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百年目の恋人−10

 日番谷は、さっと自身の記憶を巡らせた。
 初めて会ったのは…霊術院時代の時だったか。
 市丸は最初から馴れ馴れしくて、「ようここまで来たね」と、まるでよく知っている間柄のように声を掛けてきた。
「坂の上で、会うたね?」
 だが市丸は、まるで違うことを話し始めた。
「もう夜やったのに、えらく小さな子が歩いてくる思うたら、キミやった。ボクを見て、その腰の刀は本物かて言うたんよね?」
「何言ってやがる。そんな覚えはねえぞ。夢でも見たんじゃねえのか?」
 もしかしたらまだ流魂街にいた頃、知らず市丸と会っていたかと思ったが、こんな印象的な顔の男を忘れるとは思えなかった。
「覚えてへんの?」
「覚えてないもなにも、そんな事実はねえ。本当に夢でも見たんじゃねえのか?そんなもん、いちいち報告してくるなよ」
「キミはほっそりしたジーンズに白い薄いセーターを着て、ダウンのベストを羽織っとった。よう似合うて、可愛かったで」
「…なんだそれ。まるきり現世の服じゃねえか。間違いなく夢だな」
「ボクはキミに、迎えに行くて言うたよ」
「行ったのか」
「そこまでは覚えてへん」
「夢だな」
「そうやろか」
 いやに自信ありげに言われて、日番谷は市丸を改めて見た。
「ボクは死神やった。キミは人間の子供やった」
 そこで初めて市丸の言わんとしていることに気が付いたが、日番谷はその内容に、唖然とした。
「まさかお前…俺が前世でお前と会ってたとでも言うつもりか?」
「会うてたよ。思い出したもん」
「俺は覚えてねえ…当たり前か。てか、それ、証明のしようもねえじゃねえか。どうせならもっとマシなこと思い出せよ」
「そうやろか〜?めちゃロマンチックやと思うたんやけど」
「どこがだ」
「ボクら初対面で結婚の約束したんやで」
「ウソくせ」
「ほんまやて」
「どうせお前が一方的に自分の嫁になれとか言っただけだろ」
「キミかて、できるもんならそうして欲しい言うたよ」
「言わねえよ。俺が覚えてないからって、適当なこと言ってんじゃねえぞ」
「魂くれるとも言うた」
「そん時俺、五歳児とかだったんじゃねえの」
「ボクどんな変態やねん。さすがにそれはないわ〜」
「十分変態だ。どっちにしろ子供だったんだろ。そんな相手に、ホントに嫁になれって言ったのか、お前」
「んー…言うたね」
 嫁という言葉にどういう意味合いを込めているのか、市丸は恥じるどころか嬉しげで、誇らしげで、愛しげで、…そして少しばかり、男を感じさせる顔をした。
 かつて、そういう言葉を口にした時の、市丸みたいに。
 いや、かつての市丸は、今よりもっとその言葉に、とろりと甘くて淫靡な、性の匂いを織り混ぜていた。
 その言葉に頷いたら最後、たちまち捕らえられ、奪いつくされて、身も心も彼のものにされてしまうような、危険でいながら誘惑的な匂いを。
 嫁という言葉は彼にとっては、永遠の恋人、永遠の伴侶、永遠の所有物、彼自身の存在の半分という意味みたいに聞こえて、それを聞く度日番谷は、嬉しいよりも、胸がぎゅうっと押さえられて、苦しいような気持ちになる。
「…また、できもしねえコトいい加減に約束なんかしやがって…」
 そういうところは、本当に、大嫌いなのだ。
 岩の下にある小さな石から目を離さないまま、ケッ、と吐き捨てるように言うと、市丸はそんな日番谷をじっと見て、
「…ボクは、キミのこと、…ここにいる全ての人を裏切って、この世界を壊そうとしたんやってね…」
 松本が教えたのだろうか。思い出したというわけではないらしく、他人事のように突然そんな話を始めた市丸に、日番谷はチラッと視線だけを向けた。
「それでボクは捕まって、幽閉されとる。それでキミは、敵を見るみたいにボクを見る。…そうなんやね?」
「即座に殺されなかっただけでも有り難いと思え」
「即座に殺さんかった理由は何やの?」
「浮竹に聞け」
「キミが今ボクを殺さへん理由は?」
「記憶がないから」
「記憶が戻ったボクに聞きたいことがあるいうこと?」
「なぜ生きているのか」
 本当は、もっと他に聞きたいことはあった。
 なぜ、裏切ったのか。なぜ、そうなるとわかって自分に近付いたのか。なぜ、…そして市丸の、本当の心は…、
 でもきっと、市丸の記憶が戻っても、それを聞くことはしないだろう。
 だからそれ以上は言わなかったが、市丸はやはり、心の奥底を覗き込むような目をして日番谷を見た。
「…それは、そない大切なことやろうか?」
「大切なことだ」
「そうやろうか?…ほんまはそれより、聞きたいことあるんやないの?」
「…聞きたいことがあるというよりも、記憶がない以上、お前に罪は問えない」
「あら、そう。寛大なんやね。ボクをかくまうてること、他所でバレたらキミら困るんやないの。それだけの大罪人やったら、記憶がどうとかゆう判断も処分も、ほんまはもっと上のもんや、皆で決めるもんやろう」
「お前がそうして欲しいなら、考えてやってもいいぞ」
「ボクに選ぶ権利があるんや。おおきに」
 冗談なのか嫌味なのか、判断つきかねるいつもの笑顔で言ってから、木の葉が揺れる音でふっと思い出したとでもいうように、市丸は突然声の調子を変え、
「…それで、キミは」
 木々の葉を揺らす風の音が、同時にふたりの袴の裾も軽くはためかせて、過ぎていった。
「…ボクの記憶、戻った方がええ思うとるの?」
「…戻らないと、殺せねえからな…」
 本当の答えは、日番谷にもわからない。
 いっそ流魂街のどこかにでもいてくれたなら…、ただの魂魄として、死神達にみつかっていなかったなら、…そうだったとしたらもっと他の道があったのかどうかも、日番谷にはわからなかった。
 日番谷にわかるのは、市丸が離反した事実も記憶を失くして舞い戻った後十三番隊に捕らえられた事実も変えようはなく、その事実があるからには、十番隊の隊長としてとるべき道はひとつしかないということだけだった。
 本当は市丸の言うとおり、記憶が戻るのを待つなどということもせず、即座にひっ捕らえて総隊長のところへ連れてゆくべきなのだが。
 記憶のない、…罪がないと思い込む口実のある今の状態のまま、過去を封印して、何事もなかったかのように、幸せだったかもしれないあの頃のように暮らしてゆける方法はないかと、浮竹が、松本が、そして自分も、心のどこかで必死に考えているのは、わかっている。
 そんなことはできないと、心の別の部分で、同時にわかっていながらも。
「…ボクはどうして、キミや乱菊を置いていったりしたんやろう…」
 霞んでゆく夢でも辿るように遠くを見ながら、市丸がぽつんと言った。
 その言葉を言う限り、隣にいるこの男は市丸ではない。
 自分達を置いてゆく理由など持たない、こんな市丸だったらどんなに良かったかと思いながらも、どうしてもそう思えて、日番谷はやり切れなくなった。
 それでも。
 まるで今までの話が、当たり障りのない世間話ででもあったかのように、自分達には関係のない、遠い世界の話だったみたいに、市丸はその話はもう終わりとでも言うように、日番谷を見てにっこりと笑って、いつの間にかぴったりと寄り添っていた身体を更に寄せてきて、その大きな身体の中に、魂ごととりこんでしまおうとでもするように、そっと肩に手を伸ばし、抱き寄せてきた。
「…寒ない?大丈夫?」
「………」
 恐らくこの市丸の中には、本当に、裏切りも、別離も、戦いも、何もないのだ。
 その仕草や声、言葉はまるで市丸で、何も知らずに日番谷が恋をしていた時の市丸で、日番谷はたまらなくなって、ぎゅっと唇を噛み締めてから、震える息を吐いた。
「…お前、本当に、なにも記憶、ねえんだな…」
「キミと初めて会うた時の記憶は、思い出したけども。そっちはキミが覚えてへんからなあ」
「…前世でお前と会ってたなら」
 大きな腕が、優しく包み込むように日番谷を抱いて、それがとても、温かかった。
「百年くらいは、本当に待たせたんだろうな」
 日番谷が何を言おうとしているのか探るように、市丸が顔を覗きこんできた。
 決別しなければならない。
 日番谷が、恋していた時の市丸に。
 あの時の市丸は、最初から幻だったのだ。
 日番谷は勇気を振り絞って、自分から市丸に、少しだけ、体重を預けてみた。
 いっそう愛しそうに力を込めてくるその腕に、更に勇気をもらって、小さく息を吐く。
「今は離反した記憶もねえわけだしな。…百年早いなんて言って、悪かったよ」
 日番谷は目の前の市丸を見上げて、艶然と微笑んだ。
「…で、どこに、俺をさらって行くんだって、市丸?」
 市丸は驚いたように少し口を開けて、それからゆっくりと、笑みを広げた。



 ずいぶん長いこと使っていなかったと思うのだが、流魂街の遥かはずれにあるその家はまだ、それほど荒れてはいなかった。
「どこだ、ここ?お前、こんな家持ってたのかよ?」
「さあ、知らん。乱菊と同じや。存在は覚えとる。せやけどそれが何やったのかは、覚えてへん」
 確かに自分はここに来たことがあるのだろう。
 部屋の間取りや置いてある物は、だいたいわかるような気がした。
「…よく残ってたもんだな。お前のものはほとんど全て、捜索ないし破棄されたはずなのに」
 きょろきょろと部屋の中を見回す可愛い姿を見ながら、市丸は部屋の真ん中に腰を下ろし、胡坐をかいた。
「ボクら、やっぱり恋人同士やってんね」
 日番谷はとても冷たかったけれども、憎しみにしろ、愛にしろ、そこにとても深くて強い思いがあるのは、何も覚えていない市丸にもわかった。
 どうしようもなく惹きつけられずにはいられない、強力な磁力のようなものを、彼に感じることも。
 市丸が忘れている、何かとても大切なものを、彼が持っていることも。
 満足げな市丸の言葉に、日番谷は横を向いたまま視線を落とし、昔な、と小さく言った。
「もうすっかりお互い忘れちまってたくらい、ずっと昔にそんな時期もあったかもしれない」
「そない意地悪言いなや。キミのこと抱いたら、すぐ思い出すよって。こない可愛え子が恋人なんて、嬉しい。ほら、もっとそば来て、その可愛えお顔、よう見せて?」
 市丸が軽く手を差し出して言うと、日番谷はそれから逃げるように数歩下がりながらも、
「…ホントにお前、そう思ってんのか?」
「ん?」
「ホントに俺が恋人で嬉しいとか思ってんのか?」
「当たり前やん。第一、ボクの方からキミに、好きやから付き合うてて言うたんやろ?」
 市丸の言葉に、日番谷は小さな子供が恥ずかしがるように俯いて頬を染め、そっと頷いた。
「キミのことやから、そう簡単にはええ返事くれへんかったんちゃう?ボクはそらもうせっせとキミのとこ通って、あの手この手で必死で口説き落として、ようやっと恋人の座手に入れたんやろう」
「…どうだったかな…」
「とぼけなや。記憶なんなくてもわかるわ。相当有頂天やった思うで。…今のボクと同じや」
 熱烈な愛の言葉のつもりだったのに、何故かそこで日番谷は吹き出して、声をたてて笑い出した。
 何がそんなにおもしろいのかさっぱりわからなかったが、この少年がそんなふうに笑うのを見るのは初めてで、市丸は思わず見とれて、言葉を失った。
 まるで氷が溶けるように、自分との間にあった何かがなくなって、日番谷が近くにきたように感じた。
「そないいつまでも笑うとらんと。…おいで?」