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金魚−7

「バカもたいがいにしとかねえと、そのうち脳ミソ溶けちまうぞ?」
「もう溶けとるよ?日番谷はんの魅力に、とっくにメロメロや」
 市丸の言葉に日番谷の顔が一瞬赤くなったように見えたのは、願望が見せた幻だろうか。
「とにかく、もう放せ」
「…」
 流れから、ここらへんが引き時だとわかっていたのに、身体がいうことをきいてくれなかった。
 どんなことにしろ、引き際が肝心なのだ。
 駆け引きも、勝負も、それを見極めることができていたからこそ、負けたことなどない。
 それなのに、この諦めの悪さはなんなのだろう。
 頭でどれだけ「このへんでお終い」と思っても、身体は日番谷を放すのはイヤだと言っている。夢にまで見た柔らかなその身体を、もっとずっと抱きしめていたいと言って、理性のいうことをきいてくれない。
 なんとも厄介で、制御の難しい感情だが、身体中を満たしていくこの未知のエネルギーは、指先まで痺れさせるほどの陶酔感ももたらした。
 黙ったまま、胸にすっぽりと入ってしまう小さな愛しい身体を力いっぱい抱き締めて、胸いっぱいにその匂いを嗅いだ。
「い、…ちま、る…!」
「ごめんな…身体がゆうこときかへんねん」
「何?」
「たぶん、何者かの鬼道にかかっとるんですわ」
「はあ?」
「ボクの力では、どうもならへん。もう少しだけ、辛抱してや」
「お前な、どう見ても、お前の意思でやってんじゃねえか!」
「ちゃいますて、ボクの意思では、もうそろそろ放さなあかん思てますねん。でもダメやねん。身体動かへん」
「…」
 市丸の言葉に、日番谷が大人しくなった。
 これはもしかして、脈があるのでは…と心臓が高鳴った時…、
「…破道の四…」
「うわ、日番谷クン!」
 日番谷の指先に霊力が集められるのを感じ、すんでのところで飛ぶように離れて、市丸はその攻撃をなんとか避けた。
「な、何しはりますの!危ない子ォやな!」
「チッ、素早い野郎だ。なんだよ、やっぱり動けるじゃねえか、ウソつきめ」
「今本気でしたやろ?!」
「当たり前だ、痴漢みたいな真似しやがって」
「痴漢は酷いですわ。愛情表現言うてほしいわ〜」
「相手が嫌がってたら、痴漢なんだよ!」
 市丸の全く悪びれない様子に、とうとう日番谷はキレた。
「だいたいテメエ、松本と付き合ってンじゃねえか!オレにこんなちょっかいかけて、松本に悪いと思わねえのかっ!!」


「………え?」


 その言葉には、さすがの市丸も驚いた。
 あまりのことに絶句して、まじまじと日番谷を見てから、
「…別に乱菊とは付き合うてへんよ?」
「ウソつけテメエ、そんな寝言が通用するとでも思ってんのか?!不誠実にもほどがあるぞ!」
「いや、せやから、ウソやないし。乱菊とは、ただの幼馴染や。大切なのは確かやねんけど、日番谷はんに対して思とるのとは、全然違う気持ちや」
「お前…オレの大切な副官の、しかも女性の気持ちを弄んでやがんのか?!これ以上いい加減なことしやがったら、オレが許さねえぞ!」
「これだけ言うてんのに、そないにボクって信用ないん?ショックやわ〜。残念やけど、乱菊かてボクのこと恋愛対象と思てへんよ?なんやったら乱菊に聞いてもろてもかめへんし」
 そこまで言って、ようやく日番谷は少し冷静になったようだった。
「…ウソだったら殺すぞ?」
「ホンマやったら、ボクと付き合うてくれる?」
「うるさい、確認が先だ!」
 とんでもない誤解だが、もしも日番谷のあの頑なな拒絶の理由がそれなら、猛アタックをかけるこんなチャンスはない。
 三番隊舎を飛び出す日番谷を、市丸も急いで追いかけた。





 十番隊隊長に就任して数日経った頃、市丸が初めて執務室に顔を出した。
 十番隊が落ち着いてきた頃を見計らって来たのだろう。それでも日番谷は忙しかったが、少なくとも執務室にはいた。
 個性の強い隊長達の中でも、忘れられない男だった。
 その男が、まさか自分の隊舎に挨拶に来るとは思わずに心底驚いたが、もっと驚いたのは、
「乱菊はボクの同期やねん。新隊長さん、よろしゅうな」
 それでわざわざ様子を見に来たのだとすぐにわかったが、あの三番隊隊長が、この数日ですでに信じるに値する副官だと認めていた松本の同期で、その同期の新しい上官にわざわざ挨拶に来るくらい松本を大切にしているということ…大切にしている誰かがいるということに、驚いた。
「…しかし、十番隊長さん、あの机と椅子、そのまま使いますの?」
「そうだが、何か?」
「いやあ〜、別にええねんけど…使い心地、悪ないです?」
 日番谷と机を交互に見比べている市丸に、子供用のサイズのものに替えた方がいいのではないかと思っていることにすぐ気がついて、ムッとした。
 これでやっぱり、市丸は嫌な奴だと思った。
 日番谷がムッとしたことにすぐ気がついた松本が、フォローのつもりか、
「大丈夫、日番谷隊長の椅子には、私お手製の超厚お座布団が…」
「松本!」
 余計なことを言われて思わず日番谷がたしなめると、
「ギン、アンタが余計なコト言うから、怒られちゃったじゃない!」
「ええ?素朴な疑問やん〜。聞いてみただけやん〜」
「日番谷隊長はね、あんたなんかより、よっぽど大人なんだから!口の聞き方に気をつけなさいよね?」
「十番隊長さんが大人なのはわかるけど、乱菊に口の聞き方について言われとうないな〜」
「とにかく、あたしの隊長に失礼なことしたら、許さないからね!」
「今、あたしの隊長言うた?」
「あたしの隊長よ、何か文句あるの?」
「確かに十番隊の隊長さんやから乱菊の隊長さんやし、文句はないねんけど、妬けるわ〜」
「勝手に妬いてなさいよ」
 松本と話している時の市丸はまるで別人だと、その時日番谷は思った。
 あまりに強烈な第一印象と、あまりにギャップがありすぎて。
 市丸にとって松本は、特別な、特別な女性なのだと思った。
 松本にとっても市丸は、大切な存在なのだと感じた。
 それから毎日のように十番隊に顔を出すようになった市丸に、だから日番谷は何の疑いもなく、松本に会いに来ているのだと思っていた。
 人を食ったような態度や何を考えているのかわからないところは変わらなかったから、市丸のことはやっぱりあまり好きにはなれなかったけれど、二人の作り出す空気は優しくて、とても好ましいと思ったから。
 殺伐とした死神という仕事の中で、そういう絆が、とてもかけがえのないものに思えたから。大切にしてやりたいと思ったから。
 恋愛事には疎いけれど、自分がいては邪魔だと思って、松本がいる時に市丸がくると、すぐに逃げるようになった。
 自分が会いたくないからという理由も少し混じっていたし、気の利かせ方などよくわからなかったから、うまくできていないかもしれないとは、思っていた。
 だが、それそのものが誤解だったとは、思ってもみなかった。
 市丸が少しずつ自分に向けてくるようになった、わけのわからない好意のようなものも、だから許し難く不誠実だと思えて、我慢できなかった。
 まるで自分を口説いてでもいるような、そういう市丸の一言一言は、自分までもが松本を裏切っているような、とても嫌な気持ちにさせた。
 市丸が自分に好きだと言えば言うほど、彼の真実が遠くなるようで、吐き気がした。
 そんな気持ちがいつの日か…ブレーキになっていたことに…気付きたくなんか、なかった。
「松本!」
「あれ、隊長、どうしたんですか、そんなに慌てて」
 十番隊舎へ向かった日番谷は、その途中で松本を見つけると、素早く駆け寄った。
「正直に答えてくれ、お前、市丸と付き合ってるんだよな?」
 そうあってほしいと思いながら、そうでないかもしれないと気付いた瞬間の、眩暈がするほどの開放感と、恐怖。
「ええ〜、いきなり何ですか?付き合ってませんよ〜。何の冗談ですか、それ」
 その答えに、どんと胸に衝撃をくらったように感じたのは、自分が守ろうとしていたものが幻だったと知ったからだけではない。
「で、でも、好きなんじゃないのか?」
 自分が本当に守らなくてはいけないものが、ふいに防御の盾を失い、丸裸にされてしまったことに気付いたからだ。
「どっちかというと嫌いですけど、幼馴染だから、大切ではあるかしら」
 いつもの松本の暴言は、愛情と信頼ゆえであって、本当に嫌いなわけではないことは、わかっている。だが、真剣な相手には真剣に答える誠意は持っている松本だから、好きなら好きと言うだろう。
「冗談じゃないだろうな、それ?」
 これは、単なる誤解だ。
 よくある勘違いだ。
「当たり前ですよ。隊長こそ、冗談やめてくださいよ」
 それなのにこんなにも簡単に、見慣れた世界はひっくり返る。
 見知った男が見知らない男に変貌し、見知らぬ男は思いも寄らぬ真実の刃を持って、突然自分のすぐ隣、喉元を狙えるほどの間合いに現れる…
「そ、そうか、なら、いい!仕事に戻ってくれ!」
「えっ、って隊長、ドコ行くんですかーっ?」
 松本の声など、もう聞こえていなかった。
 日番谷は言い捨てて、すごい勢いでジャンプをすると、屋根伝いに駆け出した。