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百年目の恋人−17

「…あんな、冬獅郎。泥の中にな、足で顔押し付けられとってな、その足払って起き上がる力持ってたら、起き上がらずにはいられへんねんよ?」
 その腕をほどこうとしたができず、日番谷は顔を上げて市丸を見た。
「起き上がる途中でな、泥の中で大切なもんみつけても、もう一度その中に顔付けることなん、できへんねん。…もう起き上がるしか、ないねん」
 言い訳ではなく、それが全ての真理のように、静かな声で市丸は続けた。
「キミのことは、そらもうほんまに大切やったけども、そないなことしたら、力も誇りも自信も全て失うて、自分がぽっきり折れてもうて、胸を張ってキミのこと好きや言われへんようになってまうねん。女にはわからへんかもしれへんけども、キミは男の子やから、そういうの、わかるやろう?」
「…そんなに辛いものだったのか。お前にとって、ここは」
 日番谷だって、全くわからないこともなかった。
 流魂街出身とはいえ一番地区で、それなりに恵まれて育った日番谷でさえ、その理不尽さに何度歯噛みをして、悔しさに耐えてきたか。
 死神の学校に入り、護廷隊に進んでも、そんなことはますます増えてゆくばかりだった。
 ただそんな感情をやり過ごし、ものの見方を変える術を身につけてきただけで。
 そういうことに誰より柔軟に見えた市丸が、一体何に耐えてきていたのか…、何にも耐えていない者など、この世界にはいまい。
 だが日番谷は、あんな方法は選ばなかった。
 違うやり方があったのではないかと思えてならなかった。
「辛いいうんはちょっと違うけども。何もかもあまりにアホらしい、そう言うたらキミは怒るやろか?」
「アホらしいだと?!」
「キミには理解できへんかもしれへん。乾き切るいう感触。深くて、暗いねん。何にも、ないねん。ただ、大きな衝動だけあって、逆らえへんねや」
「…乾き…きってた、のか…?衝動って…?」
「もちろん、キミは別やで?キミは唯一、ボクを潤してくれた。…せやけどボクにはなあ、あそこで堪えていられる、キミらの気持ちがわからへん…」
 困ったように市丸は笑って、日番谷の髪に口付けた。
「力があれば、それ使うのは、本能なんよ。歌えるモンは歌うし、踊れるモンは踊る。立ち上がれるモンは、立ち上がる」
 日番谷の問いに答えるというよりは、独り言のように言ってから、
「…キミにも、皆にも、聞こえへんかったみたいやけど」
 ふいに市丸の声に、懐かしさ、のようなものが混ざった。
「藍染はん見た時な、あの人の奏でる音楽が、ボクには聞こえたんよ。楽譜を読めへん者は、それ見ても何も聞こえへんかもしれへんけども、読めたら頭に音楽浮かぶやろ。ボクの頭には、それが浮かんだ。聞こえたんよ、あの人の音楽が」
「…ハメルーンの笛吹きみたいだ。お前は、それに、ついていったわけだ」
「自分の中の音楽も、聞こえたんよ。あの人も、それが聞こえたんやろう。…全く違う音楽やったのに、重ねてみたら、びっくりするほどよう合うて…その時ボクは、ほんの子供やったけども。…あの人は子供のボクを見て、『とてもよく切れそうで怖い』言うて笑わはったよ。ボクはそれ聞いて、『ほなら隙見て、いつかこの人斬ったろう』思うた。ただの遊び心やったけど、大人になっても、思うとった。せやけどあの人に隙なんなくて、あの人は、それすらも、楽しんではるみたいやったなぁ」
 そういう話を聞くと、少し悔しい。
 自分が、もっと早く生まれていたら。
 もっと早く市丸と出会えていたら。
 何かを変えることができただろうか。
 そんな仕方のないことを考えずにはいられなくて。
「…あの人は」
 市丸の目が、ずうっとずうっと遠くなるのを見て、日番谷は黙ったまま、ぎゅっと唇を噛んだ。
「…どこ行かはったんやろうねぇ?…果たされへんで、終わってもうたみたいやけども?…それともどこかで笑うてはるやろか?ボクにも全ては見せへんお人やったから。…それは、お互いさまやったけど、なぁ」
 その声には、うっすらと何かに覆われて、かすかではあるが、淋しさ、無念…?そして一種思慕のような色が込められているように感じて、日番谷は胸を衝かれたような気がした。
 市丸は、後悔していない。
 もう一度ここで藍染が現れたら、また連れていかれてしまう…
 とっさにそんな不安がよぎって、日番谷は市丸の着物をぎゅっと掴んだ。
「あいつは死んだ。もう二度と現れねえ。それにあいつは何もできなかったわけでもねえ。尸魂界は、変わる」
 早口で言うと、市丸は日番谷に目を戻して、絶対に手放したくない宝物のようにぎゅっと抱きしめて、笑った。
「何が変わっても、どこも何も同じやねん。何が終わっても、誰がいなくなっても、また始まって、名前の違う誰かが現れる。…ええんよ、そないな顔しなや。心配いらへん。もうどこにも行かへんよって。ボクの居場所は、ここなんや。キミがおらへん世界には、何の意味も価値もないて、骨の髄まで思い知ったわ。…それに、変わらへん言うても、ぶっ壊して、ええ気分やったよ…」
 本当と、嘘が、半分ずつ。
 漠然と感じたが、どれが本当でどれが嘘がわからなかったし、追及したいとも思わなかった。
 もともと聞く気はなかったのだ。
 もう、済んだことだ。
 それに。
 市丸の作り出したそんな空気の中にいたら、少しだけ、市丸が見ているものが見えた気がして、日番谷は黙って学ぶように、それを一生懸命取り込んだ。
 ひとつの世界に長くいたら、ものの見方は偏ってくる。
 常にまっさらで自分を見失わない日番谷はすごいと、いつか市丸が言っていたことを思い出した。
 決められた世界からの視界を楽々と越える市丸の方がすごいと、いつも日番谷は思っていた。
 全く違う音楽なのに、重ねると驚くくらい、ぴったり合う。
 例えばこういうことを言うのだろうかと、日番谷は目を閉じて考えた。
「キミといたらなあ、」
 しばらくの後、市丸がぽつんとつぶやくように言った。
「キミといたら、ボクの世界は、変わるよ」
 日番谷は目を開けたが、市丸の顔は見ないで、まっすぐ前を見て見えるものをただ凝視した。
「ボクは、それも、見たい」
 市丸とふたりで見る未来の可能性なんか。
 胸が震えるほど感じた何かは、そこに開いた大きなブラックホールみたいなものに吸い込まれて、日番谷は心の中で、憐れむようにその穴を見た。
「残念だが。俺はお前の世界なんか、変えてやれねえな」
 ここまでこなければ、市丸は戻ってこれなかった。
 だが、ここまでしてしまったら、市丸が戻ってくる場所なんか、ない。
 市丸がこの世界で許される方法など、思い付かない。
 沢山の者の平和や幸せ、そして命を奪った市丸だから、彼はもう自分のものではないのかもしれない。
 だが、この世界で捕えられ、この世界に処刑させるくらいなら、今ここで、この手で彼の息の根を止めてやりたかった。
 そうずっと思っていた。
 だが、もう死んでしまった市丸が戻ってくるなんて。話がややこしくて、溜息が出そうだ。
 それでもこの世界で市丸とともに生きていくことができないことには変わりはないのだ。
「…お前は、このまま、どこかに消えろ。俺は護廷隊を出る気はねえ。お前にわからなくても、これは、俺が、魂に懸けて決めた道なんだ」
 市丸の腕からすり抜けて、今度こそ死覇装を身につけて、日番谷は氷輪丸を背負った。
 市丸はじっとその様子を見てからため息をつき、ようやく自分も着物を身につけた。
「ボクも護廷隊に戻れるとも戻りたいとも捕まってやろうとも思うてへんけども」
 市丸は軽く印を切って、結界を解いた。
「キミの言う通り、尸魂界は変わる。世界は変わる。ボクはここに、ボクの手で、居場所を作る」
「…どうやって」
「霊王は、眠りに就かはったんやろう。尸魂界と現世を守ってはった、強大な力の一部も、一緒に封印された」
 市丸の後について扉の方へ向かうと、開かれた扉の向こうから、待っていたように黒いアゲハが舞い込んできた。
「ほうら、来たで。そろそろやろう思うとったんよ。
 言うたやろう、この亜空間には、ほんまは無数の世界がひしめき合うて存在しとるて。他所から干渉されへんように、今まで霊王が守ってはったんよ。あたかもそれしかあらへんみたいに。…それが崩されたからなあ。守りが薄くなったとこから、これから次々、新しい扉が開くで」
「新しい扉…!?」
 地獄蝶を指先に止まらせてその伝令を聞き、日番谷は息を飲んだ。
「出動命令だ…!現世に…未知の門が開いて、未知の力が…!」
「新しい敵やね」
 ドン、とありったけの力を放って瀞霊廷にとって返す日番谷に、市丸がピタリとついてきた。
「お前…関係ねえ奴は、どっか行け!」
「関係ねえ奴は、命令なんきかへんよ。ボクはボクのしたいようにする。…その未知の力とかゆうやつ、たぶんボク、何かわかるわ」
「なんだと…!」
「伊達に五百年、亜空間で戦うてへんで」
 日番谷は空を駆けながら、不思議な気持ちで市丸を見やった。
 見たこともない力。
 よくわからない存在。
 でも、市丸。
 もう一度、彼とともに生きる夢が叶うような日が、…
 本当に、くるのならば、…
 どんなにそれは、………




「本来は、王属特務の仕事である」
 日番谷と砕蜂の報告を受け、隊首会の席で、総隊長が重々しく言った。
「じゃが今は先の戦いで、その組織は十分機能できぬ状態じゃ。我らは今、一丸となって尸魂界と現世を外敵から守る必要がある。砕蜂隊長」
「はっ」
「この度現世に出現した門をいかにして閉じたのか、今一度この場で報告してくれるか」
「…はい…」
 悔しそうな目が、一瞬日番谷を射抜くように睨み付けてから、前を向いた。
 日番谷は冷静にそれを受け止め、冷静に報告を聞き、そっと息を詰めて、皆の反応を見た。
「して、日番谷隊長」
「はい」
「砕蜂隊長の報告に出てきた『市丸ギンに非常によく似た、謎の生命体』は市丸ギンなのか、お主はどう思う」
「…非常によく似ています。ですが、死神とはまるで異なる生命体のようです…」
「私の元に連れてきたまえ。そやつが何者なのか、あらゆる角度から調べ尽くしてあげるヨ」
「いいや、俺のところに連れてこい。戦わせろ」
「やめなよ涅隊長、更木隊長。せっかくの戦力なんだからさあ…」
「とはいえ、得体の知れぬ者を野放しにするわけには。市丸ギンに姿が酷似しているというのであれば、なおのこと」
「ですが今の報告では、不思議な力で敵を撃破し、門を閉じたとか。その者は今、どこにいるのですか?」
 尸魂界は変わる。
 王家も半ば崩壊し、四十六室もなくなった今、それでも組織を機能させてより強力な敵と戦う為に、より柔軟に。
 大きな歴史の中で見たら、強い者が弱い者を支配する、その構図に変わりはないけれども。
 その時を必死で生きている小さな弱い者達にとって、それはひとつの時代の終焉であり、新たな時代の幕開けであるに違いない。
 戦いという意味では、短い平和はじきに終わってしまいそうだけれども。
 怒涛のような革新の渦の中に生まれて生きてゆくことは、儚くもあり、あまりに多くの可能性もそこにあると、日番谷は目を閉じて皆の声を聞きながら、夢のように思った。



 十番隊の前で日番谷の帰りを待っていた松本は、周りに誰もいなくなると、門の上に隠れている男に、苛々とした視線を投げた。
「信じらんない。何堂々とそこにいるのよ。あんたはもう護廷隊にいられる身分じゃないんだからね。迷惑だから、どっか行っちゃってよ」