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金魚−6

「日番谷は〜ん、来てはるの?」
 日番谷をビビらせるほどのすごい速さで部屋にやって来たのは、もちろんこの部屋の主、市丸だった。
 隊舎に着いたところで三番隊員に、「さっき十番隊長さんがいらしていたようですよ」、と言われ、瞬歩どころでない光のようなスピードでブッ飛んできたのだ。
 だが、ハートマークを撒き散らしながら飛び込んだ部屋には、誰もいなかった。
 日番谷の霊圧も感じない。
「…あれ?誰もいてへん…」
 市丸のスピードについて来れなかった副官の吉良も、少し遅れてやってきた。
「た、隊長〜、そこまで急がなくても…」
「う〜ん、十番隊長さんおらへんねえ」
「もう帰られたんじゃないですか?」
 吉良も一緒になって部屋を見回すが、誰もいる様子はなかった。
「ほらこれ、十番隊からの書類ですよ。これだけ置いて、誰もいなかったから、すぐに帰られたんですよ、きっと」
「そうやね…」
 人の姿はどこにもないが、日番谷の残り香のようなものは、確かに感じた。
「せっかく来てくれはったなら、待っとってくれてもええのに、冷たいお人や…」
 日番谷がつい今しがたまでここにいたと思うと、この空気さえも愛しいような気がした。
 仕事で仕方なく来ただけに違いないのだが、せっかく日番谷の方から来てくれたのに、自分がここにいなかったのが、残念やら悔しいやら。
「追っても追っても捕まえられへん。はあァ、切ないわァ…」
「追いかけすぎて怖がられてるんですよ、きっと」
 小声で言って吉良が市丸の机の上に書類を置くが、全く聞いていないようにタメ息をつきながらどさっとソファに座った市丸は、次の瞬間、カッと目を見開いた。
「イヅル」
「は?」
「ボク、さっき七番隊に忘れ物してきてもうたらしいわ。悪いんやけど、ちょお戻って取ってきてくれへん?」
 吉良が振り向くと、市丸はいつもののんびりした顔で、悪びれる様子もなく言った。
(えええええ〜〜っ、手ぶらで行っておいて、忘れ物って何〜〜ッッ?!僕を追い払いたいだけなの、見え見えじゃないか〜〜!!)
 いつものこととはいえあまりの言葉に、吉良は瞬間めまいを感じた。
 それでも理性的にぐぐっと堪えて、
「…今からですか?」
「今からや」
「そんなこと言って追い払って、十番隊に飛んでいくつもりじゃないでしょうね?」
「せえへん、せえへん。ボクはここにずっとおるから、安心して行ってき?」
 市丸は優しいとも言える笑顔で、
「あ、それからついでにこの書類、五番隊の副隊長さんに渡してきてくれる?」
「五番隊ですか?!」
 五番隊と聞いたとたん、吉良の頬がほんのり染まり、背筋が伸びた。
「せや。赤線引っ張ってあるとこについて、よう説明聞いてきて。ついでにゆっくりしておいで」
「いや、そんな、とにかく、行ってきます!」
 飛ぶように出て行った吉良を見送ってから、市丸はドアに鍵をかけて振り向いた。
「…日番谷はん?いてはるの?」
 霊圧は感じない。
 だが、微妙な空気の揺れ、微妙な匂いに、日番谷の存在を感じた。
 これはもう、市丸の霊力とか鋭さとか探査能力というより、恋する者だけに与えられた超能力だった。
 市丸の頭に立った、目に見えない日番谷くん探査アンテナが、微かながら何かを確かに感じとっていた。
 見たところどこにも誰もいない。
 でもどこかに、日番谷がいる。
 そう思ったとたん、市丸の唇の端が、ニッと笑いの形に吊り上がった。
「いてはるんやね?」
 見えるところにいないということは、隠れているのだ。
 どんな事情があってそんなことをしているのかは知らないが、その状況に、胸がワクワクするほど楽しくなった。
「日番谷はん、なんで隠れてはるの?もう二人きりやで。邪魔者は誰もおらんから、出ておいで?」
 そんなことを言ったらよけいに日番谷が緊張し、出るに出られないとわかっていながら、わざと言った。
「出てきはらんのやったら、みつけてまいますで?」
 言いながらゆっくりした動きで、入口のそばから、探し始める。
 もちろん隠れているなら奥だとわかっていながら、遠いところから隈なく探し始めることで、プレッシャーを与えているのだ。
「どこにおんねやろな〜?そんな隠れるとこなん、あらへんなァ?」
 あまり家具も備品もない部屋だ。
 そうでなくても、先ほど雛森が話題に出たことで、少しばかり空気の揺れを感じ、およそどのあたりにいるのか、市丸にはすでにわかっていた。

 日番谷はん、十番隊長さん、と声をかけながら、少しずつ市丸が近付いてくる。
 じわじわといたぶるように、ゆっくりと時間をかけながら、確実に迫ってきている。
 怖ェ、市丸怖ェ〜!と思いながらもそれを認めることも我慢できなくて、日番谷は息を詰め、霊圧を消したまま、必死で頭を巡らせていた。
 迫り来る市丸に恐怖にも似たものを感じながらも、今なお日番谷は出るに出られず、困り果てていたのだ。
 ここまできたら、みつけられる前に出て行かないと、ますますマズい状態になる。
 第一、隠れているところを市丸にみつけられるという状況そのものが、怖い。
 だが、慌てた日番谷はとんでもないところに飛び込んでしまったために、どうにもうまい出方を思いつけないのだ。
 日番谷が少しでも動いてハッキリと居場所を知らせたら、市丸は即座に飛んでくるだろう。
 そして日番谷がそこから出る前に、その場所で待ち構えてくれるだろう。
 一方向にしか出口がないその前で、両手を広げて、日番谷がそこから出るためには、その腕の中に飛び込むしかない状況にして。
(ああ、クソ、最悪だ。世紀の大失敗だ)
 かといって、このままずっと息をひそめていたって、いつかはみつけられるだろう。
 そうなったらもっと最悪だが、もうひとつ悪いことには、飛び込んでしまったはいいけれど、出るのにちょっとコツのいるようなところに隠れてしまった。
 出る先に待ち構えられているのも嫌だが、出るために無様な格好を市丸の前にさらさないといけないことが、また嫌だった。
(…いっそコレごとブッ壊して出てやろうか…?)
 物騒なことを考えている間も着実に近付いてくる市丸の声に、心臓がバクバクと踊り始める。
 気の狂った死神か、強力な虚にでも追われているような気分だった。いや、まだその方がマシだとさえ思える。
 風鈴を割った上更に他人のものを壊してしまうことにどうしても躊躇してしまっていたが、やはりどう考えても、申し訳ないが備品を壊して謝る方が、恥ずかしい姿を見られるよりもまだマシだという結論に至ったまさにその時、
「さすが十番隊長さんは、器用なところに隠れはるね。ほんまにそこにいてはるの?お願いやから、この時計は壊さんと出てきてェな」
 考えを読まれたように先に言われ、しかも明らかに、そこで待ち構えている。
 悩んでいる間に、最悪中の最悪な事態になってしまった。
「なんや、七匹の子山羊さんみたいやねえ」
 執務室にある大時計の前にしゃがみ込みながら、市丸は感心してじっとそこをみつめた。
 大時計の一番下のところが小さな戸棚になっており、どうもそこから日番谷の気配がするのだ。
 大人の身体では絶対に思いつかないし、入れないような場所だ。
「そないなとこに隠れられたら、狼さんになったような気ィするわ」
 何の返事もないし、未だハッキリした霊圧も感じないが、そこにいるのは間違いない。
 指一本でも動かしたらそこに飛んで行って捕まえられるよう、全開の集中力で、逃げる隙のかけらも与えてやらなかった。今日番谷が自分に追い詰められてどんな気持ちでいるかと思うと、ゾクゾクするほど興奮してきた。
 市丸はしばらく待ってから、そっとその取っ手に手をかけた。
「開けますえ?」
「…ま、待て!」
 とうとう中から日番谷の声がして、開けかけた扉を小さな手が押さえた。
(か…可愛え〜!なんや、可愛えお手々が出てきたでェ!)
 あまりのその可愛らしさにクラリときている間に、扉はもう一度閉められて、
「…市丸、出るから、そこ、どけ」
「ええ、なんでやの?」
「…いいから、どけ」
 いやや、と言おうかとも思ったが、すでにその声には青筋が三つほどついていそうな感じだったので、市丸は少し考えて、身体を少々ナナメにして距離をとり、小さな声にして
「どいたで」
 ちょこざいな小細工をしてみたが、すぐにバレて、
「どかねえと怪我しても知らねえぞ、テメエ!」
 声と同時にバリッと大きな音がして、戸棚の天板をブチ抜いた日番谷が、怒りの形相で時計をブチ壊して中から出てきた。
(ああっ、しもた、苛め過ぎた!)
 こういう加減はわかっていたはずなのに、楽しすぎてやり過ぎた。
 この小さな戸棚の中に、日番谷がどんな格好で入っていたのか是非見たかったのに。
「ああ、日番谷はん、そない乱暴な真似せんでも、出られんかったんやったら、ボクが出してあげましたのに」
 市丸の言葉に、日番谷はますます目を吊り上げた。
(それだけは、死んでも嫌だ!)
 そう思っていることもわかっているクセにわざとそう言う、市丸のそういうところに猛烈に腹が立つ。
 腹が立ちながらも、これは自分の失態であって、市丸に当たるのは間違っていることや、結局自分のプライドのために三番隊の備品を壊してしまったということが多少後ろめたくて、怒鳴るのが一瞬遅れた。
 そのわずかなタイミングにすかさず市丸が、
「派手に壊しはったね。…大丈夫なん?怪我しとらん?」
 壊した時計のことよりも自分の身体の心配をされて、更に勢いを殺がれてしまう。
 そしてやっぱりそういうところが…どうしても、好きになれないと思った。
 だが、ここまでイヤだと思っていながら、即座に市丸から安全な距離をとらなかったのは、やはりその一言のせいだったのだろう。
 その一瞬の隙に腕を取られ、あっと思った時には、その腕の中にすっぽりと収められてしまっていた。
「バッ、…何しやがる、放せ…!」
 驚くほどのすごい力でぎゅうっと抱き締められ、身動きがとれない。
 それでもその腕からなんとか脱出しようと暴れ出したところで、
「なんであないなとこ隠れてはったの?」
 鋭い質問にドキッとして、思わず動きが止まった。
 抵抗の止まった日番谷に気をよくして、市丸はその髪に遠慮なく頬をすり寄せて、ぎゅうぎゅう抱き心地を楽しんでいる。
「思った通りや〜、日番谷はんの身体、めっちゃ抱き心地がええ〜。ボクの胸にすっぽり入ってまうんが、たまらんわ〜」
「あのなあ、」
「好きやで〜、日番谷はん。ホンマ好きや。このままどっか連れてってまいたいわ〜」
「キサマ、何考えてやがるっ、いいかげん、放せっ!」
 調子に乗る市丸に、日番谷がもう一度暴れ始めたところで、
「せやけど、なんや固いモンが邪魔しとんなあ。日番谷はん、懐に何入れてはるの?」
「!」
 それはもちろん、割れてしまった風鈴だ。
 日番谷が抵抗しようとする度に小出しに弱みを突いてくるのは、もちろん意図的にだろう。
 それがわかっていても結局は弱みなので、強く出れない。
「…いや、これは…」
 意を決して取り出そうとすると、日番谷よりも先に、大きな手がするっと懐に差し入れられた。
「うわっ!」
 その手は明らかに、風鈴を出そうとしているのではなかった。
 合わせ目を開くように胸を撫で、小さな突起をみつけると、指先でくるりとなぞってきた。
「テ、テメエ、何しやがる、変態っ!」
 その手を抜こうと手首を掴むが、純粋に力だけでは、ビクともしない。
 氷輪丸を置いてきてしまったことが、つくづく悔やまれた。
「ええ、何って、十番隊長さんが懐に隠してはるもん探しとるだけですやん」
「ウソつけ、テメエ、全然違うとこ触って、」
「さすが、すべすべお肌やねえ〜。ずっと触ってたいわぁ」
「やっぱり触ってンじゃねえか、この…」
「あっ、これ何やろう〜」
 またも絶妙なタイミングで、市丸は日番谷の懐から、風鈴を出した。
「なんや、風鈴や。…割れとるね?」
 こんな状況で自分が市丸に謝らないといけないなんて、最悪すぎる。
 謝らなくてはいけないのは、市丸の方のはずなのに。怒っていいはずの自分が強く出れず、それどころか頭を下げねばならないなんて、そのせいで痴漢行為がうやむやになるなんて、ムカつきすぎる。
「わ、悪かった!」
 だが逆に、謝ってしまえば、罪悪感で強気に出れず、主導権を取られてしまうこともなくなるはずだ。こういうことは、さっさと終わりにするべきだ。
「オレが割っちまったんだ、スマン!見たとこオレんとこにあるのと同じみたいだったから、取り替えようと思ったところでお前が来て…」
「…びっくりして、思わず隠れてしもうたんやね?」
 勢いよく謝ってお終いにしようとする日番谷の言葉を最後まで聞かず、市丸は優しく言って、その唇にちゅっとキスをした。
「!」
 びっくりして固まった日番谷の唇に、もう一度、今度は深く口づける。
「…ん…っ」
 逃げようとするのを許さずに、深く追いかけて、思う存分堪能する。
「…いち、まる、…」
「大事にしとってんけどな〜」
 その唇から必死で逃れようとする日番谷に、市丸は一度口付けをとくと、逃がさないようにしっかりと抱き締めながら、片手に持った風鈴をチリンと鳴らしてみせた。
「透明で、全然曇りのないとこが、十番隊長さんにそっくりやねん。赤くて可愛え金魚さんもガラスに映えて、透明なだけやない十番隊長さんの魅力に、ぴったりやねん。チリンて涼しい音も、たたずまいが十番隊長さんによう似とる。これみつけた時は、なんや日番谷はん手に入れたみたいで、めっちゃ嬉しかったわ〜」
 効果は狙っているが、本当の気持ちでもある。
 市丸が言うと、日番谷は抱き締められたまま、困ったように視線をさまよわせた。
「…ごめん…」
 小さな小さな声で謝る日番谷に、市丸の微笑は、いっそうとろけるように甘くなった。
「謝らんでええよ?十番隊長さんにつけてもろたヒビやったら、かえってプレミアや。この世にふたつとない宝物や。その上十番隊長さんの、魅惑の胸元に入れてもらっとった幸せもんの風鈴や。ボクもあやかりたいわ〜」
「お前な〜」
 市丸の言葉に、日番谷の声にようやくいつもの調子が戻ってきた。