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百年目の恋人−1

 ずいぶんと月が暗い夜、日番谷は自室で一人、本を読んでいた。
 時折聞こえる風の音、木々の葉が揺れる音だけが、静かな部屋に心地よく響いてくる。
 平和だ、と日番谷は思った。
 自分一人だけの時間というものを、日番谷はとても大切に考えていたが、死神になり隊長にまでなると、そういう時間はどんどん減ってきてしまって。
 それでもここ最近は、一人の時間がほとんどなくなることを、それほど嫌だとも思わなくなってきていた。
 むしろ、急に一人の時間をたくさん与えられると、どうしていいのかわからなくなって、落ち着くまでに、軽い戸惑いがあった。
(もうすぐ一か月か…。…なんだ、案外、こんなもんか)
 ひとりの夜は、静かで、そして自由だ。
 誰かにリズムを乱されることなく、自分のしたいことをして、考えたいことを考えることができる。
 誰かに、何を乱されることもなく…
「…?」
 どこか遠くで、不吉な、動物の断末魔の声のようなものが聞こえたように思い、日番谷は漂っていた意識を、さっと集中させた。
 もう一度遠くから、鴉が絞られでもしたような、しわがれた嫌な鳴き声が聞こえて、日番谷は眉を寄せた。
 瀞霊廷では、時々、本当に時々、こんなような声を聞くことがある。
 音、なのかもしれない。
 その正体はいまだ知れない。
 以前浮竹に聞いてみたことがある。
 浮竹は少し辛そうな顔をして、「ああ、聞くね」とだけ言った。
 隣にいた京楽が、あれは魂が泣いているんだよ、と言った。
「ここにいると感覚が麻痺しがちだけど、僕達の霊圧は、化け物みたいに強すぎるからねぇ。それが、さまざまな感情で色んな色になって、それぞれがぶつかって、ひしめき合って、…それが時々、とんでもないスポットを作っちまうことがある」
 そこに不運な魂が落ち込んでしまうと、悲鳴を上げて蒸発するのだと京楽は言った。
「獣みてえな声スけど。…死にかけたカラスみたいな」
 どうもその説明ではしっくりこない気がして日番谷が言うと、今度は京楽も、少し哀しそうな顔をした。
 日番谷にはそれが…、何か、不吉なことの前触れのように思えてならなかった。
 それで初めてそれを聞いた時には、夜中にも関わらず部屋を飛び出して、声の元を探して瀞霊廷中をさまよった。
 だが、何度そうしても結局何もみつからず、冴え冴えとした月だけが、やけに静かな夜を照らして、不安な気持ちだけが胸に残って、何もわからないまま終わるのだった。
 断末魔の声。
 その部分だけは、京楽の説明でも、納得できる部分だった。
 不吉なものを感じる理由も、何かの命が消える言いようのない哀しさも、確かにそこにあると思えたからだ。
 日番谷が息を詰めたままじっとしていると、その声によってもたらされた不穏な空気は徐々に薄くなり、やがて何事もなかったかのように穏やかな、もとのままの空気に戻っていった。
 世界のどこかでは、常に何かが起こっている。
 だが、それに気付かず、気付いても気付かぬふりをしていれば、何も起こらなかったと同じように、平穏な毎日は続いてゆく。
 気付いてそれを知ろうとしても、そうできないまま終わったならば、やはり同じだ。
 何事もなかったように、ただ平和な時間が過ぎてゆくだけなのだ。
 何も知らないまま。
(…ここであいつだったら、何て言っただろう)
 知らなくてもええこと、世の中にはあるんよ。
 そんな風に言ったかもしれない。
 いつも、いつも何かから日番谷を遠ざけておこうとでもしているように感じる男だったから。
 知らなくてもいいことばかりを知りすぎているとでもいうような目をする男だったから。
(…チッ、せっかくいねえ奴のこと、わざわざ考えちまった)
 わき目もふらず、ひたすら高みを目指して駆け抜けてきた日番谷の腕を掴んで、無理やり脇道に引きずり込んできた男は、長期の任務で今はいない。
 そうでなければ今日もこの部屋で、自分の部屋みたいにくつろいで、日番谷のひとりの時間を邪魔していたに違いないのだが。
 ふう、とタメ息をついて、日番谷は再び本に集中しようとした。
 どちらにしろ、せっかくの一人の時間なのだ。
 殺伐とした死神の仕事から心を切り離し、リセットすることもとても大切なことなのだ。
 再び訪れた平穏な時間も、しかし長くは続かなかった。
 静かな夜の空気が、不意に、黒く揺れた。
 今度は明らかにそこにあり、近づいてくる。
 近づいてくる。
「……」
 日番谷はチラッと目だけを氷輪丸に走らせたが、動かなかった。
 息を詰めたまま戸の方を、それがやって来る方をみつめていた。
 知らず緊張して、じわりと浮かんだ手の汗を、白い夜着で拭う。
(…もう帰ってきやがった…?予定より早いじゃねえか。…しかし、それにしてもこの霊圧は…)
 いつも飄々としている彼は、それでも時々、驚くほどの殺気を帯びる。
 彼自身が抜き身の刀身のようで、向かい合ったら自身も刀に手をかけずにはいられない。
 それでも…、
 日番谷は知っていた。
 その刀は、触れただけで深く切れるほど鋭利だが、柔らかい。
 どうしようもない怒りややりきれなさというような激情をどうしていいのかわからずに、途方に暮れて、ますます鋭利に、ますます殺気を帯びてゆく。
 とうとうそれはそこまでやってくると、音もなく戸が開かれた。
 多少予想はしていたが、思った以上の霊圧の重さに、日番谷は表情は変えないまま、ゴクリと息を飲んで現れた長身を見上げた。
「…市丸」
 表情のない顔はいつも以上に死体のように白くて、産毛が逆立つほどの殺気が一瞬津波のように部屋に押し寄せてきたが、日番谷の呼びかけでそれは荒れ狂う前に勢いを失い、静かに引いていった。
「…おい。いつまでそこで突っ立ってるんだよ。声もかけずに入ってきやがって、失礼だぞ」
 いつもうるさいほど喋る市丸が、それでも何も言わないまま後ろ手に戸を閉めて、ゆるく首を巡らせて部屋を見てから、ひたと日番谷をみつめてきた。
「…長い間会いに来てやれんと、堪忍な?」
 重く、ひび割れるような声が裂け目から漏れ落ちて、ぽたりと畳に滴るように感じた。
 ようやく喋ったその声は掠れて低く、唇はほほ笑むように吊り上っているのに、とても笑っているとは思えなかった。
「何言ってやがる。任務じゃねえか…」
 言い終わる前に、市丸は目の前にいて、長い腕が日番谷の細い体を絡め取って、息もできないほど強く抱きしめてきた。
「いち…」
「嘘つきやなあ、この口は。本当は、ボクがいなくて眠られんほど淋しかったくせに。ボクに抱かれたくて、気ぃ狂うほど身体が疼いたくせに」
 今度はべらべらと喋り出して、日番谷が反論する前に、小さな口はかぶさってきた大きな口に、塞がれた。
「…んっ…」
 荒々しい口づけにきゅっと眉根が寄ったが、日番谷は大人しく目を閉じた。
 あんまり強く抱きしめてくるから苦しかったが、市丸の激情をなんとか受け止めてやりたくて、力を抜いて身を委ねた。
 日番谷が抵抗しないとみると、市丸は即座にそのまま身体を倒し、組み敷いてきた。
 性急に着物の合わせ目に潜り込み、肌に触れてきた冷たい手に、ぶるっと身体が震えた。
 何度も何度も身体を重ねてきたが、こういう時に市丸が優しくなかったことはほとんどなくて、そうでなくても大きな身体にのしかかられる行為に本能的に怯えて、思わず拒絶したくなるのを、なんとか抑える。
「…おい、…い、ちまる、」
 何があったんだ?
 本来なら、こういう時、そんなことは聞かない。
 今聞いても答えるわけがないし、とりあえず受け止めてやることが大切で、聞くならそれからにした方がいい。
 だが、この時の市丸は何かがあまりにも違って…、恐怖にも近い思いで、聞かずにはいられなかった。
 それでも実際に唇にのぼったのは名前だけで、その先はやっぱり、言えなかった。
 ためらわれたせいもあるが、市丸の薄い唇が、日番谷の胸の柔らかな突起に吸い付いてきたからだ。
「…あっ…、」
 久し振りのその刺激に、爪先にまで電流が走ったみたいに、ビクンと足が跳ねた。
「…あっ、あっ、あっ、」
 そのまま吸い上げられるとみるみる思考がまとまらなくなってきて、日番谷はすがるように、市丸の着物を握りしめた。
「あっ、」
 その間も、市丸の指は柔らかな肌を撫で回し、
「い、いち、」
 必死で閉じた腿の間に、するりと差し入れて、遠慮なく触れてくる。
「うあっ、まっ、」
「可愛えなあ」
 何度も何度も口にされる言葉が、どうしようもなく言わずにはいられないみたいに重く深く、大きく心を揺さぶられたような色を持って、感動して漏れた吐息のように捧げられた。
 それはとてつもない愛の言葉だったのに、日番谷は受け止めきれずに身悶えた。
「キミの身体、こないに可愛らしくしたんはボクやけども」
 舌先でなぶりながら、市丸は大切なことを言う時に彼が時々そうしていたように、なんでもないことのようにさらりと聞いた。
「ボクが任務でキミのそばにおられへんかった間、ひとりで我慢できた?」
「…な、に…、っ、んっ、」
 とんでもないことを言いながら奥まで指を伸ばされて、日番谷の頬が、カッと熱く燃え上がった。
「ッカヤロ、…ほかに、どう、…」
 浮気を疑ったならば、許し難い侮辱だ。
 本来こんなことに使うエネルギーも時間も、他のことに使いたいくらいなのに。
 市丸だから、その貴重な時間やエネルギーを、彼のために使っているというのに。
 その燃えるような怒りが、伝わったのか。
 市丸はクッと唇の端で小さく笑って、
「…せやったら、ボクのこと、考えてくれとった?」
「ッ、…う?」
「ボクがいてへん間。ボクのこと、忘れてたんやないやろね?」
「忘れるか、でもそうそう一日中、テメエのことなんか考えてばかりもいられるか…!」
 市丸が望む言葉ではないことは、わかっていた。
 市丸は時々ひどく繊細に、子供のように愛情を求めることがある。
 だが日番谷に言わせれば、言葉なんか、羽根のように軽いものだ。
 市丸が操る遊び言葉のように、そんな形も重みもないものを求めたって、意味があるとは思えなかった。
 それよりも、日番谷が市丸にだけ許すこういう行為で、市丸にだけ割くこんな時間で、言葉より雄弁に伝わるはずだと思った。
 だからいつも市丸は、日番谷に言葉を求めたことがないのだと思っていた。
 市丸が求めるのはいつも無意識の言動や態度や行為、視線や時間、そんなものばかりで、好きかと聞かれたことは、一度もない。
 聞かれても絶対に自分は答えないと思うから、見抜かれているのかもしれない。
 だが日番谷は、忘れていた。
 好きかとは聞かない。
 だが市丸は、何度も何度も自分がいないと寂しいかと、どれだけ自分に会いたかったかと聞いてきていた。
 いつもふらりとどこかへ消えていなくなるのは、自分の方なのに。市丸は何故か、そばにいるということに、彼にしかわからない不思議な感覚で、執着していたかもしれなかった。
 もちろん、そんな言葉にも、日番谷は言葉で答えはしていなかったけれども。
「そうやね。…キミは忙しいし、人気者やから、ボクのこと思い出しとる時間なん、ないよね?」
「…市丸…?」
 そこに何かの激情は感じるのに、その正体はいつも日番谷にはまるでわからなくて。
「顔見ることがなくなったら、人の心から消えるなん、あっという間や。愛に形なんない言うけども、触れられへんものは、触れられるものに、勝たれへん」
「いち…」
 市丸が、突然何を言い出したのか、わからなかった。
 ただ、蛇が。
 目の前で突然鎌首を上げたように思えて、日番谷は喉の奥で悲鳴が掠れるのを感じた。
「おまえ、何…、や、やめ…」
「キミは、ボクのものやってこと。キミも、他の誰も、絶対に、忘れられへんようにしたる」
「い、…あっ、あ―――――ッ…!!!」
 市丸の目が、指先が、カッと光を放ったと思った瞬間、柔らかで敏感な肌の上に灼熱と激痛を同時に覚えて、日番谷は絶叫とともに、意識が切り裂かれるのを感じた。