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百年目の恋人−5

 重い扉の向こうには、更に幾重にも鍵のかかった扉が続き、ようやくひとつの扉の前までくると、浮竹はそこで待っていてくれ、と言って、ひとりで先に中に入った。
「やあ市丸くん、気分はどうかな?起き上がって、大丈夫なのかい?」
 まだ市丸と確定はしていないようなことを言っていたのに、浮竹は市丸と呼びかけて、気さくに話しかけている。
「気分ええわけありますかいな。何ですの、こない殺風景で、窓もない部屋。お花の一本くらい、活けてくれはったらええのに」
 続いて聞こえてきた声と喋り方に、日番谷は呼吸が止まりそうになった。
 まるで市丸そのものだ。
 隣で松本も、息を詰めて固まっている。
 もう一度殺されるために生き返るなんて、あんまりだ。
 そのまま死んでいてくれたら良かったのにと思ったのに、その声を聞いたらさまざまな感情の激流が一気に押し寄せてきて、たまらなくなった。
 あんなに忘れようとしたのに、ちっとも忘れていなかった。
 今にも飛び出して顔を見たくて、足が震えそうになる。
(…生きて、いた…?)
 記憶がないと言っていたが、それでもどんな顔をして会ったらいいのか、わからない。
 会うのが怖いのに、どうしようもなく会いたい。
 もう一度、あの顔を見ることができるのなら…
「はは、お花ね。実は君の喜ぶお花を二人連れてきたんだよ」
 続く浮竹の言葉に、日番谷は少々イラッとした。
(なんでお花が二人だ!いらんこと言うな!余計に顔出し辛くなったじゃねえか!)
 今まで以上にドキドキしている心臓をなんとか落ち着かせようとするが、刻一刻と迫る再会の瞬間を思うと、気が遠くなりそうだった。
「へえ、ほんまですの?」
 市丸の期待するような声を聞くと、ますます緊張してきてしまう。
 松本はともかく、記憶がなかったら日番谷を見たって、喜びもしなければお花だと思いもしないに決まっているからだ。
 思われても、あまり嬉しくもないが。
「日番谷くん、松本くん、入っておいで!」
 声をかけられて、重い足を、なんとか動かした。
 それでも毅然と顔を上げて背筋を伸ばし、堂々と部屋に入って、男の顔を見た。
 部屋は本当に殺風景で、簡素なベッドが一台あるだけだった。
 そしてベッドの上には…
「ギン!」
 あまりにも…、あまりにもよく似たその姿に、声も出ない日番谷とは逆に、松本は大きな声で名前を呼び、ぱっとベッドに駆け寄った。
「ギン、あんた、こんなところで、何してんのよ!」
「松本くん、彼には記憶が…」
 苦笑して浮竹が言いかけた時、
「あれ…乱菊?乱菊やないの?わあ、えらい綺麗になったもんやなあ」
「あたしがわかるの?!」
「松本くんのこと、覚えているのかい?」
 ふたりが驚いて市丸を見ると、市丸は困ったように、
「覚えてるていうか、あんまり覚えてへんけども、誰だかはわかるていうか…」
「中途半端ね!思い出しなさいよ!」
「まあまあ、松本くん」
「…で、あそこのちっちゃい子ぉは、さっきからめっちゃ怖い目ぇしてボクのこと睨んではるけども、あの子は、誰なん?」
 今の今まであんなに高鳴っていた心臓が、市丸のその言葉で急速に凍りついてゆくのがわかった。
「ああ、彼は十番隊の、日番谷隊長。松本くんの上司だ」
「隊長?隊長さんなん?へえ、あないちっこいのに隊長さんなんや。…、それで、その十番隊長さんは、なんでボクのこと、あない睨んではるの?」
「睨んでねえ。こういう顔なんだ」
 ひとつ息をついて冷静に答え、日番谷は市丸のベッドに歩み寄った。
 市丸は黙って、じっと日番谷を見ている。
「で、お前、十三番隊の敷地内で、何してたって?」
「覚えてへんねん。気ぃ付いたら、あそこにおったんよ」
「自分のことは、わかるか」
「思い出してもあんまりええことなさそうやいうことはわかるけども」
「他にわかることは」
「なんや十番隊長さんは、尋問にきはったん?浮竹さんがお花や言わはるから、期待してもうたのに」
 のらりくらりとはぐらかすような話し方をするところも、市丸だった。
 松本を認識した段階で、疑いの余地はないのだが。
 日番谷は顔をしかめ、いっそうきつく睨みつけると、
「お前、立場をわきまえろ。俺達は慈善事業をしているわけじゃねえ。記憶のない不審な男が何者なのか、わからないで好き勝手させるわけにいかねえだけだ」
「ボクが何者なのか、キミらの方がよう知っとるみたいやけども」
「わかったもんじゃねえ。思い出す気になったら、いつでも言え」
 フン、と冷たく鼻を鳴らして言うと、市丸はすうっと、唇の両端を持ち上げた。
 かつてよく見せた市丸独特の、内心が全く読めないその笑みに、日番谷はドキッとすると同時に、ゾッとするものを覚えた。
「信じてくれてへんねや。…厳しいんやね、十番隊長さんは」
 市丸がそんな笑みを見せる時は、もう彼の表情から何かを読み取る自信はない。
 心を閉ざした時の顔だと、勝手に日番谷は思っている。
 日番谷は即座に見切りをつけて、一歩下がった。
「お前、本当に霊圧の欠片もねえな」
「んん?…ああ、そうやってね。ボクにはようわからへんけども」
「他人の霊圧を感じ取る力もないのか」
「キミがちっちゃい身体の割に強い力持ってはるいうことはわかるで」
 さっきから何度も小さいを連発されて少々頭にきたが、ここでそれを言うと気にしていると思われそうで、それも腹が立って日番谷は眉をひそめるにとどめた。
「それが霊圧だ」
「…いやー、強い力持ってはるんやなかったら、そないちっちゃくて隊長さんにはなられへんやろな思うて」
「…それは単なる推理じゃねえか」
「せやから、わからへん言うてるやん」
 からかわれていると気が付いて、日番谷はムッとしたが、あえて一呼吸入れてから、
「では覚えておけ。お前がここで生かされているのは、浮竹の情けだ。この部屋より外に出たら、もはや命はないだろう。せいぜいおとなしく養生することだな」
 言ってすぐに身を翻し、
「帰るぞ松本」
「あっ、はい…」
 行きかけた時、市丸の長い手がするりと伸びて、松本の腕に絡まるのが目の端に映った。
 ふわっと捕らえて、羽根のような呼吸で引き寄せる。
「…行かんといて、乱菊。もう少し、ボクのそばにいて」
 囁くような、小さな声だった。
 さっきまでの不遜な表情は消え、親に甘える子供のように松本を見上げている。
 さすがの松本も、とっさにいつもの罵倒は出ないようだった。
 ふたりの間に、…他の誰も入れないような、ふたりだけの空気が生まれたのを見て、日番谷は息を飲んで二人をみつめた。
 浮竹も黙ったまま、じっと二人を見ている。
 市丸の手に更にきゅっと力がこもるのを見て、日番谷はさっと目を逸らした。
「…先に行っている。浮竹、あいつは信用ならねえ。松本はもう少し居ても構わんが、ふたりきりにするな」
「あ、ああ」
「あ、隊長、あたしは…」
「いい。お前は居ろ」
 どうしようもないこの怒りのようなものはなんなのだろうと、日番谷は迷路のような廊下を戻りながら、ひとり思った。
 市丸が生きていたなんて、どう考えても有り得ない。
 でもあの男は、市丸でなかったら誰なのか。
 十二番隊で、また何か怪しいものでも作ったのか。
 市丸の思念だけが誰かにとり付いて、市丸として甦ってしまったのか?
 あれが市丸であることをどうしても認められないのに、あの男が松本はわかったのに自分のことはわからなかったことがショックだった、この事実も信じられない。
 そう、ショックだった。
 市丸にとてもよく似た男と、もう一度会ってしまったことも、その男が本当に市丸かもしれない可能性があることも、彼が自分を覚えていなかったことも。
(本当にあいつは、市丸なのか?)
 あれほどの個性を持った男が、別人だなんて到底考えられないが、ならばその彼を前に、自分は一体どうしたらいいのか、日番谷にはさっぱりわからなかった。
 市丸に記憶がない今、…自分は市丸にとって、何なのか。
 松本との間に生まれた親密な空気と、日番谷のことはまるでわからなかった市丸の掴み処のない笑みを思い出す。
 自分達の関係は、…それを復活させる勇気は、とても自分にはないと日番谷は思った。