も知らない。
 当時、彼が誰で、何者であったのかさえ、知らなかったのだ。
(…詳細っていっても、だいたい予想した通りだろう。修正点といえば、あれが初めての討伐ではなく、あいつは一度、あの虚を討伐し損なって、それを隠すために、こっそりやり直す必要があった)
 のんびり出てくるのを待つ時間がないから、無理やり日番谷を囮にして、呼び寄せたのだ。
 全く霊力のない子供では囮にならないし、人間の子供をさらってくるより、なにかと面倒がなかったのだろう。
 いざとなったら自分で自分の身を守ることができ、あの状況の中でも、必要以上に怯えない。
 ひとりぼっちで孤独だったから、簡単に市丸を信じて心を開き、夜中にいなくなっても、朝までに帰れば、誰も心配することもない……
(…チッ)
 当時の自分が、あの時の市丸にとって、あらゆる点で都合が良かった、と思えば思うほど、胸がギリギリと痛んだ。
 日番谷が苦しんでいたから霊圧の制御方法を教えてくれたのではなく、抑える方法を覚えてもらわないと使えないから教えてくれたのだ、とまで思えて、胸が苦しくなる。
(…どんな言い訳しやがるのか、楽しみだぜ、畜生)
 日番谷は自分の心が乱れていることに気が付いて、一度息を吐き、大きく吸った。
(大丈夫、俺はもう、あの時の何も知らなかった、力の使い方もまだうまくなかった、学生じゃない)
 あの時市丸が日番谷の抵抗を封じるために使った技も、今なら撥ね返す術も、防御する方法もわかる。
 反対に彼の力を抑え込み、捩じ伏せる技だって。
 それに、あんなことをされるかもしれないとわかっていたら、斬魄刀を奪われたりしなかったし、体格的に戦うのに不利な距離にまで近寄ったりしなかった。
(もう二度と、あんな隙は見せねえ)
 いつでも戦う心の準備さえできていれば、少なくとも不意打ちで捕まることはない。
 学生時代、そして死神になってから覚えてきたいくつものいくつもの動きのパターンが、頭の中を流れるように過ぎてゆく。
 市丸は、まだ来ない。
 あれから何も思い出さなかったら、何も知らないまま無邪気に彼を待っていたかと思ったら、ゾッとした。
 ふたりで食事なんて、冗談じゃないと思った。
 孤独だった時に差しのべられた手は、人は一生忘れない。
 そんな気持ちさえ計算の上で、どこまで利用し、何度裏切ったら気が済むのか…
「…十番隊長さん」
 不意に、扉の向こうから、待っていた男の声がした。
 日番谷はぱっと目を開けて、息を吐いて、立ち上がった。
「…入れ」
 スラッと戸が開いて、現れた市丸は、隊首羽織を着ていなかった。
 あの時と同じような、夜のように黒い死覇装姿だった。
「遅くなって、堪忍な?」
 闇の中でさらさらと輝く、銀の髪。
 ほっそりと背が高く、神秘的な、その姿。
 一瞬あの時に戻ったような錯覚がして、気が乱れた。
 市丸は音もなく扉を閉めてから、じっと日番谷の顔をみつめている。
「おまえ、羽織は?」
 口をついて出た言葉は、なんとも間抜けなものだった。
「あれは目立つよって、脱いできた。キミもその羽織、脱いどきや?」
「…なんで。どこかに行くつもりなのか」
「最初に言うとく。キミのその身体の中に、あの時の虚がおるで」
「なにっ!」
 完全に、予想を超えた言葉だった。
 その一言で、主導権を掴み損ねたことに気付き、舌打ちしたくなる。
「それ追い出したかったら、ボクとおいで。道、開けてきた。今のうちや」
「適当なこと言ってんじゃねえ。俺の中には、何もねえ」
 騙されるものかと毅然として言いながら、自分の中を、慌てて探した。
 そんなものが中にいたら、気付かないはずがないのだ。
 自分も、他の死神達も。
「キミ、霊圧抑えるの、ほんまにうまくなったよね?あのおっきな力抑え込むのに、ちょっとばかりちいちゃなゴミが入ってても、気付かへんやろう」
「バカな。そんな小さなもんだったら、逆に俺の霊圧に潰されて、跡形もねえ。第一、俺に感じねえもん、どうしてお前がわかるんだ」
 日番谷の指摘に、市丸はじっと日番谷を見てから、
「…ボクの霊圧が、それをくるんどるから」
「!」
 またも想像がまるで追いつかないことを言う市丸に、日番谷は言葉を失った。