.

百年目の恋人−9

「これは規則違反なんやけども、ひとつ、教えておいてあげようかな」
「何を」
「キミの寿命。残念ながら、そない長くは生きられへんみたいやね」
「ああ、そうか」
 意地悪で言ったつもりだったのに、少年はショックを受けた様子はなかった。
「じゃあ、やっぱりやるしかねえってことだな。生きてるうちに」
「たぶん、無理やと思うわぁ。キミの、その細こい腕じゃ」
「干渉できねえなら、おとなしく見てやがれ。エロいだけの、役立たずのキツネが」
「誰を、殺せばええの?」
 気紛れはいつものことだったが、それでも市丸には、珍しいことだった。
 その気になったとたん疼いてきた殺戮本能が、闇を更に黒く染め始めていた。
「お前は信用できねえ。俺がやる。お前はその刀を、俺に貸してくれ」
「そっちの罪の方が重いんやけど」
「ガタガタ抜かすな。なんだったら、引き換えに俺の身体、好きにしてもいいぞ。死んだ後の魂も、お前にやる」
 人間の物語に出てくる、悪魔との契約みたいだ。
 市丸はそれがゾクゾクするほど面白いゲームのように思えて、いっそう深く笑みを刻んだ。
「それはおいしいお話やけども、貸しただけで、キミはこの刀、よう使い切らんと思うわ」
「どうすればいい」
「一時的にボクの霊力、キミに分けてあげる」
「そうか。じゃあ頼む」
「せやったら、ここよりもっとロマンチックなところ、行こか?」
「なに?」
「ボクのアレから、キミのアソコに、霊力流し込んであげるよって」
 それも単に、意地悪だった。
 小さな少年が命を懸けてしようとしていることに、ほんの気紛れで、より暗い罪悪の色を加えてやりたかっただけだ。
「変態エロ狐」
 心底軽蔑したように、少年は言った。
「キミの殺したい相手、わかっとるよ。お父さんやろう?殺さな逃れられへん。違う?」
「親父じゃねえ。母親の再婚相手だ」
「同じやん」
「違う。断じて違う。反吐が出る。あれで大学教授なんだから」
 少年の目は、会った時以上に、ギラギラしている。
 いまや抑えきれない憎しみに衝き動かされているのだ。
「今日もこれから、帰ったらお父さんに抱かれるの?」
 どうしても意地悪が止まらなくて、市丸は嬲るように言った。
「だから、お父さんじゃねえ。…それに、俺だけじゃねえ。…姉もだ」
 市丸の意地悪な言葉も全て撥ね付けて、少年は真っ直ぐ市丸を見据えたまま、何者にも負けない、強い声で言った。
「へえ」
 どうやらこの少年に意地悪を言っても、おもしろくない。
 まるで傷付けることができないからだ。
「せやったら、やっぱりキミがやったらあかんのやない。キミのお母さんやお姉さんが、傷つくで?それに、仮にも一家の大黒柱を失ったら、生活困るんやないの?女性は得てして、虐待されることよりも、生活困窮することの方怖がるからなぁ。キミがこれから先、守ってあげられるんやったら、まだしもなあ」
 それを聞いて少年は、初めて悔しそうに、ぎゅっと唇を噛み締めた。
 己の力のなさに歯噛みしながらも、瞳に燃えた炎は消えない。
「でも…、このままで、いいはずがない…大人は誰も、あいつの外面に騙されて、助けてなんかくれねえんだ。あいつがいる限り、俺達は…」
「おもろいなあ、キミ」
 ふと、腹の底から自然な笑みが、唇にのぼった。
「大人びとるけども、やっぱりまだ子供や。子供はおとなしくおうちに帰って、ねんねしとき。…ああ、おうち帰ったら、おとなしくねんねさせてもらえへんのやったっけ。…まあええわ、とにかく後はボクに任せといたらええ」
 言ってふわっと飛び上がり、民家の塀の上に立つと、
「逃げる気か。…規則破ることが、怖くなったのか。腰抜けめ」
「挑発するんうまいな、キミ。せっかくお駄賃ももらわんとタダ働きしたろう思うたんに。…キミのこと、ほんまに欲しくなってまうよ」
「そういうことは、仕事してから言え」
「気ぃ強いなぁ。ほんまにええのんか。せやったら、終わったら迎えに行くで、子猫ちゃん」
「子猫ちゃんじゃねえ。日番谷冬獅郎だ」
 市丸は闇の中、今度は電柱の上に、舞い上がった。
「ボクは、市丸ギン」
 距離が離れ、少年の姿が小さくなると、ふいに別れ難い思いが胸に広がった。
 このほんの短い間に、胸に鎖をつけられてしまったみたいに。
「忘れたらあかんで。絶対に覚えとくんよ。これ終わったら、キミはボクのお嫁さんになるんやからな?」
 悪魔との契約で、これはお約束だろう。
 冗談半分で市丸が言うと、気の強い凛とした声が、「できるもんなら、してみやがれ」と、バカにするように遠くから返してきた。



 目が覚めると、殺風景な白い天井が見えた。
 市丸は起き上がり、ぼんやりと、今見た夢の内容を思い出す。
 霧がかかったようにハッキリしない記憶の中で、それは夢にしては、あまりにも鮮明に思えた。
(あれは、十番隊長さんやったな…なんや、今より子供らしくて可愛かったけども。これが夢やなくてほんまのことやったんなら、あの子が覚えてへんゆうて怒るんも、無理ないかもしれへんなあ)
 会いに行かなくては。
 唐突に、市丸は思った。
 あの夢は、迎えに行くで、と言ったところで終わっていた。
 あの先、どうなったのかは、全く覚えていないけれども。
 何故か日番谷が、ずっと待っているような気がした。
 自分が迎えに行くのを、ずっとずっと待っているような気がした。
(ちょっとだけキミのこと、思い出したで。今日こそは、会いに行ったら、喜んでもらえるんちゃう?)
 知らずドキドキと胸が高鳴っているのに気が付いて、市丸はうっすらと微笑んだ。
 夜着として着ていた着物を脱ぎ捨てて、黒い袴と着物に着替える。
(…あ、ボクの刀がない)
 夢でも日番谷は市丸の刀を求めていたし、刀なしで会いに行ったら、冷たく追い返されそうな気がした。
(どこにいったんやろう、ボクの刀)
 日番谷は、霊力のない市丸に、刀は持てないと言った。
 お前の斬魄刀は、戦いで消滅してしまったのだと。
(せやけど、わかるんや。ボクの斬魄刀、どこかにある。ボクはそれをどうしてもみつけなあかんし、その在り処は、あの子が絶対に知ってるはずなんや)
 着物を整えると、市丸は入口とはまるで方向の違う壁に向かった。
(わざわざ扉から出るなん、面倒な真似なんせえへん。こっちの方が外出るんに、近道なんや)
 いつもいつも尋問のように、どうして何故どうやってと聞く日番谷に、説明などできない。
 壁に手を当てて集中したら、すり抜ける。
 目を閉じて日番谷の姿を思い浮かべたら、彼がどこにいるのか、わかる。
 そして彼の元へ行きたいと思ったら身体がふわりと軽くなって、軽やかに夜の空を駆けてゆくことができる。
 こんなに自由なのに、自分には、あらゆるものが足りなかった。
 思い出さないといけない。探し出さないといけない。手に入れないといけない。
 それが何なのかもわからないまま、ひたすら焦燥感に衝き動かされて、市丸は風のように夜空を駆け抜けていった。



 固い石段を踏みしめて、日番谷はひとり、十番隊の裏の山に登っていた。
 十番隊の裏手に回って、古い石の階段を上り、木々の間を抜けて、少し開けたところに鎮座する、岩のところまで。
 それは市丸とよく散歩をしたコースで、市丸が去ってから、そこを辿るのは、これが初めてだった。
 寒い冬の夜、闇に紛れる石段の上まで来ると、市丸は左手を、日番谷は右手を袖の中から出してお互い結び合い、木々の間を歩いた。
 それだけのことがいつもとても恥ずかしくて、懲りもせず何度も伸びてくる市丸の手をいつも払っていたが、冬になると寒くて、手袋より温かい市丸の手を、いつの間にか受け入れるようになっていた。
 岩のところに出るとその上に並んで座って、とりとめもないことを話しているうちに、いつの間にか市丸はぴったりと日番谷に身を寄せていて、いつも絶妙なタイミングで肩を抱き寄せて、「寒ない、大丈夫?」と、本当に大切みたいに、この世で一番、何より愛しい宝物みたいに、染み渡るような優しい声で、囁いてくるのだ………
「…出てこいよ、市丸」
 石段を上り切ったところで、日番谷は静かに声をかけた。
「なんや、気ぃ付いとったん」
 後ろからゆるりと、大きな影が石段を上ってきた。
「どうやってお前いつも、俺の居場所がわかるんだ?」
「なんでやろね?」
「…思い出したわけじゃ、ないのか」
「思い出の場所なん?」
 市丸の答えに苦笑しながら、日番谷は市丸が自分の隣に並ぶのを待った。
 市丸は日番谷の隣に立つと、動かない日番谷を、じっと見た。
「…行こか?」
「どこへ」
「思い出の場所へ」
 日番谷が見上げると、市丸はにっこりと笑って、日番谷の肩に手を添えてきた。
「覚えてねえくせに、よく言う」
 ピシッと容赦なく払うと、
「大丈夫や、キミが協力してくれたら、すぐ思い出すよって」
 何の根拠もなくそう言って、今度は手を握ってきた。
(…当たり)
 今度は心の中でそう言って、手を払わなかった。
 そのまま市丸がゆったりと歩き出すので、日番谷もそれに合わせて、歩を出した。
「…なんや、緊張するんやけど」
 しばらく歩いたところで、市丸が突然言った。
「なんで」
「なんでて、キミ、えらくおとなしいし、ち、ちっちゃいお手々が可愛えし」
「どもるな、みっともねえ」
「このままどこかへさらっていってもええやろか?」
「百年早ェよ」
「百年くらいは、待った気ぃする」
「なんだよ、それ」
 言ったところで、丁度開けた場所に出た。
「あそこの岩の上、座りましょか」
(…当たり)
 指差す市丸に心の中で答えて、日番谷は頷いた。
「あんな、ボクな、少しだけ、思い出したんよ」
 並んで座ると、市丸が静かに話し始めた。
 日番谷はピクンと眉を上げ、
「何を思い出した」
「キミと、初めて会うた時のこと」