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紅蓮−2

資料室に着くと、持って来た資料は一箇所にまとめて置いて、もらったリストを見ながら記録を探した。
 膨大な資料の中から、特に気になるものを重点的に探していると、隣で見ていた市丸が、
「…なんや、変わったもん探してはりますなぁ」
「黙って探せよ。でなかったら、帰れ」
「もしかして、例のあれですか?十番隊の隊員が、虚討伐中に、突然現れた別の虚に飲み込まれたいう?」
「…」
 どこまで知っているのか、市丸がさらりと言うのを聞いて、日番谷はチラリと視線だけを向けた。
 市丸の年は知らないが自分より上なことは確かなので、日番谷が調べようとしていることに関しても、何か知っているかもしれない。
「…ずっと以前にも、似たようなことがあったらしいな。…空間が突然裂けて、それがそのまま虚の口だったことが。そして口が閉じると、そいつは跡形もなく消え去ってしまったということが」
「一度消えると追いかけようもないわけやから、次いつどこにそいつが現れるか、探しようもないわけやね?」
「知っているのか?その以前の事件を?」
 それは、今回の虚と同じ種類のものだったのだろうか。
 その時は、どのように対処したのだろう。
 市丸が知っているなら、資料を当たるよりも早い。
 日番谷が勢い込んで聞くと、
「以前の話は知りませんわ。ただ、三番隊でも、似たような報告書を最近見た思いましてな。飲み込まれずには、済んだようですけども」
「それはいつで、どこの話だ?」
「二日くらい前でしたやろか。袋土いうところで魂葬中に突然空間が切れて吸い込まれそうになったんやけど、なんとか逃げたゆう報告やったかな」
「どうやって逃げた?」
「どうやったかな。全速力で走って逃げたんやったかな」
「…」
 チッと心で舌打ちをして、日番谷は本棚に目を戻した。
 現世へ魂葬に行って、または虚討伐に行ったまま死神が行方不明になったという報告は、このところ何度か耳にした。
 忽然と消えるため、何のデータもなく、いまだ捜索中だ。
 今回の十番隊の事件は大怪我はしたが生きて帰って来た者がいて、その状況から、ようやく今までの行方不明はその虚のせいではないかと言われ始めたところだった。
(それも同じ虚か…?あ、あった…)
 求めていた資料をみつけて、日番谷はしばし固まった。
(…なんであんな高いところにあるんだよ…)
 市丸がここにいなかったら、少々行儀は悪いが棚を登ったり、ジャンプしたり、はしごを持って来たりすれば取れるのだが、そうしないと取れないということを見せるのが癪だ。
(とはいえ仕方ない、台でも探してくるか…)
 日番谷が回れ右をしようとすると、
「あれ、どこ行かはるの?見つけたんやないの?もしかして届かへんのやったら、取ったりましょか?どれですの?」
「…いい。自分で取るから」
 誰がお前の手を借りるかとばかりに断って、適当な台を持ってきて、その上に上がる。
 そして手を伸ばしてみたが、微妙に高さが足りなかった。
(…シマッタ、梯子にすればよかった…)
 顔から火が出るほど屈辱的な気分になったが、何事もなかったような顔をして台から降りようとすると、目の前にすっと長い手が伸ばされて、日番谷の取りたかった資料を取った。
「これですか?」
「…っ自分で取れる!余計なことすんな!」
「ええ〜っ、ボク十番隊長さんのお役に立ちたいだけやのに、そない怒らんでもええやないですか」
「頼んでねえだろ!」
 絶対に礼なんか言うものかという勢いで差し出された資料を奪い取ると、市丸がわざとらしく悲しそうな顔をした。
「十番隊長さんは、どうしてそんなにつれへんの?どうしていつもボクの好意を受けてくれへんの?」
「テメエなんかの親切にゃ裏がありそうで怖いからな」
「裏?裏ですか?」
 日番谷の言葉を聞いて、市丸が不意に、ク、ク、ク、と嫌な笑い方をした。
 その瞬間…、
 何かが、確かに、変わった。
 市丸の輪郭が、くっきりと黒く縁取られ、すぐにぼやけて歪んだように見えた。
 空気…温度…匂い?何かはわからないが、日番谷の肌が敏感にそれを感じ取って、総毛立った。
「それは乱菊に入れ知恵されたん?それとも自分でそう思わはったん?前はもう少し、柔らかかったよね?やっぱ、乱菊やろ。余計なこと吹き込みよるわ」
「松本は関係ない」
 それは、言葉では表現し切れない、不吉な色だった。
 市丸を取り巻く全ての気が、ゆらりと濁り始めたのを感じて、日番谷は殊更強く言い返した。
「せやけど、昔馴染みやからなあ。乱菊は、ごまかせへんね…」
 声が、変わった。
 不穏な空気とともに市丸の霊圧が揺れ、黒い霧のようなものが自分目がけてパッと広がるように感じて、日番谷は反射的に台を蹴って、遠くに飛んで逃げた。
 市丸の腕が、そのギリギリをかすめて空を切る。
 見も知らない魔物が突然腕を伸ばしてきたように感じて、日番谷は着地と同時に、思わず氷輪丸に手をかけていた。
「…あァ、失敗や…」
 腕を伸ばした姿勢のまま、市丸が残念そうに言った。
 貼り付けたような笑顔はそのままだったが、その顔も、その声も、そしてその言葉も、心臓を凍らせるほどに不気味だった。
 誰だ、お前は、と言いそうになって、言葉を飲んだ。
 誰かなんて、市丸に決まっている。
 彼は何者かに変貌したのではなく、本性を出しただけなのだ。きっとこれが、本当の市丸なのだ。
 なぜなら市丸は中身がガラリと変わったというよりは、半歩横に位置をずらしただけで、根元の彼は、全く変わっていないことを確かに感じる。
 切れるほどの緊張感と危機感に、一気に鼓動が高まって、うるさいほどだった。
 松本が言ったことも、自分が感じたことも、間違っていなかった。
 ほんの半秒でも逃げるのが遅かったらあの禍々しい腕に捕まえられていたと思うと、心底ゾッとした。
 市丸は自分の中の何かを抑えに抑えていて、それでも滲み出し、溢れ出してくるのをどうしようもないというように、一度ぎゅっと指を握ってから、ぎこちなく開いた。
「今の逃げられるとは、思いませんでしたわ。…キミはほんまに、隙のないお人やねえ」
 ゆるりと姿勢を戻しながら、市丸が感心したように言った。
 その声さえ、言葉さえ、唾を吐きたくなる程おぞましいものに感じた。
「憎らしいほど、ガード固いわ」
「…テメエ、何のつもりだ…?」
 同じ空気を吸っているだけで、毒を吸い込まされているように感じる。
 市丸から何か目に見えない、得体の知れないものがじわじわと伸びてきて、今にも絡め取られてしまうように感じて身震いした。
 市丸はじっとそのまま動かずに、日番谷の様子を窺っているように見える。
 その様子が、気味の悪い何か別の生き物のように思えて、無意識に刀を握った手に力が入った。
「…どうやら、怖がらせてしもうとるみたいやね?」
 不意にぽつんと、市丸が言った。
 その声はいつの間にかいつもの市丸のもので、あれだけ日番谷の毛を逆立てさせていた毒々しいものは、急速に消え去ろうとしていた。
「なんだと…?」
 警戒はしたが、怖がっているわけではない。
 日番谷が目を吊り上げると、市丸はふっと血の通った笑顔を浮かべ、
「怖い、怖い。可愛えお顔が、鬼みたいになっとる。ほんの冗談やったのに、怒らせてしもうた。雷落ちる前に、退散や〜」
 大げさに身を縮め、数歩後ろに下がると、
「ほなな。今度おいしいお菓子持っていきますよって、ご機嫌直してな〜?」
 ヒラヒラと手を振って、フッと姿を消してしまった。
「待て市丸…!」
 思わず言ったが、市丸がいなくなったことで、身体は正直にホッとしていた。
 じわりと、汗をかいていた。
 本体がいなくなってもなお残る霧のような毒気に、日番谷はしばらくの間、刀を握ったまま立ち尽くしていた。