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百年目の恋人−18

「あ、ボク、フリーランスやから。気にせんといて」
「気にするに決まってるでしょ!裏切り者なんかと一緒にいたら、隊長もあたしも、あらぬ疑いをかけられちゃうんだからね!」
「せやから、一応、隠れとるやん。乱菊にも、挨拶しとかな思うてな。ボクが記憶失くしてた間、色々面倒みてくれて、おおきに」
 大きな身体がふわりと舞って、松本の隣にとんと着地した。
「どの面下げてそれを言うのよ。しかも『もう死神じゃない』って何?そう言えば許されるとでも思ってんの?!」
「市丸ギンや思うからあかんのやない。キミら皆その名で呼ぶからいらんこと色々思い出すんや。今のボクの名前、」
「うるさいわね」
 ピシャリと撥ねて、松本はフンと鼻を鳴らした。
「いいのよ、市丸ギンで」
 怒ったように髪をかき上げて、そっぽを向く。
「あんたには市丸ギンがお似合いよ」
「なんやのそれ。意味わからへん」
 言いながらもニヤニヤ笑いながらじりじりと寄ってくる市丸に、松本はもう一度鋭いひと睨みを投げた。
「ちょっと、寄らないでよ、バカが移るでしょ。あんたのその、死んでも治らないバカが」
「ひどー。キミらほんま、口悪すぎや。なんで一言、素直に『会いたかった』が言われへんの?」
「二度と会いたくなんかなかったからよ」
「ほんまー」
 情けない声がしたと思ったら、突然ふっと隣から気配が消えた。
 ドキッとして振り返ると、市丸は相変わらずそこにいて、「ん?」と笑って首を傾げた。
「どないしたん。急にボクがいなくなったとでも思うたみたいな顔しとるけども」
 わざと気配を消してみせたのだと気付いて、松本はカッと頭に血が上った。
「あんたが急にいなくなることになんか、もう慣れたわよ!…でも、今度こそ…今度こそ、隊長をひとりにしたら、許さないからね!」
 気丈に振舞ってはいたけれども、日番谷の傷の深さは、見ていられないほどだった。
 それでいながら、松本や吉良や、周りの者達のことばかりを心配していた小さな隊長がどんな気持ちでいるかと思ったら、こんな男に任せたくないと思いながらも、言わずにはいられない気がした。
「ん…そうやな…。これは、乱菊やから言うんやけども」
 急に声の調子が変って、松本は眉をひそめた。
「…なによ?」
「…あの子な、たぶん…、大人になるまで、生き延びられへんのやないかと思うんよ…」
「…なにそれ…」
 相変わらず読めない笑顔を浮かべる幼馴染が、突然かつての彼ではないことを思い出して、松本は思わずブルッと震えそうになって、さっと身を引き締めた。
「あの子の負うてる宿命なんかな…それが、百年後なのか、二百年後なのか、それはわかれへんけども。なんや、ぼんやり見えてもうて」
 人間が死神を見たら、こんなふうに感じるのだろうか。
 そんな頃の記憶なんてもちろんないけれども、「この世のものではない」ものを見た時の本能的な恐怖や畏れのようなものを、今の市丸に突然感じた。
「その時はもちろん、ボクが連れてゆくよ」
 それは、何の宣言なのか…
「せやから、その時でも、あの子ひとりになんさせへん。…ボクは思うんよ。ボクらは今までも、そないなことを何度も何度も、二人とも覚えてへんほど昔から繰り返してきて、これからも繰り返してゆくんやないかなあって。あの子が忘れたら、ボクが覚えとる。ボクが忘れたら、あの子が覚えていてくれる。そうやってな、今までも、これからも。…せやから乱菊も、心配せんといてな。ボクら、ずうっと、一緒やから」
「あんた、何の話…」
 にっこりと笑う市丸の顔は、夕闇に滲んで、掠れて、ぼやけて…
 気が付いたら足元を風が吹き抜けて袴がはためき、市丸の姿はもうなかった。


 小さな影が向こうからゆっくりと歩いてくるのを、市丸は木の上から、幸せな気持ちで、うっとりと眺めた。
 周りには誰もいないことを確かめてから、近くに来ると、ぴょんと目の前に飛び降りてやる。
「おかえり。どうやった、隊首会?」
「わ、びっくりした!なんだよ、こんなところに隠れてやがって。てか、堂々と瀞霊廷の中にいるんじゃねえ」
「どこにいようと、ボクの勝手や。いたらあかんなん、誰が決めた」
「うるせえな。…まあ、確かに、お前のことは、即座にひっ捕らえて処刑、ってことにはならなかったぜ」
「なってもたぶん、捕まらへんけどな、ボク」
 面倒なことにはなるだろうが、はったり半分で市丸が言うと、日番谷はため息とともにジト目で見上げてきながら、
「…非常事態につき、お前に協力する気があるなら、特別に生かしておく方向で、十番隊が、お前の監視に当たることになった」
「ほほう」
「浮竹と京楽と卯ノ花に感謝しろ。後押ししてくれた。それでも、苦渋の選択だろうがな。今は、少しでも多く戦力がほしい。つまり、それだけ逼迫した状態だってことだ。皆が思っている以上に」
「未知の扉が次々開いたら、そら、脅威やろうからなあ。人手不足やしなあ。大変やなあ、山じいも」
「他人事みたいに言うな。ちゃんと働けよ、テメエ。今度裏切ったら、マジで殺すし」
「うん。よかったな。これでまた、キミと暮らせる」
 柔らかい風が、祝福するように優しく、ふわっと通っていった。
 ふたりの間のことも、過去も、決して消せはしないけれども、これは新しい第一歩だ。
 隣に並んでその可愛らしい手を取ろうとしたら、冷たく払われた。
「暮らせねえよ。特令は出たけど、怪しいだろ、かつて裏切った奴と一緒に暮らしたら」
「え、せやけど、ボクのこと監視するんやろう。近くにおった方が、ええんやない。それにかつて敵でも、今は共通の敵が別におるわけやし、ここは力を合わせてゆう大義名分も」
「計算か」
「へ?」
「ここまで計算して現れたのか」
 ジロッと睨み上げてくる目も冷たい。
 市丸は努めて特上の笑みを浮かべて、
「キミと、ボクが、再び会えて、またふたりでおられるようになった。それ以外、大切なことなん、ないんとちゃう?」
 もう一度その手を取ろうとすると、日番谷は叩き落とす勢いでその手を払い、突然市丸をおいて、走り出した。
「ちょ、ちょう待ちい!どこ行くねん!冬獅郎クン!十番隊長さんーー!!」
 慌てて追いかけるが、恐ろしいスピードだった。
 何が彼の機嫌を損ねたのか、…思い当たる理由はありすぎてよくわからなかったけれども、とにかく必死で市丸は日番谷を追った。
「冬獅郎!冬獅郎!」
 瀞霊廷の町並みを抜け、塀を越え、林を抜け、どこまで行くつもりなのか、どこまでも走ってゆく小さな後ろ姿を追いかけて、とうとう背の高い草はらに出た。
 その中に走り込むと日番谷の姿は草に隠れて見えなくなってしまい、揺れる葉先だけが目印になった。
(こ、これはあかん…!追いかけとると、どこまでも逃げてくでこの子!ここはひとまず、まかれたフリして…)
 足を止め、全ての気配を消して、市丸は目を閉じて感覚だけで、日番谷の後を追いかけ始めた。
 そのまましばらくすると、広い草はらの中で、小さく揺れていた葉がようやく進むのを止め、静かになった。
 市丸は息をひそめたままふわっと飛んで、そっとその場所に近づいてゆく。
「…う、う、ぅ、…」
 小さな声が、震えるみたいに聞こえてきた。
「う、うっ、うっ、あ、」
 さわさわと風に揺れる海のような草はらの中に、小さな身体が、丸くなってしゃがみ込んでいるのが見えた。
 背中の十の文字がとても大きく見えるくらい、丸まった身体は小さく見えて、市丸はハッと動きを止めた。
 泣いている。
 こんな誰もいない遥か遠くまで来てなお声を殺し、身を隠し、小さくなって、日番谷はひとり肩を震わせて、泣いていた。
 再会してから一度だってそんな様子は見せなかったのに、どれほど彼が張り詰めていたか、どれほど全てを諦めていたのか、どれほど無理をしていたのか伝わってきて、胸が痛くなった。
 小さいと思っていたその背中が、これほど小さいと思ったのも、初めてだった。
 こんな小さな少年に、皆で色んなものを背負わせて、色んなものを求めて、それら全てを軽々と受け入れて応えてきた強さに、皆が甘えていた。
 隊長であり続けながら敵となった市丸を想い続けることは、一体どれほどの重荷だっただろう。
 捨ててしまったら、どんなにか楽だったろうに。
 ようやく解放されて、ようやく安堵して、気持ちを抑えられなくなったのだろう。
「…冬獅郎」
 そっとしておいてやってもよかったが、できなかった。
 一人で泣く必要などもうないことを、教えてやりたかったからだ。
 日番谷はビクッと大きく震えて、丸まったまま、息を詰めた。
「辛い思いさせて、ゴメンな?ひとりで泣かんといて。もう二度と、キミをひとりになん、せえへんから」
「来るな!どっか行け!」
「どこにも行かへん。キミのそばにおる」
 上からそっと被さるように、後ろから抱き締めると、日番谷はぎゅっと身体を固くした。
 そのままただじっとしばらく耐えていたようだったが、やがてその小さな肩は、再び震え出した。
「冬獅郎。ボクの冬獅郎。ひとりで泣かんで。ボクかてキミの市丸ギンやで?死んでもキミの市丸ギンや。せやからもう、ひとりで泣かんで…」
 日番谷は声を殺したままだったが、そのままそこで、泣き続けた。
 市丸の腕の中で。
 小さく、丸くなったままで。
 市丸はいつまでもいつまでも、日番谷の髪を撫で、その名を呼び続けた。





 小高い山の中腹からの、素晴らしい眺望。
 広々とした畳の部屋。
 手入れの行き届いた趣のある施設に、満点のサービス。
 現世の任務に松本と阿散井、そして檜佐木を率いてきた日番谷は、拠点として連れてこられたその豪華な旅館の部屋をぐるりと眺め渡すと、深く眉間にしわを寄せ、怒りを滲ませた声で、低く唸った。 
「…なんだここは、阿散井」
 名指しされた阿散井は慌てたように、
「お、俺じゃないっすよ、市丸隊ちょ…市丸さんが、手配されたんです!」
「市丸!どこ行った!」
 あれ以来、市丸は戦力として尸魂界に滞在を許されているが、十番隊による監視が条件のため、任務に赴く時は、まず一緒に命を下される。
 今回も日番谷部隊とともに現世にやって来ていたはずなのだが、またもいつの間にかいなくなっていた。
「…あの野郎…どこで遊んでやがる…」