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百年目の恋人−2

 ふわりと花の香がして、日番谷は目を覚ました。
「あら、起きました?きれいでしょ、これ、隊員達から、お見舞いなんですよ?」
 顔を上げると、窓からきらきらと射す日の光に、松本のきれいな金色の髪が、きらきら輝いて見えた。
 その手の中には大きな花瓶があり、その中に目が覚めるほど見事な花がいっぱいに挿してある。
(…ああ、俺、夢、見てたんだ…)
 じわっと薄く汗をかいているのを感じて、日番谷は軽く眉を寄せて、窓の外を見た。
 こんなことになって、まだ思い出すのは、あんな夜のこと。
 それが哀しいのか、切ないのか。それとも悔しいのか。
 まだそのどれも感じることができないほど、胸にはぽっかりと穴が開いたようになっていた。
「…雛森は、どうしてるかな?」
「元気になってきてますよ?…身体の方は。心はまだ、…現実を、受け止めきれていないみたいですけど」
 窓の外には…、見るも無残な瀞霊廷の残骸のような光景が広がっていて、それは残された者達の心のようだと日番谷は思った。
 ボロボロになって、それでも残って、何事もなかったように美しく輝く日を浴びて、再び元の姿に戻れる日を待っている。
 愛染との決戦は、今となっては夢の中の物語のように、遠い世界の出来事のように思えた。
 現実にはその爪痕は生々しく、尸魂界の存続まで怪しいような状態だった。
 愛染は、尸魂界どころか、…その頂点に君臨する王家と特務の者達を壊滅状態にして、この世界の全てをメチャメチャにした。
 …と、途中リタイアした日番谷は、後からそんな話を聞いただけなので、あまり現実味を感じないのも仕方のないことだった。
 その戦いが熾烈だったことは、覚えている。
 護廷十三隊といえど、間近に迫れるのは隊長格のみで、副隊長以下は、後方支援でしか活躍の場はなかった。
 活躍どころか、その場に存在できるほどの力がなかったからだ。
 そこに存在するだけで、隊長格の日番谷でさえ霊圧を引き絞られるほどの圧倒的なパワーが渦巻くあの戦場で、あれは、奇跡だったとしか、言いようがない。
 市丸が。
 そこに。
 その姿を見た瞬間、熱い血が全身にたぎるのを感じた。
 何の邪魔も、制約も何もない、同じ空間、同じ場所に、たったふたりだけ。
 市丸が、そこに。
「たいちょ、食欲はありますか?こんな中で、病院食なのに、結構豪華なんですよ〜ぅ?」
 松本の明るい声で、再び日番谷は現実の世界に引き戻された。
「…ああ、食う。早く回復しねえとなんねーしな」
 これからは、瀞霊廷の、尸魂界の再建に全力を注がなければならない。
 秩序を守るためにそれは急を要し、少しでも多くの力が必要だった。
 こんなところで、いつまでも寝ているわけにはいかない。
 食事を終えると、窓を開けて外の空気を入れていた松本が、外を見たままで、ぽつんと言った。
「…隊長、隊長が食事を終えたら、浮竹隊長がいらっしゃることになってるんです」
「浮竹が?」
「何があったのか、詳細に知るために話を聞きに来るんだそうです。隊長がまだ全快していないのはわかっているんですけども、少しでも早く報告を上げないといけないとのことで」
「…事情徴収か」
 日番谷はため息をついて、わざと皮肉な言い方をした。
 確かにあの戦乱の中、どこで何が起こったのか詳細に知る必要があり、特に主犯格と戦った者の話は、…
「隊長、…ひとつだけ、アタシに一番に教えてほしいことがあるんですけど…」
 やはり外を見たまま、松本がさりげなさを装って、ぽつんと言った。
 何を聞きたいのかは、およそ見当はついた。
 だが日番谷は、松本が自分の目を、真っ直ぐに見るまで答えるのを待った。
「…ギンは…」
 思ったよりも早く、勇敢に松本は振り返り、しっかりと日番谷を見た。
 日番谷も真っ直ぐにその目を見つめ返してから、
「…あいつは、死んだ」
 ごまかすこともなく、揺るぎなく告げることが、一番の誠意だと思った。
 松本は少し瞳をかげらせただけで、冷静にその言葉を受け止めたようだった。
「…そう…。やっぱり。そうじゃないかと思いました。どうせろくな死に方しないと思ってたけど、隊長と戦って死ぬなんて、あいつには勿体ない死に方だわ」
 日番谷は黙ったままじっと松本を見ていたが、泣かないでいてくれて助かったと、心の底では少し思っていた。
 こういう時泣かない方が…、本当は、ずっと傷が深いのかもしれないけれども。
 松本は自分の方をじっと見ている日番谷が、松本のことを心配しているのを敏感に感じ取って、すぐに明るい笑顔を浮かべて、
「あ、平気ですアタシ。あいつに置いて行かれるの、慣れてるんですよ。どうせそんなことになるだろうと、ずっと思ってたわ。…あいつは…」
 開け放した窓から、さあっと冷たい風が吹き込んできた。
 カーテンがはためいて、松本は言葉を途切れさせたまま、何かを思い出すように、遠くをみつめる目をした。
 薄いブルーの瞳がガラスみたいに透き通って、それを見ていた日番谷は、彼女にそんな目をさせる全てに対し、思わず呪いの言葉を口にしてしまいそうな、やりきれないものを胸に感じた。

 市丸との再会は、…
 ほんの一分、あったかどうか。

 まっすぐに対峙した時は、夢じゃないかと思った。
 市丸が尸魂界を裏切って、愛染と去ったあの日から、市丸をこの手で殺すことは、何より為すべきこととなった。
 十番隊の隊長としては、市丸と対峙したら、殺す以外の選択肢は与えられない。
 ひと目見たら、彼が何を考えて自分や松本や、彼を慕う部下や、彼の属する世界の全てを棄てて去って行ったのか、少しでもわかるのではないかという甘い期待はあまりしていなかった。
 ただ、この呪縛を解くためには、どうしても、切実に、そうしなければならないと強烈に思い続けていた。
「…とうしろう」
 もうもうと立ち込める土煙の中、忘れられない声と響きが、甘く馴れ馴れしく日番谷を呼んできた。
「冬獅郎、久し振りやね。元気そうで、何よりや。…背ぇは、ちょっとは、伸びた?」
「…黙れ」
「誰にも触れさせてへんやろうね?ボクの可愛え、キミの身体。…ボクのもんやて印は、まだそこにあるんやろう?…なあ、冬獅郎?忘れてへんよね?」
「うるせえ、テメエは祈りでも唱えてろ!」
 話したら、心が揺らぐ。
 名を呼ばれたら、心に隙ができる。
 全てわかった上で優しげに語りかけてくる市丸に、日番谷は砕けるほどに固く奥歯を噛み締めて、一気に斬魄刀を抜いた。
 勝負は短時間で決めなければならない。
 一分一秒増すごとに、日番谷の勝機はなくなってゆく。
「卍、解…!」
 ドンと霊圧が爆発し、爆風のように凍気が走る中、その隙間をかいくぐるように閃光がひらめいて、光の速さで走り抜けてきた。
「…っ!」
 市丸の神鎗は、真っ直ぐ迷いなく日番谷の心臓を狙ってきていた。
 ギリギリでそれを避けながら、日番谷は有難い、と思った。
 市丸は、本気で、自分を殺すつもりだ。
 何のためらいも、容赦もなく。
 なれなれしく言葉をかけてきたことも油断させるためで、本気で再会を懐かしんでいたわけではない。
 当然だ。
 今更再会もへったくれもない。殺すか、殺されるかだ。
 胸が熱く押し潰されそうになりながらも、最後の迷いも未練も何もかも、これで断ち切れると日番谷は信じた。
「大紅蓮氷輪丸ッ!」
 斬りかかった先で、市丸の姿が、一瞬で消えた。
 次の瞬間、自分の左手に誰かの手が伸びるのを感じ、懐に入られた、と即座に察した。
 何気ない日常の中でも、日番谷がどんなに警戒していても、市丸はいつも軽々とその間合いに入ってきていた。
 彼のそれは天性のセンスでしか有り得なかったが、日番谷に対して言えば、さらに日々その技を磨いていたと言ってもいいような状態だった。
 接近戦に持ち込む必要のない武器を持ちながら、あえて懐に飛び込んできた市丸に、一瞬だけ、チリッと胸が焦げるのを感じた。
 大きな鎧をまとっているような卍解状態の日番谷の、その内側に滑り込んできた市丸に手を掴まれる前に、日番谷は身を捩ってそれを避けながら、目の前に現れた大きな影に斬りかかった。
 はずだった。
 身を捩るより先に走らせた刃の先が、柔らかな肉に食い込む感触を指先に伝え、続いて送った視線の先に、もう遠い記憶の中にしかない市丸の顔を、あの頃と変わらない、近くにあって何もわからない彼の能面のような笑顔を幻のように、ほんの一瞬もなくごく間近に捕らえたと思った次の瞬間、 
「うわ、あ…!!!」
 痛いほどの光が全ての視界を奪い去り、目が眩んだ。
 どこからか飛んできた凄まじい光の矢が、直視できないほどの眩しさで視界の全てを包み込み、…
 氷輪丸の羽も尾も瞬時に吹き飛び、消えたのを感じると同時に、ようやくようやく捕らえた市丸の顔が、背後から光を受けて陰になり、その形も表情も、彼の心も何もかも、暗い悪夢のように黒く、かき消えた。
「いち、ま…!」
 そのまま眩しい光に蒸発させられたように。
 途方もなく大きなエネルギーがそこにかかったのを、市丸の身体にねじ込んだ切っ先から、恐ろしいほど生々しく伝わってきた。
 彼の感触が、生命の魄動が、存在が、一瞬何かを守るように持ちこたえた後、砂が崩れて霧散するように、ぱっと一気に結合を解いた。
 力強かったその身体が、世界を揺るがすほどのあの霊圧が、生命が、存在が、日番谷の目の前で、その刀の先で、彼そのものが、
「い…ちまるーーーーッッッ!!!」
 同時に放出された莫大な量のエネルギーが、日番谷を飲み込むように襲い掛かってきて、日番谷は全ての霊力を一気に高めて身を守りながらも、圧倒的なそのエネルギーになすすべもなく、そのまま地面に叩き付けられ、更にどこかの裂け目に転げ落ちたところまでは覚えている。
 あとは、暗黒の底に吸い込まれるように、意識が深く真っ暗な世界へ、どこまでもどこまでも落ちてゆくのを感じていた。

 
 一通りの話を聞き終えた後、浮竹は、そうか、と静かに言って、じっと日番谷を見た。
 あまりにも酷い、こんな目に会いながら、この少年はどうしてこんなにも凛としていられるのだろうと思った。
 あの戦場で、よりにもよって裏切った恋人と対峙して刃を交え、それでも護廷隊の隊長として、自分こそが相手を殺すのだという健気な覚悟さえ踏みにじられるような最後だったのに、瞳の火はなお翳りもしない。
 この少年は、どこまでも大人で、そして戦士なんだと浮竹は思った。
「あの戦場では…途方もない力が、荒れ狂っていた。君がその光の軌道上にいながら、重傷を負ったとはいえ生きて戻れたのは、奇跡としか言いようがない」
「…どういう意味スか?俺が、嘘をついているとでも?」
「いや、そうは言っていない。日番谷隊長は、卍解するために、霊圧を極限まで上げていた。そして恐らくは市丸もそれは同じで、偶然君達の位置関係と、二人の体格の差から、…」
 市丸が、君と光の間にいたから、丁度防御壁の役割を果たしたのだろう、と浮竹は静かに言った。
「本当に、運が良かった。そしてギリギリの場で戦う俺達に、それはとても大切なことなんだ。…ゆっくり休んで、早く回復してくれ」
「……」
 日番谷の傷は、厚い氷の、向こうにある。
 見えていても触れることも叶わず、癒してやれることもない。
 浮竹は、そんな惨い事実を告げられても毅然とした態度を貫く彼の誇りを前に、それ以上の言葉をかけてやることもできず、静かに部屋を出ていった。


 結局その日、日番谷は自室へと帰ることを許された。
 松本が部屋まで付き添い、布団の用意までしてくれたが、終始明るくふるまい続けるその様子に、却って胸が痛くなった。
 自室の布団に横になり、天井を睨み付けながら、日番谷は繰り返し、浮竹の言葉とあの時の状況を思い出していた。
(運がいいだと?…いいや違う、あれは…)
 目も眩む程のあの光は、市丸の全くの背後から飛んできたから、彼の身体が邪魔になって、日番谷にはその瞬間は見えなかった。
 ただ突然、本当に突然、ようやく間近で見ることの叶ったその顔から、何も読み取る暇もなく全てが影になり、市丸の手が…、自身に突き刺さる氷輪丸の刀身を、しっかりと握った。
 その鋭い刃を介して二人が再び繋がったことを、日番谷に教えるように。
 どこへ逃げるのも許さぬというように。
 1ミリでも逃げたら…日番谷は…
 思い出して日番谷は、ブルッと震えた。
(…ああ、俺は…運が、いい…)
 浮竹は、心の逃げ場をくれたのだ。
 そう思わなくては自分を保てなくなりそうで、日番谷はすがるように、祈るように、繰り返し呪文のように唱え続けた。
 あの光が飛んでこなくたって、どちらかが死ななければ終わらない戦いだった。
 どちらかが死ななければ、終わらない。
 そして市丸が死んで、自分は生き残って、終わった。
 終わった。
(…もう、考えるのはやめよう。考えたって、何も変わらない。考えたって、どちらが死んだって、もう、本当は、あの時に…、いや、もっと前に、俺達が出会う前に、もう何もかもが、すでに終わっていたんだから…)


 裏切られた時は、もうこれ以上酷いことなんて、ないと思っていた。
 市丸を殺したら、全てに決着がついて、解き放されるのだと思った。


 だが、実際には、市丸が死んで、消えてなくなって。
 


 自分の存在までもが消えてなくなったかのような、こんな恐ろしいダメージが残るなんて、夢にも思っていなかった。