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百年目の恋人−19

 低く唸る日番谷を、阿散井と檜佐木は息を詰めて見ていたが、松本は一人平気な顔で、
「ま、いいじゃないですか隊長vvたまにはゆっくり体を休めましょうよvv今更他のところ探すのも、大変なだけですしvv」
「冗談じゃねえ、こんな遊び気分満点のところに泊まったら、緊張感がなくなるだろう、お前ら!第一、こんなところに泊まる金なんかねえ!」
 今回の任務は、このところ契約に反して干渉してくる地獄の扉がよく開くらしいと聞いた街で、実際にその現場を押さえることだった。
 到着して即戦闘ということはないのだが、いつなんどき出動しないといけなくなるか、わからない。
 のんびり温泉につかっていては、気持ちが緩んで突然の出撃に対応できなくなってしまいそうな、そうでなくても、なんだこの仲良しグループは、と言いたくなるようなメンバーなのに。
 だが松本は全く怯まず、
「あら、もちろん全部ギン持ちですよ。決まってるじゃないですか、ねえ?」
 ねえ、と言われても困った檜佐木が、曖昧に笑って返している。
「なんであいつが、現世の金なんか持ってるんだ!」
「知りませんけど、現世でお金稼ぐのはチョロいって言ってましたよ」
 さらっと言う松本に、日番谷はますます険しい顔になる。
「あの野郎、時々いないと思ったら、何やってんだ!…まあ、いい。今日のところはしょうがねえ、お前ら、いつでも出動できる状態にだけはしとけよ!」
「はいっ!」
 ここだけはとても良い子の返事をして、自由行動になったとたん、阿散井と檜佐木はウキウキと部屋の中を見て回ったり、窓からの景色を確認したりし始めた。
 松本は嬉しそうに日番谷に寄ってきて、
「隊長〜、夕食は7時ですって。今のうちにお風呂に入っておきましょう〜vv」
「夕食まで出るのか!」
「お部屋は三部屋とってあるみたいですよ。ギンは隊長とふたりのつもりだと思いますけど、あいついないし、あたし達二人で一緒のお部屋に泊まりません?」
「バカ言え、普通女は別だろう!それに一応、あいつの監視はしねえといけねえし」
 大きな胸をぎゅっと押し付けられて、日番谷が必死でそれから逃れながら言うと、松本はからかうような目をして、
「そんなこと言って。やっぱり隊長は、ギンと一緒の部屋がいいんですね?」
「そんなこと言ってねえ!なんならお前があいつと同じ部屋に泊まってもいいぞ。阿散井と檜佐木じゃちょっと心もとないが、お前なら大丈夫だろう。十番隊だし」
「死んでもヤですよ」
 アタシ一応女の子だし!と都合のいい時だけ女であることを強調して、松本が頬をふくらませた。
「あ、じゃあ、一緒にお風呂行きましょう〜vvここのお風呂、すごいんですよー!岩風呂、樽風呂、舟風呂、檜風呂、砂風呂に、もちろん露天風呂もあるんですよ!」
「そうか。…一応言っておくが、俺は男湯に入るからな?」
「えーーーーー!!!どうしてですかー!!!」
「どうしてって、当たり前だろう!なんだその、『信じられない』みたいな言い方は!」
 羨ましそうな顔をして見ている檜佐木と阿散井にいっそう腹を立てながらも、目を吊り上げて日番谷が怒ると、
「だってひとりで入ってもつまんないしー。隊長も、ひとりで入ったらギンに襲われますよ?」
「なんで一人だ、檜佐木と阿散井がいるだろう!」
「あ、俺達たぶん、こんなもんしょってますんで、大浴場には入れません…」
 阿散井が自分の刺青を指差して、申し訳なさそうに言った。
「ああ、そうか。どちらにしろ、大丈夫だ。大浴場なんだから、こいつらと一緒じゃなくたって一人じゃねえし、第一俺が許さねえ」
「…隊長、案外流されやすいから…」
 ぼそっと言われてキッと睨むと、松本は慌ててぱっと逃げて、
「じゃ、あたしも浴衣に着替えてこよう〜っと。5分後に部屋の前に集合にしましょう♪」
 笑顔で出てゆく松本に、檜佐木がデレッとした顔で、乱菊さんの浴衣姿…などと言って喜んでいる。
 結局風呂場の前で、男湯と女湯、更に大浴場と家族風呂に別れて、日番谷はひとりで露天風呂につかった。
 降るほどの満天の星空、湯煙に霞む高台からの夜景はとても美しかったが、このところずっと続いている小さな戦いの連続と、いつ次の戦いが始まるかわからない緊張感に気持ちがピリピリして、ゆっくり景色を楽しむような気分にはなれなかった。
 あっという間に風呂を出て、ふらりと一人で散歩に出て、眼下に広がる小さな街並みを眺めた。
 もしここで戦いが始まったら、被害が最小限になるように、民家から離れたところに場を移す必要がある…そんなことを考えていたら、ふいに背後に、何者かの気配を感じた。
「…なんだテメエ。どこ行ってた」
「あら、気付かれてもうたか。こっそり近付いて抱き締めたろう思うたのに、残念」
 笑みを含んだ声がして、大きな体が、ゆっくりと近付いてきた。
「なんや、もうお風呂入ってもうたの。一緒に入るの、楽しみにしとったのに」
 長い指が日番谷の髪の先を愛でるように撫で、残念そうな声が言った。
「お風呂上がりでこないなところいたら、湯冷めしてまうで?」
 日番谷はゆっくりと振り向いて、後ろの市丸を見上げた。
「お前な、何考えてやがるんだ。そもそも、こんな旅館用意しやがって、遊びに来てるんじゃねえんだぞ?」
「ええやん。今までふたり一緒に休みとって現世で温泉旅行なん、なかなかできへんかったけども、もうこれからはいつでも一緒なんやし。たまにはこうゆうとこ来た方が、却って士気も上がるんやで」
 長い腕が絡まってくると、そこにうっすらと、熱と、独特の匂いを感じ取った。
 市丸がその腕から莫大なエネルギーを放出した後に漂う、銃でいったら硝煙の匂いのようなものだ。
「…お前、マジで何やってた」
 日番谷がその腕を掴み、ごまかしを許さない目で睨み付けると、市丸は一瞬黙ってから、
「あは、冬獅郎には隠し事できへんねぇ。…ちょいとそこでな、違う扉が開きそうやったから、閉じてきたんよ」
 さらりとなんでもないことのように言って、市丸は微笑った。
「バカ野郎、何お前、一人で勝手なコト…」
「せっかくの温泉旅館なんやもん。ゆっくりしたいやん。あない無粋なもんに、邪魔されたないわ」
 日番谷に最後まで言わせる前に素早く言って、市丸はさっと日番谷を後ろから抱き締めた。
「今夜はなあ、夕食に船盛り出るんよ。すき焼きとか、創作料理もあるんやて」
 血なまぐさい匂いも話も一瞬で忘れさせるような、温かく優しい、平和で幸せそうな声だった。
 あまりにも戦いからかけ離れたその声と言葉に、市丸の気持ちを痛いほど感じて、日番谷は何も言えなくなって、黙って俯いた。
「ほら、すっかり冷えてもうてる。まだ夕飯までに時間あるよって、もう一度、ふたりでお風呂入ってこよ?ここからの眺めもきれいやけども、露天風呂から見たら、もっときれいなんよ?見た?」
 市丸にこうしてすっぽり包まれると、心も体も、じんわりと温かくなる。
 ふと顔を上げて見た小さな夜景は、びっくりするくらい、先ほどと違って見えた。
 そこに暮らす人々の生命の輝きを感じられるほど、温かみのある優しい、輝くほどに美しい景色だった。
 この世のものとは、思えないほどに。
「…いや、見てねえ…」
 これほどまでに美しい、胸に染み渡るような景色は、見ていない。
 こんなに美しく柔らかく、胸を打つほどの景色は、見ていない。
 日番谷が見たのは、ただチカチカと光る冷たい電灯の群れ、その向こうに広がる暗い山々の波だ。
 思わず日番谷が答えると、市丸は嬉しそうに、ほな、やっぱりもう一度入って、見てこよう?と言った。
「せっかく来たんやもん。戦士の休息やで?」
 ただ、そこに市丸がいるだけで。
 世界は広がり、色がつき、そこに、温もりさえ感じるほど。
 何もかもが満たされて、こんなにも、こんなにも美しいと思えるほど。
 これほどまでに見える景色は変わるのだと、込み上げてきた思いに胸が震えるように感じて、日番谷は抱き締めてくる市丸の手に、そっと自分の手を重ねた。
「…そうだな。お前のその匂いも落としておかねぇと、あいつらが心配するし、付き合ってやるか」
「ええ〜、そないに匂う?」
 日番谷の言葉に、市丸は自分の腕をくんくん嗅いで、困ったような顔をした。
 本当は、松本達が気が付くほどの匂いではないだろう。
 だが、せっかく市丸が作ってくれたこの大切な時間に、そんな匂いはない方がいいと思った。
 日番谷は黙ったまま笑って、旅館の方へ足を向けた。
 市丸は後ろからついて来ながら、
「な、冬獅郎、お風呂から出たら、売店でコーヒー牛乳飲もか?」
「コーヒー牛乳だと?」
「レトロやけども、お風呂上りの定番なんよ」
「ホントかよ」
「そのあと、マッサージチェアでマッサージしてこな?」
「なんだそれ」
「座っとるだけで、全身マッサージしてくれる椅子なんよ」
「マジか。そんなのがあるのか」
「お風呂の近くに休憩室あったやろ。そこに大きな椅子が並んでへんかった?あれやで。気持ちええんよ」
「ふーん…なんか、大勢いたような気がするな。…空いてるかな」
「時間あるし。…いっぱいやったら、売店ぶらぶらしてお土産見て待と?」
「土産って、誰への土産だよ」
「ふたりの今日の思い出のお土産に決まっとるやん。おそろいの湯のみとか、ストラップとか、お饅頭とか」
「俺金ねえぞ」
「ボクが買うたるに決まっとるやろう」
 そういったことが、とてもとても楽しいことのように言う市丸を、日番谷は思わず振り返って見上げた。
 偽りの平和や偽物の安らぎの中で築いていた関係は、今思うとあまりに儚く脆く、ずっとわけのわからない不安感がいつもそこにあった。
 例えて言えば、夜中に何かの断末魔の声のようなものを聞いて、その正体を必死で探そうとしてわからないまま、平和な毎日だけが過ぎていったみたいな。
 今の市丸は、かつての彼や、今の自分達とは全く異なる存在となったはずなのに、そこには日番谷がずっと欲しかった揺るぎない存在感や安心感があって、あれほどのことがありながら、こんなにも当たり前に、何ごともなかったかのように、誰より確かにそこにいる。
 誰よりも近くに、いつでもそばに、まるで日番谷の魂の半分みたいに、決して切れない何かが、二人を繋いでいるみたいに。
『死んでもキミの市丸ギンやで?』
 そんな使い古された、羽のように軽い偽りだらけの市丸の言葉が、こんなに重く深く胸に染み渡る真実となるなんて。
 自分の行く先には、市丸と深く深く縒り合わされた、長い長い道がある。
 それはいっとき離れても、途中どんなに険しくても、必ずまた繋がって、遥か遠く、見えない先まで、どこまでもどこまでも続いている。
 当たり前のようにそこにある市丸の笑顔を見ていたら、目には見えないその道はぼんやりと、だが確かにふたりの前にあることを感じて、ひんやりした夜の空気が、目頭のあたりに、じんと熱く染みてきた。
(…ヤ、ヤバイ)
 日番谷は慌てて市丸から目を逸らし、建物の中に飛び込んだ。
 それを追って大きな影も飛び込みながら、柔らかな声が、なあ、冬獅郎?と優しく呼びかけた。
 小さな影がそっけなく、なんだよ、と返した。
 大きな影は遠慮がちに、久しぶりに、お酒飲んでもええ?と問いかけた。
 小さな影がそうとはわからないくらいさりげなく歩をゆるめ、チラッと目だけで振り返って、ほどほどにしとけよ?と返すと、大きな影は嬉しそうに、ほんま?おおきに、と言いながら、小さな影とそっと並んだ。
 静かに寄り添う、大きな影と、小さな影。
 どこにでもある、何気ない光景のように。
 やがて誰もいない廊下にくると、大きな影が手を伸ばし、小さな影の小さな手を取って引きとめ、その顔を覗き込むように、上体を大きくかがめていった。
 小さな影も立ち止まって、顔を上げてそれを受け止めた。
 ふたつの影は二か所でつながったひとつのシルエットになって、やがてぴったりと重なって、優しいひとつの影になった。