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金魚−4
吉良が所用から戻ると、珍しく市丸が自分の机に座っていた。
座っているだけで仕事をしているわけではなかったが、ずっと机の上に積まれていた書類は、きれいになくなっていた。
いつの間に片付けたのか、それだけこなせるのなら溜め込まなければいいのにといつも思うのだが、これが市丸のペースなのだろう。
それよりこのところなかなか三番隊舎にいつかないことが多かったので、そこにいてくれただけで、吉良は安堵で思わず笑顔が出た。
「ただ今戻りました、市丸隊長」
「ああ、おかえり、イヅル。お疲れさん。あっちに冷たいお茶があるから、飲み」
「はい、ありがとうございます」
今日の市丸は、機嫌が良さそうだ。
笑顔で吉良に労いの言葉をかけてから、また嬉しそうに目を向けた先を見てみると、窓のところに風鈴が下げてあった。
「あ、昨日の風鈴ですね?」
「せや。きれいやろ?」
「そうですね…あれ?そういえば、十番隊へのお土産だったんじゃあ?」
「十番隊長さんには、さっき渡してきたところや」
「日番谷隊長にですか!」
松本にではなく。
驚いて吉良が聞き返すと、市丸はひときわ嬉しそうに笑って、そうや、と答えた。
「十番隊長さんと、おそろいやねん」
「えっ!そうなんですか!」
「きれいやて喜んでくれはったわ」
「そ、そうですか…」
日番谷は、市丸とおそろいだとわかって受け取って、わかって喜んでいるのだろうか。とても気になる。思わず動悸が上がってしまうほど、とても気になる。
「今日ようやく、会えてん。十番隊長さんの目ェは、ホンマ綺麗やったよ〜。今度は碧色のガラス細工欲しなったわ。まあ、あないな色は、きっとみつけられへんやろけどな」
嬉しそうに話しているけれども、なんだか、微妙に、ついていけないような…?
「十番隊長さん、ええ顔して笑ろてくれたよ。ホンマ、可愛ェよなあ。食べてまいたくなる可愛さやね〜?」
同意を求められても困る。
吉良が答えに困っていると、
「イヅルは可愛えと思わんの、十番隊長さん」
「ひ、日番谷隊長が可愛いのは、姿とサイズだけですよ」
確かに十番隊の隊長副隊長は、どちらも見目麗しくゴツさもなく、人目を引く華やかさがある。どこか安全な別世界からテレビ画面でも通して、完全なる第三者として彼らを見たら、可愛いと思える部分もたくさんあるには違いないだろう。
だが彼らは間違いなく戦闘部隊の隊長副隊長であり、その能力が他隊に劣っているなどということは、全くない。
どちらも怒らせると、非常に怖い二人なのだ。
市丸がどういうつもりなのかは知らないが、お願いだから三番隊隊長の立場で、十番隊を敵に回すようなことは、しないで欲しい。
吉良は悲鳴を上げるように言ったが、市丸は黙ったまま、静かに笑みを深くした。
「…市丸隊長から見たら、日番谷隊長を可愛いと思える余裕もあるんでしょうけど」
「そうかぁ?みんな可愛い言うとったと思うけど。ライバル多くて気ィ抜けんわ」
「…ラ、ライバルですか」
何の、と突っ込みたいところだったが、愚問なので、ぐっと堪えた。
「そうや。いっぱいおるよ〜?みんな殺せたらええのにね?」
にっこり笑いながら冗談のように言っているが、市丸の場合、本気っぽくて怖い。
普段から常に色んな方向に怖い人だとは思っていたが、こっち方面でまでその怖さを発揮してくれるとは。
(い…市丸隊長…市丸隊長ォ〜っ!)
市丸にロックオンされて、お断りできるのは隊長格くらいに違いない。
就任したばかりで経験も少なく、年若いとはいえ日番谷も隊長である。
為す術もなく奪われることはないと思うが…、思うが…、毎日近くで市丸のやり方を見ているだけに、心の底から日番谷の健闘を祈らずにはいられない吉良だった。
何も言わなくても市丸は毎日のように十番隊にやって来ていたから、三番隊に用事があればただ待っていれば隊長が来てくれるのだが、市丸の来訪を待つのも嫌だったし、自分のタイミングで仕事を進めたかった日番谷は、その日珍しく自分から三番隊舎へ向かった。
嫌なことはさっさと済ませてしまうに限るので、かなりの速足だった。
三番隊の隊舎の敷地内に入ると何やら楽しげな喧騒が聞こえてきて、日番谷は少し不思議に思った。
今日、別に何か行事があったわけではないはずだが、それに近い楽しそうな雰囲気だ。
「あ、日番谷隊長」
日番谷を見ると、一人がさっと背筋を伸ばした。
「どうされました?市丸隊長に御用ですか?」
「あ、ああ。…何かあるのか?みんな、集まってるようだが」
「市丸隊長がカキ氷を振舞って下さったんです」
「え?カキ氷?市丸が?」
「ええ。とても大きな氷を、皆にって。でもどこにいらっしゃるのか」
確かに今日はとんでもなく暑いから、これも隊長の気遣いと労いなのだろうか。
浮竹あたりならともかく、市丸が自分の隊員にそんなことをしているなんて思ってもみなくて、日番谷は本気で驚いた。
食べ終わったらしい隊員達はみな生き生きとした目で戻ってきて、日番谷を見ると、さっと姿勢を正して挨拶をしてくる。
とてもいい雰囲気だった。
「うまかったな〜、氷」
「生き返るぜ」
隊員たちの声が、聞くともなく聞こえてきた。
隊長としてこういうこともたまにはいいのかもしれない。
ちょっと様子を見てみようと思って、皆が集まっているらしい広間に向かうと、廊下の先のその入口に、隊長の白い羽織の裾が消えてゆくのが見えた。
「あっ、市丸隊長!」
「いただいております、市丸隊長!」
「ごちそうさまです!」
どうやら丁度市丸が登場したところらしかった。
広間の中が、市丸に挨拶をする隊員達の声で、いっそう賑やかになった。
「ええよ、ええよ、思う存分、食べ。食べたらさっさと部署に戻るんやでぇ」
答える市丸の声がして、ひょいと覗くと、数器並んだ氷かき器の向こうで、女性隊員が数人、緊張した面持ちで順番に市丸に挨拶をしているところだった。
氷かき器の隣には巨大な氷がどんと置いてあって、実に涼しげな光景だった。
「すごくおいしいです、市丸隊長」
「癒されます」
「そらよかったわ。夏には氷が一番や」
「ホントですね」
「三番隊に配属されて、良かったです!」
カキ氷に釣られただけとも思えない、女性隊員達が憧れの眼差しでチャンスとばかりに市丸にキラキラした目を向けている様子を見て、日番谷は少なからず驚いた。
三番隊隊長は怖いというような声ばかり聞いていたし、自分の第一印象からしても、一般隊員達にはもっと恐れられているのだと思っていた。
いや、恐れられてはいるのだろう。近付けない者もいたし、微妙な緊張感は漂っていた。
市丸本人はにこにこしながら、「惚れたらあかんで〜」などと軽口を叩いていたが、日番谷に気付くと嬉しそうに手を上げた。
「あっ、十番隊長さんですやん。いいとこ来はったわ」
市丸はカキ氷の器を二つ手に取ると、
「あちら行きましょ」
「オレはいい」
「そう言わんと。暑いの苦手ですやろ?効きますでェ」
そういって強引に渡されたカキ氷の器はひんやりと冷たく、気持ちよかった。
市丸は執務室ではなく、隊舎の脇の木陰へ日番谷を連れてゆくと、木の下にさっと座った。
日番谷も少しだけためらったが、適度な距離を開けて、隣に腰を下ろした。
「…ああいうこと、よくやるのか?」
「よくはしませんな。たまたまですわ。十番隊長さんの斬魄刀は氷輪丸ですやろ?日番谷はんのこと考えとったら、なんや無性に氷が欲しなって、取り寄せましてん。せやけど、氷は溶けますやろ?隊員達に幸せのおすそ分けですわ」
どこまで冗談なのかよくわからないが、のんびりと楽しそうに言う市丸に、日番谷は不思議な気持ちがした。
今まで市丸のことを、あまりよく思っていなかった。
少なくとも隊員に氷を振舞うようなことを思い付いついたり、ましてや実行したりなどするとは思ってもみなかった。
だがそれも全て、第一印象と先入観による思い込みだったのかもしれない。
喜んでカキ氷を食べていた、三番隊の隊員達の笑顔が頭をよぎる。
「…いい隊長だな」
「えっ、日番谷はんに言われると、照れますなぁ。十番隊長さんほどやあらしませんよ?」
「よせ」
みえすいたお世辞に思えて目を逸らすと、市丸がじっとこちらを見てくるのを感じた。
「なんだ?」
「…好感触や。ホンマ、ええとこ来はったわ」
「なんだよ、それ」
「日番谷はんなら、惚れてもええよ?受け入れ準備万端やから、いつでも大歓迎や」
「バカなこと言ってんなよ」
「冗談やと思いますの?」
「本気だったらキモい」
「…それ、凹むわ…」
市丸は大げさなくらいがっくりと肩を落として、拗ねたように氷をスプーンでザクザクと刺した。
そんなパフォーマンスは無視してカキ氷を食べ続けていた日番谷は、しばらくしてまた市丸がじっと見ていることに気がついて、
「…なんだよ?」
「日番谷はんの舌ベロ、イチゴ色や」
「そりゃ、イチゴシロップのカキ氷食ってるから」
「魅惑の色や…」
言って市丸の身体が、ふわっと寄ってきた。
その動きは風のように軽くて、あっと思った時には、唇が重なっていた。
(あっ…)
その瞬間は本当にあっとしか考えられなくて、頭が真っ白になった。
ひんやりと柔らかい感触がぐいっと押し付けられたと思ったら、唇を軽く吸い上げながら、ぬるりとしたものが入ってこようとする。
「ん…んーっ!」
びっくりして身体を引くと、同じだけ押しながら、長い指が頭の後ろに回され、逆に引き寄せられた。
自分が今キスされていることはわかったが、日番谷はもちろん、生まれて初めての行為だった。
誰かの顔がこんなに近付いたのも初めてなら、粘膜同士の接触も初めてだった。
身体の芯がとろりと蕩けて、どうにかなりそうな甘さにゾクッとした。
「なっ、何しやがるっ!」
慌てて押し返して唇を離すと、袖口でゴシゴシと拭いた。
「何って、キスや」
「なんでキスなんかするんだ!」
「好きな子にキスすんのは当たり前やん」
「恋人同士の場合だろ、ソレ!」
「せやったら、なったらええですやん、恋人同士に」
ああ言えばこう言う市丸に、悪かったと思う素振りは全く見られなかった。
「なるか、バカ!お前はどうか知らねえけど、オレにとっての恋人の定義はなあ、唯一無二の存在で、相手の為なら命を懸けても構わなくて、死ぬ瞬間まで一秒の疑いもなく、相手のことを信じ抜くことができるような存在だ!」
テメエにゃ毛ほども当てはまらねえよ!という言外のニュアンスまで加えて、日番谷は勢いよく叫んだが、
「…それ、素敵な響きやねえ」
本当に感動でもしたかのような顔をして、市丸が心底感心したように言った。
「ええねえ、十番隊長さんの恋人になったら、死ぬ瞬間まで一秒の疑いもなく、信じ抜いてもらえるんやねえ」
「いや、それ順番違うから。恋人になったから信じるんじゃなくて、信じることができるような相手が恋人だから」
そこまで言っても、市丸はわかっていないようだった。
「今の、ちょっと殺し文句やったわ。ますますハマりそうや」
「人の話、聞けよ」
第一、日番谷が言いたかった一番の部分は、そこではない。唯一無二、というところが強調したいポイントだった。
「だいたい、そっちも順番違うだろ、普通!キスしたから恋人同士になるんじゃなくて、恋人同士になったらキスすんだろ?」
「十番隊長さんは、真面目なんやね。ボクは別に、どっちでもええと思うけど」
「よくねえ!そもそもお前、名乗りを上げる資格がねえじゃねえか!その上相手の気持ちも無視してるし!」
そこで初めて、市丸は驚いたように一度黙って、
「十番隊長さんは、ボクのこと、嫌いなん?」
「だから、それを確認してから行動しろよ!いや、その前にお前、」
「せやから、今してますやん」
「順番逆だろー!」
「さっきから順番順番て、順番がそない大切なもんか、わからんわ。好きなん?嫌いなん?どっち?」
ぐいっと詰め寄る市丸の顔は真剣に見えて、日番谷は思わず怯んだ。
(って、違うだろ、オレ!)
ハッと正気に戻ると、
「好きなワケねーだろ、何考えてンだ!」
「嫌いでは、ないんやね?」
しかしすかさず確認するように、いやに強く聞かれて、そういう意味ではないにしろ、そんなに嫌いでもないかもしれないと思い始めていた時だけに、一瞬言葉に詰まった。
「ボクは、好きや」
しかも続けてそう言われて、日番谷の頬がボッと熱くなった。
「テメエ、人のことバカにすんのもいい加減に…」
「市丸隊長ー」
遠くで吉良が呼ぶ声がした。
「あー、アカン、せっかくええところやったのに、邪魔が入ってもた」
本当に残念そうに言うが、市丸はあっけなくすうっと離れて、立ち上がった。
「続きは次会うた時な?」
「続きなんかあるか」
日番谷のセリフにも気にした様子もなく、市丸はにこやかに手を振って、去っていった。
(…全然あっさりしてんじゃねえか)
動揺しまくったせいで、うっかり唇を奪われたまま、逃げられてしまった。
完全に市丸のペースに乗せられて。
結局自分の言いたいことは全く伝わっていないようで、話もかみ合っていなくて、市丸と話すと腹が立ってくる。
(あー…。チクショウ…)
不真面目な上、不誠実すぎる。しかも全く悪びれた様子もない。
ああいうところが、やっぱり嫌いかもしれない、と日番谷は改めて思い直した。