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紅蓮−3

 傾いた月はさえざえと明るく、藍染が自室の窓を開けて外を見ようとすると、後ろで音もなく扉が開く気配がした。
 もともとわずかではあるがその霊圧で、彼が来ていることには気付いていた。
「どうしたんだ、ギン?こんな時間に」
 開けられた扉は音もなく閉まり、このところあまり顔を見ていなかった男がにこやかに笑って立っていた。
 月は明るいが風は全くない夜で、そのシンとした空気が、いかにもこの男に似合っている。
 そんな夜だから現れたのかと、つい本気で思ってしまいそうになった。
「スンマセン。どうしても、藍染隊長にお願いしたいことがあって」
「お願い?はは、また珍しいことを言うね」
 市丸のところには窓からの月の光は届いていなくて、ほとんど影だけに見える。
 市丸は影だけで、いっそう甘えるような笑みを広げた。
「ボク、欲しいものがあるんですわ」
「欲しいもの?なんだい?」
「藍染隊長のところから逃げた、あの失敗作や」
 何を言い出すかと思ったら、それを聞いて藍染は少し顔をしかめた。
「あれは失敗作じゃない。突然変異というやつだ」
「なんでもええですやん。それよりあれの始末を、ボクにつけさせて欲しいんやけど」
 市丸がすっと影から出てきて、藍染のそばに寄ってきた。
「始末を?ギンが?あれは、ちょっと厄介だよ?そういう仕事はいつも面倒くさがって逃げるくせに、どういう風の吹き回しだい?」
「厄介やから、欲しいんですわ」
「ほう?」
「とにかく、ボクに任せてくれはります?…何が起こっても、手出し無用いうことで」
 無邪気にも見える笑顔で言う市丸に、藍染は笑って、
「僕は構わないけれど、あれは十番隊の仕事になるんじゃないかな。あそこの隊員が、襲われたみたいだから」
 市丸の笑顔が、いっそう濃くなった。
「それをなんとかボクの仕事にしたろ思うてますんや。藍染隊長も、さりげなく力貸してくれませんやろか?」
「さりげなくって、困ったな。日番谷くんに、怒られてしまうよ」
「ええやん、あの子は怒った顔も可愛えもん」
 その声にふっと甘いものが混ざったのを敏感に感じとって、藍染は一気に理解した。
「…なんだ、ギンの欲しいものって、日番谷くんか。そうならそうと、はっきり言えばいいのに。反対されると思ったのかい?」
 おかしそうに藍染が笑うと、市丸はびっくりした顔をした。
「…さすが、藍染隊長には隠し事できませんなぁ。可愛えゆうただけやのに」
 その顔が演技なのか本気なのかまではわからなかったが、おかしいことには違いない。
「…どちらにしろ、あの子は向こうへは連れていけないよ?」
「そら、そうでしょう。あないな子、向こうなん連れて行けますかいな」
「中途半端に手を出すと、心が残るよ?」
「中途半端も何も」
 言いかけて、市丸は珍しく少し苛立った顔をした。
「…あの子見とると、捕まえて、頭押さえつけてやりとうて、ウズウズしますねん。飼い慣らせんもん身体の中に飼っとるみたいや。こら、なんとかせんとあかんのとちゃいますか?」
 自覚がないわけでは、ないらしい。
 あるからこそ、戸惑って、苛立っているのだ。
 市丸が誰かに執着するのを見るのは、初めてだった。
 その相手が、確かに可愛い顔をしているし、強くて賢いけれども、あんな子供であることが、似合わなさすぎて笑える。
 彼があまりにも市丸と対照的に、キラキラと真っ白に輝いていることが笑える。
「何笑うてますの?なんや、ええ気分しませんけども」
「いや…。そこまで思っているのなら、ギンの好きなようにしたらいいよ。でも君は、例え彼を手に入れても、いざとなったら、あっさり殺してしまうんだろうね」
「…まあ、他の誰かに殺させるよりは、ええかもしれませんねぇ」
 なんと、熱烈じゃないか。
 それを口に出すと、きっと市丸はますます機嫌を悪くするだろうけども。
「それはともかく、あの失敗作が死神飲み込む力ゆうのは、どれくらいですやろか?」
 何はともあれ、欲しいものを手に入れることが嬉しいのだろうか。市丸は再び溶けるような笑みを浮かべて、甘えるように聞いてきた。



 一通りの資料を読み終わった頃、日番谷は再び十二番隊を訪れた。
 阿近は日番谷を見ると渋い顔をして、先日持ち込まれたものは、予想以上に厄介なものだと言った。
「日番谷隊長が持っていらしたものは、大変貴重なサンプルです。こんな強力なものは、見たことがない。たったこれだけの細胞でも、俺達死神の霊力を吸収分解する力があります」
「霊力を吸収分解…」
「しかも、…これはまだ推測の段階ですが、恐らく斬魄刀で滅することは難しいでしょう」
「何っ?」
「生きて帰った者の話は、俺も聞きました。彼らが勇敢に立ち向かった時、彼らの斬魄刀は、真っ先に消滅した」
「ああ、そうらしいな」
「見てください」
 阿近は言って、隣にあった容器に掛けられた布をめくった。
 厳重に封のしてあるその透明な容器の中には、日番谷が先日持ち込んだ、…死神の腕が入っていた。
 消化されかけのようにドロドロに溶け、見るも無残に骨まで見えている。
 日番谷は目を背けたくなるほどのそれを、それでも毅然と直視した。
「…昨日持ち込んだ時よりも、状態が悪化しているな」
「そうです。進んでいます。この腕についた虚の細胞…我々の唾液のようなものと思われますが、これが今なお霊気を分解し、霊体を消化し続けているのです」
 襲われた十番隊の隊員は、呼気を当てられただけで一人が消滅し、残りの者はその口に吸い込まれたらしい。たった一人が尸魂界までなんとか帰ってきた後に、隠密機動が現場捜索へ向かい、消滅した死神の、その腕だけが残っていたのをみつけたのだ。
「その虚は死神を身体ごと、その口へ吸い込みます。恐らく、霊気を吸収するために。その力は相当なもので、どうやら霊力が強ければ強いほど、引き込む力を強く受けるようです。そしてその口の中では、更に体液で霊体を消化します。その消化力は、ご覧の通り。この腕は恐らく、呼気を直接当てられなかった。ほんのりかぶっただけなんです。でも、これです。その前に立っただけで、霊力の弱いものはイチコロですが、霊力が強いと、強力に吸い込まれます。まずはむき出しの霊気が。そして、霊体も。霊力による攻撃は、どれだけ効くかわからない。吸収されてしまうからです。死神の霊力の具現化である斬魄刀とて同じです。その霊気は、開放した瞬間に吸収されてしまうと推測できます」
「…そいつの霊気を吸収できる能力を、死神の霊力が上回っていれば倒せるんじゃないのか?」
「理論的にはそうかもしれません。でも、どれくらいの能力なのか、現段階ではハッキリわからない。ただ、これまでの情報を合わせて考えると、この虚はすでに何人かの死神を飲み込んでいます。能力も強大になっているとみてもいい。それに、一瞬にして決することができなければ、口を閉じて消えてしまい、奴に力を与えるだけの結果になる。ただ闇雲に力を信じて向かうより、とりあえず霊力を吸収されないための、何か対策を立てた方がいい。それが俺の意見です」
 日番谷は阿近の顔をじっとみつめ、その言葉をゆっくりと考えてから、
「…奴の口の中に入って戦うというのは?」
「逃げられないことを第一に考えるなら、それが一番確実な方法です。しかしそれこそ対策を立てて向かわなければ」
 間髪入れずに、阿近は答えた。
「自殺行為です」