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金魚−5

 人の目を真っ直ぐ見ながら嘘がつける奴は、嫌いだ。
 人の心を戯れに弄ぶことを平気でできる奴も、嫌いだ。
 たった一人の相手すら大切にできない奴も、嫌いだ。
 その内に真実を感じ取ることができないような奴も、大嫌いだ…
 信じられないくらい嫌いばかりをたくさん数えてしまうのに、市丸の中の一体何が自分の心の糸に触れるのだろう。
 真夜中目を覚ました日番谷は、そのまま身動ぎもせずに天井を睨みながら、静寂の中で考えていた。
 透明な金魚の風鈴を眩しそうに見ていたからじゃない。
 口や態度がああでも、毎日毎日律儀に十番隊まで通ってくるからでも、もちろんない。
 そばにいると、どうしようもなく落ち着かなくなって、何もかもを奪っていかれるような、危機感を感じるから?
 それが何かはわからないが、市丸が自分に、何かを激しく求めてきていることを感じるから?
 そういうものを隠しもしないくせに、表情も、口調もいつも同じで、苛立つ。
 自分と二人でいる時も、松本と二人でいる時も、松本と三人でいる時も、いつも何も変わらない。
 不誠実だ。
 ―――そう、それがどうしようもなく、許せない。
 


 日番谷が執務室を出て行ってしばらくしてから、市丸が部屋へやってきた。
「こんにちは。十番隊長さんは、ご機嫌いかが?」
「何隊長限定の挨拶してんのよ。アタシのご機嫌も聞きなさいよ」
「乱チャンには手土産持ってきてんもん」
 菓子くらいで懐柔される自分も自分だが、やはり仕事で疲れたところにスイーツを差し出されると、笑顔になってしまうものである。
 いそいそとお茶を入れに行ってから、
「あ、そういえば隊長は今外出中よ。タッチの差で」
 キョロキョロと部屋の中を探している市丸に教えてやると、見るからにがっかりと肩を落とした。
「ここんとこちょっとええ感じやったのに、また逃げられてもた。やっぱりボク十番隊長さんに嫌われてんねやろか?」
「また何か嫌われるようなことしたんじゃないの?」
「…そないにヤだったんかな?」
 当然「そんなことはしていない」等の返事をすると思っていた松本は、市丸の言葉を聞いて目の色を変えた。
「あんた、隊長に何したのよッ!」
「えー?何て、告白みたいなもん」
 市丸のことだから、とんでもないことをやらかしてくれたのではないかと思ったが、案外可愛らしい答えに、とりあえず松本はホッとした。
「せやけど、本気にもしてもらえんかったわ。よう意味わからへんけど、資格ないまで言われてもた。なんでやろね?ボク十番隊長さんには、誠心誠意尽くしとるつもりなんやけど」
「まあ、当然といえば当然ね。隊長は真面目だし、ノーマルな感覚の持ち主だから」
「せやね」
 案外あっさり答えた市丸には、そのへんの理解は一応、あるらしい。
 だが、何かを考えるように遠い目で茶をすすった市丸はぽつんと、
「それはええとして、そこを何とかボクのこと好きになってもらうには、どないしたらええんやろうねえ?」
 諦めの悪い男だ。
「とりあえず一度死んで、女の子に生まれ変わったら、少しは可能性が出てくるかもしれないわよ?」
「そない待てへんなあ」
 意地悪混じりの冗談だったのに、市丸は真面目な顔をして答えた。
「それに、十番隊長さんすっぽり腕ん中に抱っこできるサイズの身体に生まれてこんと、嬉しさ半減やわ。今やったら抱っこもすっぽりやし、…」
 言葉を途中で止めた市丸は、何かその先を想像でもしているようにしばらく黙ってから、でれっと笑った。
「何妄想してんのよ?」
「えっ、何や乱菊、人の頭ん中覗き見んといて、スケベ」
「あんたね、妄想だったらひとりの時にこっそりしなさいよ。誠心誠意が聞いて呆れるわよ。そういうところが、嫌われてるんじゃないの?」
「ええ〜、そうなんかな〜。せやけどボクも、男やし」
 市丸は不満そうにちょっと口を尖らせたが、すぐにまたいつもの笑顔を浮かべると、
「…まあ、嫌われとっても、無関心よりは、ええな〜」
「…アンタ、それホンモノくさくてマジでキモいから」
 本気で忠告したつもりだったが、市丸はその言葉に、更に笑みを深くしただけだった。



 ほなら続きは、次会うた時な?
 と、言われたからというわけでもないのだが、あれからも相変らず日参してくる市丸を再び避け続けて数日経った頃、そろそろ大人げないかな、と日番谷は思い始めていた。
 市丸は大人だし、ああいうのも冗談の範疇に入ることなのかもしれないし、いいように遊ばれているだけだとしたら、真に受けて意識していると思われても悔しい気もする。
 価値観の違いは誰でもあるものだし、そういうものにいちいち腹を立てて拒絶しては、子供だと思われてしまうかもしれない。
 そう思い始めると気になってしまい、三番隊へ持って行く書類を手に取ると、意を決して自分で渡しに行くことにした。
「なんだ、誰もいないじゃないか」
 だが、せっかく来たというのに、三番隊の隊長執務室には、誰もいなかった。
 市丸もいないが、吉良もいない。
 少しばかり緊張してきたので、せっかく来たのに無駄足になったという思いと同時に、ホッとしたような気持ちにならなくもなかった。
 市丸のそばは、落ち着かない。
 常に見られているような気がするし、何を考えているかわからないし、何をするかわからなくて、気が抜けない。
 冗談でもあんなことをされたのだから、尚更だ。
 最初の印象は、最悪だったのだ。
 それなのにその後彼を知るにつれ、次々と思いもかけぬ顔を見せられてきて、あまりに最初の印象とギャップがあったから、どれが本当の市丸なのか、わからなくなってきた。
 わからないから市丸を心底から拒絶し切れなくて、あんなことがあったのに、のこのことこんなところまで来てしまったのかもしれない。
 市丸に対する感情はとても複雑で、日番谷自身、解読不可能に思われた。
 それも少しもどかしくて、ハッキリさせたい気持ちもあったろうか。
 今ようやく相当の気合を入れて三番隊にやって来たというのに、肩透かしに合ったようだ。
 それはまるで、市丸本人の性格そのものみたいに思われた。するりふわりと力を受け流して、決して彼の真実には触れさせない。
 彼の真実には、触れられない…。
 誰もいない他隊の執務室にいるのも何だし、すぐに帰るべきだと思うのに、なんとなく去り難くて、日番谷は部屋の中を見回してみた。
 殺風景な、十番隊の執務室と変わらない、私物の少ない質素な部屋なのに、そこには市丸の空気があり、市丸の匂いがした。
 市丸の…。
 日番谷は瞳を巡らせ、無意識に市丸の私物を探していた。
 何故だか全くわからないけれど、何か彼を感じさせる形のあるものを確認したかったのかもしれない。
 隊長用の机に近付いてみた。
 自分のものと同じ、実用的で背もたれの高い椅子。
 いや、自分には大きなこの椅子も、市丸が座ったら丁度いいサイズなのかもしれない。横幅はともかく、とりあえず背だけは、高いから。
 その椅子に座る市丸の姿が一瞬幻のように目に浮かび、何故だか胸が熱いような苦しいような、不思議な感覚がした。
 彼に触れられた肩、唇、頬などに、その温もりや感触が、甦ってくる。
 その感覚に動揺して慌てて机を離れようとすると、どこからかチリンという、聞き覚えのある音が聞こえた。
 その音も、胸の深くに響いてくる音だった。
 市丸本人の、…存在そのもののように。
 ハッとして見ると、窓のところに見覚えのある風鈴がかけられていた。
「あっ…!オレに持ってきたのと同じじゃねえか、信じられねえ!」
 ガラスに赤い金魚の模様の入っているその風鈴は、どこからどう見ても、誰が見ても、十番隊の執務室に飾ってあるものと同じものだ。
 涼しげで可愛らしい、およそ市丸のイメージからはほど遠い、金魚の風鈴。
 自分のイメージからも決して近くはないと日番谷は思っていたが、それでも十番隊の執務室には松本もいるのだから、ここまで不似合いではないと思う。だが、問題はそんなことではない。
 十番隊と三番隊に、お揃いの風鈴が飾ってあるというところが問題なのだ。
 誰がどう見てもおそろいで、堅苦しい執務室の空気を柔らかくする優しい曲線とその音は皆の心を和ませるらしく、来る者皆その存在を目に留め、愛でてゆく。
 つまり、さりげにとても目立つ。
 松本にはハッキリ言っていないが、わざわざ日番谷宛にと渡された風鈴だ。
 それをこんなところでこっそりおそろいにしているなんて、不誠実にもほどがある。
 自分がダシにされていたなら、それはそれで人をバカにするにもほどがある。
 この風鈴そのものが、自分と、松本と…それぞれに対する市丸の不誠実さの象徴のように思えた。
「ンのクソバカ、何考えてやがるんだ!」
 カッと頭に血が上り、日番谷は風鈴に手を伸ばしたが、窓の位置は高く、もちろん手は届かなかった。
「チッ」
 そのことに更に怒りが増して、日番谷はジャンプして風鈴の紐を掴むと、釘ごとむしり取る勢いで風鈴を取った。
 怒りに任せて力を込めたため、細いその紐は予想以上に簡単に千切れ、日番谷の指を滑って、叩き付けられるように床に落ちた。
「あっ!」
 頭のてっぺんまで上っていた血が、ガラスが床に当たる音を聞いて、瞬時に下がった。
「ヤ、ヤベエ、割れちまった…」
 割れたといってもヒビが入った程度だったが、それでも透き通ったガラスのヒビは、その美しさを半減してしまうものだった。
 第一、腹は立っても人のものだし、根が真面目な日番谷は、それを勝手にどうこうしようとしてしまったことに、猛烈に罪悪感が湧いてきた。
「どうしよう…」
 こういう場合、素直に謝るのが一番だとはわかっているが、元はと言えば市丸が勝手におそろいの風鈴を下げていたのがいけないのだからそれも癪だし、何より彼に弱みを見せるのが嫌だった。
「そうだ!」
 とっさに思いついたのは、この割れた風鈴と、自分の隊の窓に飾ってある同じ風鈴とを取り替えてしまうことだった。
 同じものなのだからバレるわけもないし、バレたとしても、弁償と同じことだ。
 謝るにしても代替品を吊るしてからなら、気持ちも楽だった。
 そうと決まれば一秒でも早く取り替えるに限る。
 即座に部屋を飛び出そうとした日番谷だったが、そもそもそんなやり方は彼のやり方ではなく、やり慣れないことをしようとする時は、たいていうまくいかないものだ。
 とりあえず割れた風鈴を懐に隠したところで、すごい速さで誰かがこの部屋へ向かってきていることに気が付いて、飛び上がるほど動転してしまった。
「ヤ、ヤバい!」
 逃げるならその先は、普通窓の外だろう。
 だが、代替品がない今は、ただ持って行ってしまっては、泥棒だ。
 日番谷はその真面目さからくる罪悪感や、市丸に弱みを見せたくないという意地っぱりな性格に加えて気が動転したこともあって、一瞬の決断を迫られたその時、とっさにとんでもないところに隠れてしまったのだった…。