.

百年目の恋人−8

(市…)
 声が出なかった。
 あまりに突然で、あまりに信じ難くて、有り得ないことすぎて。
(まさか、何…何してるんだ、この男は…)
 忘れようとしても忘れられない、この腕、この胸、この匂い。
 最初は壊れ物でも扱うようにふわっと包み込んできたその腕は、あっという間に恐ろしい力を込めて抱き締めてきていた。
 苦しかったが、声を出したその瞬間に、みじろいだ瞬間にそれは消えてしまいそうに思えて、動けなかった。
(刀を。刀を抜いて、闘わなくては)
 呼吸までままならない緊張感の中、日番谷は狂ったように鳴る心臓の音に飲まれながらも、氷輪丸の置き場所を思い出そうとしていた。
 耳のすぐ後ろで、覆いかぶさってくる大きな身体の、呼吸する音が聞こえている。
 締め殺されるのではないかと思った。
 あまりにも強い力で、あまりにも狂おしく抱き締めてくるその腕に、そのまま殺されるのではないかと思った。
 酸素が薄く、完全に機能をストップさせてしまった頭は、一番原始的な力、五感の全てを使って、何一つもらすことなく相手の全てを感じ取ろうとしていた。
 その姿を。
 その姿を、ひと目でいいから。
 こんなにも願うのに、身体は微動もできなかった。
 した瞬間全てが消えることは、六番目の感覚でわかっていたからだ。
(…市丸)
 呼びかけたかった。
 呼びかけてほしかった。
 だがそうしたら全てが終わることも、わかっていた。

「市丸ッ!」
 今度こそ、力の限り抱き締めてくる腕を振り切って、夢から覚めたように日番谷は市丸を見上げ、呆然とした。
 胸の底に封印したはずの、狂おしい記憶が生々しく甦って、痛みすら覚えた。
 永遠みたいに思えたあの一瞬、細胞の全てが歓喜したあの抱擁は、奥の部屋からした松本の声で、あっけなく引いて、消え去った。
 まるでそれが合図のように電気が点き、白々とした光の中で、日番谷は声もなく立ち尽くしていた。
『隊長?隊長、どうしたんですか?』
 すぐそこに来ていた松本の声が、遠くで聞こえたように思った。
「…何…しや…がる…」
 今、市丸に似た男に突然抱き締められて、心を乱してしまった。
 強烈に心に焼き付いた、抱擁だけの再会。
 一方的なそれに、ショックが過ぎると、日番谷は怒り狂った。
「お前という男は…どうして…!」
「十番隊長さんが悪いんよ」
 言葉ひとつもなかったあの時とは違い、目の前の男は日番谷の動揺ぶりに驚いたように、早口で言った。
「ボクの手の届くところに、自分から入ってくるんやもん」
「バカ抜かせ、お前が勝手に来たんじゃねえか!お前が勝手に…」
 言いかけて、自分が混乱していることに気が付き、日番谷は言葉を止めた。
 あの瞬間と今を、あの時の市丸とこの市丸を、混同してしまっている。
 市丸が、日番谷の心の奥を覗き込むような目で、じっと見ていた。
「…失せろ」
 嫌な汗が背中を流れ、日番谷はなんとか声を震わせることなく、市丸を突き放した。
「失せろ!どこへでも行っちまえ!二度と俺の前に姿を見せるんじゃねえ!」
「それは、できへん相談やね」
 日番谷の剣幕に一歩下がりながらも、市丸は平然として答えた。
「せやけど、今日のところは、お言葉に甘えて消えさせていただきます。…まだボクには、せなあかんことがあるみたいやから」
「何っ…!」
「ほな、さいなら。…またな?」
「待て…市丸!」
 失せろと言ったり、待てと言ったり。
 我ながら支離滅裂だと思いながらも思わず追った先には、やはりすでに市丸はいなかった。

 


 ザワザワと竹薮の竹が、風に揺れて荒々しい音を立てていた。
 閑静な住宅街ではあってもまだそこは古い町並みで、ところどころにこんな竹薮や、さびれた公園があった。
 古い街灯は今にも切れそうで、薄暗い黄色い光に蛾や小さな虫が集まっている様子が、もの淋しさを感じさせた。
 現世での任務は終えたが、今夜のこのしんと冷える寒さや、物の怪でも出そうな淡い妖気に惹かれて、市丸はぶらぶらと人間の街を歩いていた。
 どこかで救急車のサイレンの音が聞こえ、それに合わせてどこかの犬が、遠吠えを始めた。
(…平和やな)
 夜の救急車のサイレンは、生きている人間にとっては不穏で非日常的な音ではあったが、死神である市丸にとっては、それは平和な音だった。
 家々から漏れる、一家団欒の小さな灯り。
 あちらにも、こちらにも。
 小さな坂をゆるやかにのぼりながら、市丸は薄く笑みを浮かべてそれらを眺めた。
(…あれ、こないな時間に、ずいぶん小さな子が歩いてくるで?)
 古びた町に似合わない、凛とした空気をまとったその少年は、夜の闇に怯えることもなく、確かな足取りで、向こう側から坂を上ってきていた。
 見たところ、霊ではなく生きた人間だが、それにしては夜外を出歩く年齢には見えない。
 市丸は歩を緩めて、少年をじっと見た。
 夜目にも可愛らしい顔立ちをしていることがわかった。
 抜けるような白い肌、子供らしい、ほっそりとした身体。ひどく大人びた目。
 すれ違う時、少年の目が、チラッと市丸の方を見た。
 市丸が立ち止まり、振り返って少年を見ていると、少年も立ち止まり、市丸の方に向き直った。
「…その腰に差してるの、本物の刀か?」
「…キミ、ボクの姿が見えるん?」
 驚いたが、少しだけだった。
 その神秘的な少年は何もかもこの場にそぐわなくて、突然消えたり白鳥に姿を変えたりしても、きっとそれほどは驚かない。
「見えるに決まってンだろ。…ああ、お前、霊か。あんまりハッキリしてるから、生きてンのかと思ったけど、そんな時代錯誤な格好してンだから、生きてるわけねえよな」
「声も聞こえるんや。キミ、ずいぶん霊感強いんやね。色々苦労しとるやろ」
「苦労、ね」
 ハッ、と鼻で笑うような、子供らしくない笑い方をして、少年は恐れもなく市丸に近付いてきた。
「あんた、ずい分堂々としてるけど、霊の親分なのか?その刀は、使える刀なのか?」
「ボクは死神や。普通の霊とは、違うねん。キミらの思い描く死神とは違うやろうけども、死んだ霊をあの世へ送るいうところは、イメージ通りかもしれへんな」
「死んだ霊を?生きている人間の魂を、じゃねえのか?」
「生きている人間を殺して連れて行ったりは、せえへんよ?」
「…なんだ」
 明らかに落胆して、少年は市丸の刀を見た。
「御大層なもん持ってやがるから、もっと強いのかと思ったぜ。じゃあ、何のためにさげてんだ、それ」
「なんやキミは、さっきから殺したい相手でもいるような口ぶりやね?」
 市丸の言葉に、少年は薄く笑うと、パッと手を伸ばして、刀を取ろうとした。
 予想はできたため、市丸は素早くそれを避けると刀を抜いて、少年の喉元に突きつける。
「あかん子ぉやね。これは、人間の扱えるモンやないで?」
 明らかに市丸を見下していた少年は、驚いたように市丸を見上げた。
「…飾りじゃねえんだな。参ったよ。それにその刀、…生きた人間も、殺せるのか?」
「死神が生きた人間を勝手に殺すんは、規則違反や」
「規則?」
 聞いたとたん、少年は突然、ゲラゲラ笑い出した。
 何を笑っているのかはわかっていたため、市丸は刀を引いて、黙ったまま好きなだけ笑わせておいた。
「…悪い、死神にも、社会や規則があるんだなあと思って。さしずめお前は、サラリーマンてとこか」
「そないええもんやないよ」
 市丸が肩を竦めて言うと、少年はまだ唇に笑みを残したままで、
「なあ…、俺にお前の身体…お前に俺の身体、触れるのか?」
「試してみたらええやん。お望みなんやったら、どこでも好きなとこ、触ってあげるで?」
 さっきからこの少年の言動は、普通の人間とまるで違って面白い。
 市丸がからかうように言うと、少年はとても少年とは思えない妖しい光を目にともして、
「…変態死神。死神にも性欲とか、あるのかよ」
「誘うてるの?」
 少年は艶然と微笑んで、黙ったまま市丸の着物を掴み、背伸びをした。
「…チェ、残念。届かねえや」
 少年の作り出す、その蜜のような色香に、市丸は吸い寄せられるように上体をかがめて唇を寄せた。
 合わさる直前、少年の唇がバカにするように笑った。
「…チョロイな?」
 市丸も笑って、少年の心を読むように言ってやった。
「チョロイよ」
 少年も平然として、答えた。
 そっと合わさるとその唇は夢のように柔らかくて、すぐに離そうと思ったのに、気が付いたら逆に、強く押し当てていた。
「…んっ…」
 少年の甘い声が、理性を蕩けさせてゆく。
 そうしながら再び刀の柄に伸びた小さな手の上に、大きな手を重ねてぎゅっと握った。
「キミいくつなん。色仕掛けなん、子供のすることやないで」
「18」
「あほ言いなや。風俗店の年齢詐称でもそこまでムチャ言わへんで」
「それでもお前らには、そういう対象になるんだろ?」
 市丸は、挑むように見上げてくる少年の翠色の目を、じっとみつめた。
 当分忘れられなさそうな、印象的な瞳。
 幼さを残しながらも大人びた、美しい顔立ち。
 小鹿のように生き生きとした、瑞々しい華奢な身体。
 成程、誘惑されなくても手を出したくなる腐った大人は、山のようにいそうだった。
「なんや、犯られてもうたんか、キミ」
 すぐに合点して、市丸は意地の悪い笑みを浮かべた。
「…殺してほしいんか、そいつ」
「殺せるのか」
 即座に返した少年に、市丸は唇の両端を吊り上げて笑った。