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百年目の恋人−4

 どうしようかさんざん悩んで、日番谷はようやく、可愛らしい花束を買った。
 持って歩くのが恥ずかしくて、花束を風呂敷に包むという有り得ないことまでして、四番隊へ向かった。
「あら日番谷くん!きれいな花!どうしたの、それ?」
「どうしたのって、見舞に決まってるだろうが」
 真っ赤になって花を渡すと、雛森は嬉しそうに、ふふ、と笑った。
 そうしていると、すっかり元気そうに見えるのだが、雛森はまだ時々おかしなことを言ったり、突然どこかへふらふらと歩いていったりするのだと聞いた。
 愛染の死と、彼の裏切りは、彼女にとって、どちらがより辛いものなのだろう。
 あんなに酷い裏切りを受けても、生きていてさえくれたならと思わずにいられないのでは、あまりにも惨い。
 雛森には何か新しい、生きる目標が必要だと日番谷は思った。
 自分がそれになれてやれたら、どんなにいいだろうとも。
「雛森、今度皆で『食べれるキノコを探しに行こうツアー』とかゆうわけのわからんものに出かけるみたいなんだが、お前も体調が良かったら、一緒に行かないか?」
「わー、楽しそう!あたし、こう見えても、キノコには詳しいのよ!」
「料理は下手だけどな」
「そんなことないもん!もう、日番谷くんには、食べさせてあげないからね!」
「食いたい奴、いるのか?」
「ひどいー!」
 ベッドの端に腰を下ろすと、窓から射し込む柔らかな日の光が、暖かかった。
 日番谷にとっての、雛森そのものみたいに。
 こうしていると、全てが夢だったのではないかと思えて、日番谷はぼんやりと、光の射す方を見上げた。

 その後他の病室を回って、負傷者達を見舞った。
 隊長の元気な姿を見せることも、隊士達を安心させ、気持ちを盛り上げ、回復を早めることに繋がる、重要な仕事だった。
 あちこちの部屋を回り終え、一応自分も経過見せで診察を受けようと卯ノ花のところに行こうとしたら、廊下の途中で彼女に会った。
 卯ノ花は一人で窓の外を見上げていて、日番谷に気が付くと、にっこりと優しい笑みを浮かべた。
「あら、日番谷隊長。もうすっかりお元気そうですね?」
「おかげさまで。世話になったな。まだ他に面倒をみてもらっている隊士達がたくさんいるが、よろしく頼む」
「お任せください。日番谷隊長の身体も、その後の経過を少し診させていただけますか?」
「ああ、頼む」
 卯ノ花と部屋に向かう途中、日番谷はふと、彼女が見上げていた窓の外を見た。
「…今日は、なんか、不吉な色っすね?」
 きれいに晴れているところもあれば、不気味な色の雲があちこちに渦巻いてもいて、通常ではない異質感を感じずにはいられない空だった。
「そう…さっきから、あの辺りに…妙な、禍々しい気を感じてならないのですよ…。あんなことがあったばかりですからね。空間の防御壁が薄れているのかもしれません。…何事も起こらないとよいのですが…」
「…何が起こっても不思議ではないがな。起こるにしても、もう少し皆に休む時間があるといいのだが…」
「そうですね」
 その禍々しい雲は、やはり不吉なことが起こる前兆だったのかもしれない。
「隊長」
 執務室に戻るなり、松本が待っていたように、駆け寄ってきた。
「どうした?何かあったのか?」
 その珍しくも真剣な顔を見て、日番谷もきゅっと表情を引き締めた。
「あの、実はさっき、浮竹隊長がいらっしゃって」
「浮竹が?」
「はい。なんでも、今夜就業時間が終わったら、できるだけ早く極秘であたし達ふたりに来てほしいって」
「極秘で俺達に?」
「はい。あたし、なんだか胸騒ぎがして、居ても立ってもいられなくて」
「…そうか」
 浮竹は護廷十三隊の隊長の中でも、京楽とふたり、特別な任務を言い渡されることが多い。
 特別な情報を得ることも多いし、特別な事情ができることも多く、その浮竹に、松本と二人で極秘で来いと言われると、確かにその内容は気になる。
「…よし、じゃあ今日の仕事は、今のうちにさっさと片付けるぞ」
「はい」
 胸騒ぎ。
 そんなものを、これまで何度経験してきたことだろう。
 死神の隊長になって、そういった感覚はますます研ぎ澄まされてきた。
 就業時間が終わり、誰にもみつからないよう十三番隊へ向かった日番谷と松本は、すぐに浮竹に隊舎の奥深くへと連れてゆかれた。
「本来俺は、ここでこういう行いをするべきではない。重大な違反をしていることもわかっている。…だが、俺はどうしても、まず君達に知らせないではいられなかったんだ。その事情を踏まえて、君達はこれから何があっても、慎重な態度をとるよう心掛けてほしい」
「…わかった」
 ぼんやりとした灯りがともるだけの、迷路のように長く曲がりくねった暗い廊下をどこまでも進み、自分がどちらを向いているのかさえ軽くわからなくなった頃、堅牢で重厚な古い扉に行き当たった。
 浮竹はそこの鍵と思われるものを手にしたまま、重い表情で振り返った。
「先に話しておこう。夕べ十三番隊の敷地内…厳密には俺の雨乾堂の庭で、一人の男を捕らえた」
「男?」
 勘はいい方だった。
 でもその時は、そんな可能性など思いつきもしなかった。
「男は死覇装によく似た着物を着ていたが、それは死覇装ではなかった。刀も差していない。霊圧もない」
 黙って聞きながら、松本から高まってゆく緊張感を感じ取っても、まだ日番谷は、浮竹の言わんとしていることに、気が付かなかった。
「どうやってここまで来たのか、わからない。憔悴しきっていて、抵抗もなく捕まり、すぐに意識を失った」
「浮竹隊長、まさか…」
 掠れた声で言う松本を見上げて初めて、日番谷はある可能性に思い至った。
 その可能性に気が付いたとたん、ドクッと大きく心臓が鳴った。
 だが、それは有り得ない。
 いや、あってはいけないのだ。
 絶対に。
 だが少し、そこに風が吹き込むように、心が揺れた。
「彼が誰だかは、確証はない。だが、元いた三番隊の隊長に、非常によく似ている…」
 そのショックは黒い爆風のように、日番谷の思考を一瞬吹き飛ばしたが、
「そいつは、市丸じゃねえ。あいつは、死んだ」
 浮竹の言葉を遮るように、日番谷は素速く、ピシャリと言った。
 浮竹と松本が、ハッとした顔でみつめてくる。
「有り得ねえ。あいつは、死んだ。俺の目の前で、俺の刀の先で、確かに死んだんだ、間違いねえ」
 忘れようとしても忘れられない、あの感触。
 ひとつの生命が、重みも形も失う瞬間の、生々しさ。
 あれは、その手で感じた者にしかわからない、残酷なまでに確かな事実なのだ。
 日番谷の確固たる拒絶に、浮竹は一度間をあけてから、低く冷静な口調で、
「日番谷隊長、君の言葉を信じていないわけでも、否定しているわけでもない。俺はただ、見てほしいだけだ」
 日番谷と浮竹の間で、一瞬、強い何かがぶつかり合った。
 浮竹も、バカではない。
 そしてその目も、節穴ではない。
 日番谷の背に、知らずゾッとしたものが走った。
 もしも…、もしも、本当に市丸が、なんらかの理由で生きていたとして。
 今ここで市丸が生きて戻っても、もう一度処刑されるだけだ。彼の居場所は、もうここにはないのだ。
 もう、一度死んだのに。
 せっかく何もかも、終わったのに。
 なぜそのまま死なせてやらないのかと思った。
 なぜ放っておいてくれないのか。
「…そいつが何者だったとしても」
 噛み締めた奥歯の向こうから、日番谷は唸るように言った。
「霊圧がないなら、ただの魂魄だ。どうしてそのまま流魂街にでも捨ててしまわなかったんだ」
 言いながら日番谷は、自分が無茶を言っていることがわかっていた。
 負い目でも感じていたのだろうか。極秘に幽閉して日番谷と松本を呼んでくれただけでも、破格の情けなのに。
「それはできない」
 浮竹も、恐らく全てわかった上で、儀式的に言葉を口にした。
「今は霊圧がないとはいえ、一度は尸魂界を破滅に導く一助を担った男かもしれないのだ。彼の正体やその意図、尸魂界に害がないと確信できる何かがない限り、野放しにするわけにはいかない」
 息を飲んでふたりを見ていた松本も、沈痛な面持ちでそっと目を伏せた。
(奴の意図を知るとか害がないと確信するとか、そんなこと、できるわけがない)
 一生幽閉されるかもう一度処刑されるか、どのみちそんな運命なのだ。
 日番谷は一度、大きく息を吐いた。
「…仕方ねえ。会わせてくれ」
 日番谷が少し冷静になったのを見て、浮竹は頷いて、錠前に鍵を差し込んだ。
 それから思い出したように、
「…ああ、それからもうひとつ。…残念なことに、彼にはどうやら、一切の記憶がない」
 日番谷と松本は、同時に大きく目を見開いた。
「恐らく君達のことも、わからないだろう」
「…それは…」
 いいことなのか、悪いことなのか。
 ゴクリと唾を飲んで松本を見上げると、松本も困惑したように日番谷を見てきた。
「心の準備はいいかな?」
 ここまできたら、もう行くしかないだろう。
 ふたりが頷くと、錠が外され、巨大な扉が重い音を立てて開いていった。