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百年目の恋人−6

次の日松本は出勤してくると、あの後ギンは結局何も思い出しませんでした、と言った。
「尸魂界のことや死神のことやあたし達のことをあれこれと聞くばっかりで、それで何かを思い出すということはなかったみたいです。あたしのことも、名前がわかるだけで、昔の記憶があるわけでもなくて」
 そう言った松本は少し淋しそうだったが、明らかに昨日までよりも生気を感じた。
「そうか」
 答えてから日番谷はじっと松本を見て、
「お前はあいつが、本物の市丸だと思うか」
「えっ」
 日番谷の問いに、松本は驚いたようだった。
「あいつじゃなかったら、誰ですか?」
「それは俺も知りたい」
「ギンですよ。あいつはギンです」
 平然ときっぱり言い切る松本を、日番谷は陰鬱な気持ちで見上げた。

夜も更けて完全な静寂が訪れると、時計の音だけが、執務室に響いた。
 ずっと書類に集中していた日番谷はようやく手を止め、ゆるく肩を回して時計を見た。
 それから目を伏せて、目頭に親指を当て、軽く揉み込む。
(…逃避してるな、俺。松本の方が、ずっとしっかりしてるぜ。…情けねえ…)
 タメ息をつきかけて、日番谷はピクッと手を止めた。
 音はしなかった。
 だが、扉が開いた。
 何も感じない。
 だが、誰かがいる。
 背筋を冷たいものが走った。
 目頭を揉んでいたために、自分の手で前が見えない。
 日番谷はあえて、目を閉じて、息を吸った。
「…誰だ」
「さあ、誰やろう。キミらは、市丸ギンて呼ばはるけれども」
 その答えを聞いて、日番谷は反射的に氷輪丸を抜き、椅子を蹴って飛びかかり、斬りつけた。
 闇の中に浮かび上がった白い顔がすっと刃の先を避けたが、身体は避けなかった。
 まるで、その切っ先が、自分の肉を斬る前に止まることを、知っているように。
「おまえ」
 日番谷は唖然として、市丸を見上げた。
 霊圧は相変わらず、まるで感じない。
 でも、それならば、何故。
「どうやって、ここまで来た」
「んん?歩いて」
 ピタリと刀を当てられていても、市丸はまるで動じた様子もなく、ごくのんびりと答えた。
「そんなことは聞いてねえ。どうやって、あそこを出た」
「どうやってて言われても困るけども、途中誰にも会うてへんし」
「鍵がかかっていたはずだ」
 結界も。
「えー、かかってへんかったで。押したら開いたし」
「そんなわけがあるか」
「そない言われても、そちらさんの事情は、ボクにはわかれへん」
「…浮竹め」
 日番谷はチッと舌打ちをして、刀を下ろした。
「あそこから出るなと言ったはずだ」
「あないなところにずっとおったら、息が詰まって死んでまう」
「バカな。出てきて誰かにみつかってでもいたら、それこそ本当に死ぬぞ、お前。霊力まるでねえくせに」
 日番谷が言うと、市丸はにっこりと、微笑んだ。
「せやから、十番隊長さんのところに来たんやない。隊長さんは、強いんやろう?ボク殺されそうになっても、守ってくれはるやろう?」
「守れねえな。…俺は、隊長だから」
 なんだ、本当に記憶ねえんだ、と改めて思って、日番谷はひとつ息を吐いた。
「お前の記憶が戻ったら、その瞬間に、俺はお前を斬る」
 ゆっくりと氷輪丸を持ち上げて、日番谷はもう一度、市丸の目の前にピタリと当てた。
「なんでなん」
「俺は、隊長だからだ」
 市丸はじっと日番谷を見てから、突き付けられた氷輪丸を見た。
「…ええ刀やね?」
 市丸の手が氷輪丸に触れようと上げられたのを見て、日番谷は素早くその先を走らせ、
「触るな」
 市丸の髪が数本、ぱらりと落ちた。
「…ボクも欲しい、そないな刀。どうしたら手に入るん?」
 触れるのは諦めたようだったが、身体を引きもせず、平然と立ったままで市丸は続けた。
「普通の刀だったら、その辺で簡単に手に入る。だが、ここではそんなものでは誰も斬れねえし、霊力のないお前に斬魄刀は持てねえ」
「斬魄刀…」
 市丸はふっと視線を上げ、どこか遠くで何かを探すような目をした。
「…どこにあるんやろう、ボクの斬魄刀」
「何か思い出したか?」
 市丸の目の前で大きく振ってから、日番谷は氷輪丸を鞘へ収めた。
「何も思い出してはへんけども…」
 市丸はぼんやりと遠くを見たまま、一歩下がった。
「ほなボク、ちょっと探してきますわ」
「何言ってやがる。ふらふら出歩くなと言ってるだろう。あの部屋まで送ってやるから、大人しくそこにいろ」
「あの部屋、嫌いや。戻りたない」
「わがまま言うな。何のために浮竹がお前をあの部屋に入れたと思っているんだ」
「自由を奪われるくらいやったら」
 霊力は全くないのだが、驚くほど素早い身のこなしで、市丸は来た時と同じように、するっと扉の外に逃げ出した。
「死んだ方がマシや」
「おい、こら、市丸!」
 予想以上のその速さに、日番谷は驚いて後を追うが、廊下に出た時には、もう市丸の姿はどこにもなかった。


 日番谷はその足で、十三番隊へ急いだ。
 あんなに簡単に市丸を逃がすなど、言語道断だと腹を立てていた。
 まだ正体もわかっていないのに。
 霊力も、記憶もまるでないのに。
 外に出したら、捕まって、殺されてしまうかもしれないのに。
 だが、その市丸を目の前にしながらまんまと逃がした自分も、同罪かもしれない。
(とにかく一刻も早く、あいつをみつけなきゃ)
 十三番隊に着くと、日番谷は表からではなく、こっそりと浮竹の雨乾堂へ忍び込んだ。
「浮竹、いるか、日番谷だ」
 部屋の前で小声で声をかけると、浮竹はまだ起きていたようだった。
「日番谷隊長…どうしたんだ、こんな時間に」
 障子を開けて出てきた浮竹に、日番谷は素早く部屋の中に滑り込んで、声を荒げた。
「どうしたじゃねえ、市丸が逃げたぞ!お前、何やってんだ、しっかり閉じ込めておけよ!」
「まさか!あそこを出られるわけがない。いくつも鍵をかけてあるし、結界も…」
 言いかけて、浮竹は少し考えるようにした。
「そういえば…、彼は霊力はまるでないのだが、…いや、鍵をかけているのだから、それもないだろう」
「なんだ、何が言いたい?」
 険しい顔で聞く日番谷に、浮竹は鍵を取り出して、
「よし、確かめに行こう。途中で説明する」
 もう一度二人で、幾重にも鍵をかけられたその奥の部屋へと向かった。
「今日、松本くんが来てくれた時には、おとなしくベッドで寝ていたのだが」
「身体が元気になってきたら、そう一日ベッドで寝てもいまい。少なくとも俺のところへ来た時は、ほとんど回復しているようだった」
「あれほど衰弱していたのに、これほど早く回復するとはな。…彼は一体何をしに、君のところに行ったんだい?」
「わからない。どうして俺のいるところを知っていたのかもわからない。だが、偶然ではなく、意図的に来たような口ぶりだった。…もっとも、あいつの言うことなんか、当てになりはしないが」
 あれだけ否定しておきながら、彼が市丸であることを認めるようなことを言ってしまったが、日番谷はあえて訂正はしなかった。
 どういう理由でそうなったのかはわからないが、彼はやっぱり市丸であると、先ほどの対峙で思えてきていたからだ。
「記憶が戻ったのかな。…無意識の部分で」
 考え深そうに言う浮竹に、日番谷は眉をひそめてチラリと見上げた。
 隠していたつもりではあったが、浮竹は日番谷と市丸の関係を知っていたから、市丸と思われる男を捕らえて、一番に自分に知らせてくれた。
 だが、あんなことがあった後、まだその関係が継続していると思われるのは、少々不本意だった。
 自分にはいつだって市丸を殺す準備ができているし、市丸だって、…
(きれいさっぱり忘れやがって、どの面下げて俺の前に再び現れやがった!)
 ギリギリと奥歯が鳴るほど苛立って、日番谷は頭に上った熱を冷ますために、軽く首を振った。
(…いや、上等だ。今度こそ間違いなく、俺が引導渡してやる!)
 なんとか記憶を戻らせて、その時に。
 だがそれまでは、…市丸を、他の誰かに殺させるわけにはいかない。
「ところで浮竹、さっき言いかけたことの、続きを聞きたいんだが」
「ああ」
 最後のドアを開ける前に日番谷が聞くと、浮竹は手を止めて、振り返った。
「最初捕まえた時、彼はとても衰弱していたし、特に抵抗もなかったから絶対にそうだと確証はないんだが。…彼に霊力がまるでないのは、君も感じたとおりなんだが、同時に彼には、…どうやら、こちらの霊力での攻撃は、効かないらしいんだ」
「なにっ!」
「霊的な力の影響をほとんど受けないと言うべきか。…試してみないとわからないが、例えば君が卍解してその霊圧を叩き付けても、彼にそれは通じないかもしれない」
「…マジか」
「だから恐らく、霊力で張った結界は、彼には効かなかったのだろう。だが、物理的にかけられた鍵は、外せるとは思えないのだが」
 言葉の意味を、慎重に考えてみる。
 それでは次に市丸と向かい合った時、彼を殺すためには、純粋に剣術で倒すしか方法はないわけだ。
 もちろん、それでも負けるつもりはないが。
「…それに、現にこうして、鍵はかかっているわけだし」
 浮竹の言葉にハッと我に返ると、目の前で重い扉が開いた。
「…市丸!」
 ベッドに静かに横たわっている男の姿を見て、思わず日番谷は叫んでいた。