.

百年目の恋人−7

 男はふたりに気が付いて体を起こし、長い前髪をそっとかきあげた。
「あれ、十三番隊長さんと、十番隊長さん。どないしたん。血相変えて」
「お前…いつの間に、戻ってきた!鍵はどうやって開けたんだ!」
 日番谷が駆け寄ってその胸倉を掴んで聞くと、市丸はぽかんとした顔をして、
「はて、何の話やら、わかりませんが。ボクはこの通り、ここでずっと寝とったし?」
「嘘つけ、お前、さっき俺のところに来て、…」
「ボクがキミのところになん、何しに行きますの?」
 素朴な疑問のように言われてさっと、頭に上っていた血が下りた。
 市丸は日番谷の向こうを覗き見て浮竹の姿を認めると、
「今度はキミと浮竹さんだけなん。乱菊はおらへんの?」
 その言葉に、日番谷は掴んでいた手をぱっと離して、乗り出していた身を引いた。
 なんというか、気力が、一気に殺がれた気がした。
 狐につままれたような気分だ。
「松本はさっき来ただろう。そうそうお前にばかり構っていられるか。お前、立場をわきまえろ」
「せやけど、ボクがわかるの、あの子だけやし」
 一瞬この男を殴ってやりたい衝動に駆られたが、日番谷は黙ったまま拳を握り、身を翻した。
「…バカバカしい。浮竹、悪かったな。帰るぞ」
「あれ、もう行ってまうの、ちっちゃな隊長さん?」
 背中にかけられた声が笑いを含んでいるような気がして、日番谷が振り返って睨み付けると、
「また来てや?」
「用もなく来ねえよ、ロクでもねえ。調子乗んな」
 扉を閉めると、浮竹が確かにそこに鍵をかけるのを自分の目で確認しながら、日番谷は唸った。
「浮竹、王宮の復旧作業、お前も携わっているか?奴が生きて再び帰ってきたことを理由付けるような力を持つ宝か何かの話、聞いたことあるか?それと奴に霊力による攻撃が効かないことと、何か関係はあるだろうか?」
「さあ、どうだろう。俺がするのもほとんど、雑多な手伝いくらいのもので、秘宝について詳しいことは、…春水なら、もう少し何か知っているかもしれないな」
「奴もこの件は、知っているのか?」
「まだ知らない。今のところは」
 最後の鍵がかけられるのを見届けて、日番谷は顔を上げた。
「京楽はともかく…卯ノ花隊長は、こんな話を聞いたら、どう思うだろう?なんとか極秘裏にあいつの体を調べてほしいんだが。霊力の件もそうだが、絶対におかしい。あいつは確かに、来たはずなんだ」
「日番谷隊長の言葉を信じないわけではないが、彼は本当にあそこを抜け出たのだろうか?現に彼はあそこにいたし、鍵もかかったままだった。これは可能性の話だが、どちらかが幻か、…彼は、ふたりいるのかもしれない」
「そんなことを考えていたら、キリがねえスよ。あいつは、あそこを、なんらかの方法で、抜け出して、また戻った。抜け出した理由はわかる。息が詰まると言っていた。でも戻る理由はわからない。目眩ましのつもりか?」
「日番谷隊長はひとつ忘れている。彼には記憶がない。霊力もない。体調もまだ万全とは言い難い。もし本当に彼が抜け出して戻ったとしたら、その理由は恐らく、ここが安全だからだ」
「だとしたら、もうひとつ言えることがある。奴はせっかく抜け出した牢獄のようなあの部屋へ、舞い戻った。そうしてもそれほど問題ないと思ったわけだ。それはつまり、…」
 日番谷は用心深く辺りを見回してから、小さな、しかし力のこもった声でハッキリと、
「奴は、容易くあそこを出入りできるということだ。野郎、またあそこを抜け出すぜ?」
 日番谷の言葉に、浮竹は顔をしかめて見せた。


 次の日も、就業後に松本は十三番隊へ行ったが、日番谷は行かず、遅くまで残業した後で、一人鍛錬場へ向かった。
 木刀を使って軽く稽古をしてから着物を直し、正面に向かって正座をして、呼吸を整えながら目を閉じた。
 心を無にするそんな時間は、とても大切なことだった。
「こんばんは、十番隊長さん。瞑想中、失礼します」
 そんな声が後ろからかかってきた時も、日番谷は予想していたので、動じなかった。
「なんだテメエ、何しに来やがった。それに昨日のあのとぼけっぷりはなんだ」
 背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いて正座をしたままで、日番谷は答えた。
「文句言いたいんはボクの方や。ふたりだけの秘密やったのに、なんで十三番隊長さんに話したりしたん」
 市丸の足音がゆったりと近付いてきて、すぐ後ろで止まった。
「そんな約束はした覚えがねえな。それにテメエ、嘘つきやがったろ。鍵はかかっていたじゃねえか。どうやって出た」
「嘘なんついてへんよ。押したら開いた。そう言うたよ」
「押す前に、何をした」
「ひゃあ、怖い。また尋問が始まったで。そないな話より、もっとええ話しよ?」
「お前の狙いは何だ。何をしに来た」
「何て、十番隊長さんに会いに」
「何のために」
「会いに来てくれへんから」
 日番谷は膝を使ってぐるっと向きを変え、座ったままで、市丸の方を向いた。
「俺はお前と言葉遊びをしたいわけじゃねえ。何か思い出したなら、言え。用がねえなら、帰れ」
 振り向いた先で市丸は、ぼんやりと闇に溶け込むように立っていた。
 いつものような、面のような笑みを浮かべ、ベッドの上で着ている寝巻きではなく、死覇装に似ているが異なる、黒い袴と黒い着物姿だった。
 恐らく捕まった時、彼が着ていたものだろう。
 市丸に似ているが、市丸と異なる…。
 今の彼と、とてもよく似ていると日番谷は思った。
「ボクは一日、あの部屋にいるんよ。楽しみいうたら、乱菊が見舞に来てくれることくらいや。いつもおいしいものやきれいなもの持ってきてくれるけど、いつも無粋なおっさんと一緒で、がっかりや」
「当たり前だ。てめえと二人きりになんか、絶対にしねえ。第一てめえ、二人きりになって、何狙ってやがる」
「どうしてキミは、会いに来てくれへんの?」
「会いに行くさ。お前が何か思い出したら」
 市丸は大きすぎて、座ったままで見上げていると、後ろに倒れてしまいそうだ…そう思った時、市丸の方が、ふわっとその場に片膝をついた。
「キミが教えてくれたら、思い出すかもしれへん。…キミは、ボクの、何やったん?」
「元同僚だ。お前は、三番隊の隊長だった。…お前が本当に、市丸だったとしての話だが」
 真っ直ぐに見詰めながら言うと、市丸の手がそっと上がってきて、日番谷の頬に触れてこようとした。
「…それだけ?」
「俺の部下の幼馴染だ」
 その手をパシッと払って冷たく言うと、市丸は腑に落ちないというような顔をした。
「…なんや、もっとええ答え期待しとったのに」
「もっとええ答えだと?」
 記憶は全くないはずの市丸が何を言おうとしているのか、日番谷は探るように上目遣いに市丸を睨みつけた。
「ボクには確かにキミの記憶はないけども。知り合いやったら放っておかへん思うたんやけどなあ。…それともボクは、そないヘタレやったんやろか」
 まさか、記憶もないくせに、この男は自分を口説いているのだろうか。
 記憶もなく、身体も本調子ではない上、会って数日しか経っていないのにあの部屋を抜け出してまで口説きにきたならば、ヘタレどころか電光石火だ。
 一瞬だけ、無意識の部分で記憶が戻ったのかという浮竹の言葉が甦り、心がさざめいたが、日番谷は素速くそれに封をした。
 眉の端をかすかに上げてその意図を読み取ろうとするが、それは市丸の内部から発したものではなく、他人の感情を読み取ることに長けた市丸だから、日番谷や、他の者の態度や様子で当たりをつけてかまをかけているのかもしれない。
 何を考えているのかわからない男だけに、ここは流すことにした。
「確かに放っておかれなかったぜ。俺はお前らの計画の、重要な役割を担っていたらしいからな」
「お前ら言うた?」
「……」
「誰のこと言うてるの?」
 市丸の表情が、かすかに変わったように思えた。
 記憶が戻る糸口を掴んだかもしれないと思って、日番谷は視線で市丸を射抜いたままで、ゆっくりとその名を口にした。
「…藍染」
 その名を口にしただけで。
「藍染惣右介」
 今でも重く暗く苦しい空気に、場が支配されるように感じた。
 その名で大切なものを、破壊されるような。
 大切なものを、奪われるような。
 信じて立つこの世界そのものが、脆く崩れ去ってしまうような。
 市丸は、何も言わなかった。
 黙ったままで、じっと日番谷をみつめた。
 その名を噛み締めるように、張り詰めた空気の中、ただじっと日番谷を見ていた。
「…思い出せへんなぁ…」
 やがて息をつくように、市丸は答えてゆっくりと立ち上がった。
 何でも聞きたがる市丸が、深く聞いてこないことに多少の違和感を覚えて、日番谷も合わせて立ち上がった。
「ここで目ぇ覚めてから、何も思い出せへんけども、ボクにはひとつだけ、わかることがあんねん」
「それは…?」
 遠くを見ていた市丸が、またふわりと日番谷に視線を落として、囁くような静かな声が、まるで大切な秘密を打ち明けるように言った。
「ボクな、何かを探してるんよ」
「何を」
「思い出せへん。せやけど、キミを見てたら、なんや思い出せそうな気ぃすんねん」
 そろそろまたこの場を去るつもりだな、と日番谷は直感で察して、それを止める方法に頭を巡らせた。
「斬魄刀て言うたよね、キミ。あの刀、今日はどこに置いてますの?」
「どこだっていいだろう。あれは、俺の斬魄刀だ。お前のじゃない」
「ボクのは、どこにありますの?」
「だから、霊力のないお前に斬魄刀は持てないと言っている」
 市丸の手を。
 掴むことができるだろうかと日番谷は考えた。
「ボクは昔、ここでキミと同じ隊長だったて言うたね?」
 それよりは着物を掴む方が簡単そうに思えて、日番谷は足の指で間合いを詰める、ふくみ足でそっと市丸に近づいた。
「ボクの斬魄刀。その時はあったんやろう?それは、どこにいってもうたん?」
「お前の斬魄刀は、消滅した」
 言葉と同時に、日番谷は一気に距離を詰め、市丸の着物の袖を掴んだ。
「お前が、戦いで死んだ時に」
 確かに、掴んだ。
 驚いたような市丸の顔に、日番谷は唇の端に笑みを浮かべた。
「今度は逃がさねえぜ。俺がこの手で、お前を十三番隊に連れ帰ってやる」
「あは。おおきに」
 予想していなかった嬉しそうな声が何故か礼を言ったと思ったら、いきなり大きな腕が、日番谷の身体を包み込んできた。
「お前ッ!何しやがるっ…!」
 市丸の匂い。
 紛れもない、間違えようもないそれに、日番谷は強く抱きしめられながら、愕然とした。
 痺れるほどのショックと陶酔が電撃のように背中を駆け抜けて、息をすることも忘れた。
 目を眩ませるほどの稲妻と、地を揺るがすような落雷が、現世を一瞬にして闇に包み込んだあの日の記憶が、目の奥、胸の奥にフラッシュバックする。
『きゃ〜、すごい雷〜!あーん、落ちたらどうしよう〜』
 藍染率いる破面達との戦いを控え、阿散井や斑目達と現世に降りた時のことだ。
 松本について、井上という、黒崎一護の友達の少女の家に宿を借りた。
 激しい雨と雷に、井上は怖い半分、ワクワク半分で窓の外を眺め、松本は完全に喜んでいた。
「わっ、落ちた!隊長、落ちましたよ、今!近いです、どんどん近付いてくるみたいです!」
「はしゃぐな、子供じゃねえんだから」
 たしなめながらも嫌な予感が胸に渦巻くのは、単にこの自然現象が現世で生きる者達にとって、とてつもなく強大な大自然の驚異であるからだったろうか。
 静かに戦いのゴングを待つような、ただならぬ緊張感を感じていたのは、どうやら日番谷ひとりだったようだ。
「織姫、次の雷がきたら、布団に突撃するわよ!光ったら落ちる前に布団に潜り込めたら、あたし達の勝ち。入る前に落ちたら、雷の勝ち」
「何の勝負だそれ。遊んでんじゃねえ」
 呆れて日番谷が言うと、松本は楽しそうに、「あら、隊長、雷様におへそとられても知りませんからねー」と言って笑った。
「アホくさ…」
 だが、どんな状況でも楽しみを見つけ出せる、松本のそういうところは才能だとも思った。
 そして自分は何かにつけ、ピリピリしすぎる傾向がある。
(たかが雷だ。…珍しいモンでもねえ)
 なんとか息をつき、窓の外を眺めた時だった。
「きた!」
 松本の一声と同時に、眩しい光がパッと閃いたと思ったら、一瞬の間もなく世界を引き裂くような轟音が大地を揺るがし、部屋の電気がパッと消えた。
「きゃっ、停電!」
 井上の悲鳴が闇の中で聞こえ、日番谷は思わず立ち上がっていたが、
「慌てるな。お前らはそのまま、布団被ってろ。すぐ復旧すると思うが、懐中電灯か、ろうそくはあるか?取ってきてやる」
「あ、台所の引き出しに、ろうそくが…」
 続いて何発か光っては落ちる雷に、松本と井上は布団の中で抱き合って、きゃーきゃー騒いで楽しんでいるようだった。
 台所は、玄関のそばにある。
 日番谷はひとり部屋を出て、台所に向かった。
(ええと、台所の引き出し…暗くて見えねえな。このへんか?)
 手探りで引き出しの中を探していると、不意に背後に何かを感じ、ゾクッと背筋を震わせた。
 それはまるで、背後で異世界の扉が開いたような…
(まさか)
 ドクッと、大きく心臓が脈打った。
 何かが、いる。
 すぐ、後ろに。
『冬獅郎』
 聞こえた声は、現実のものではなかった。
 だが、次の瞬間背後から抱き締めてきた腕は、現実のものだった。