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紅蓮−27
やはりまだそんな答えしかできなかったが、その言葉が日番谷の胸の中の何かをざあっと押し流して、取られた手を振り払えなかった。
それどころかその手をきゅっと握り返したくなって、泣きたい気持ちになってしまう。
今まで自分は、市丸の真実が見えないとばかり思っていたが、市丸にとって、自分の真実はどうなのだろう。
市丸を好きになったとたん、嘘ばかりついている。
日番谷が頑ななガードを解いたとたんに市丸が安定したように、市丸が生々しい感情を見せるほど近くに感じるように、市丸の真実を手に入れたいなら、自分の真実を伝えないといけないに違いない。
市丸に一歩近付きたかったら、自分から一歩近付かないといけない。
でも、たったそれだけのことを、どうやってしたらいいのか、わからなかった。
市丸はそんな日番谷の心をのぞき込むようにじっと見てから、突然その胸にぎゅっと抱き付いてきて、
「そない冷たいこと言わんと、受け取ってや。キミのお顔を見れへん日は、声だけでも聞かな死んでまいそうや」
上からすっぽりその胸に抱き締められることはあっても、自分の胸に市丸が抱き付いてきたことはなくて、大きな身体は変わらないのに、そうされると急に市丸が、自分が守ってやらないといけない小さな子供のように思えた。
いつも自分勝手なことばかり言う市丸の、いつものわがままなのに、そう言って甘えてくる市丸に、なぜか胸がきゅーんとしてしまう。
「…死なねえよ、バカ」
本当にしょうがない子供に向かって言うように言って、日番谷はそっと、その背に手を回してみた。
それだけでなぜか、腕の中のものがとても愛しいみたいに、胸がじんと熱くなった。
日番谷の背に回した手にいっそう力が入り、それに応えるように、日番谷もきゅっと力を込めてみた。
それだけのことで、色んなことが市丸から伝わってきて、色んなことが市丸に伝わった気がした。
市丸は日番谷の胸に顔をすりつけながら、いっそう甘えるように、
「会えん日は絶対に電話する」
「…うん」
「絶対にかけるから、絶対にそばに置いといてな?」
「…うん」
「何があっても、捨てたりせんといてな?」
「…うん」
「ボクが何かキミを怒らせてもうた時でも、絶対にかけるから、絶対に出てな?」
「…うん」
「…ほんまに、好きや。愛しとるで、冬獅郎」
「……うん」
本当はここで、俺も、とでも言えたらよかったのだろう。
それでも日番谷には、頷くだけでも精一杯だった。
それだけでも日番谷にとっては、精一杯の愛の言葉だった。
それは、市丸にも、伝わっているだろうか…?
しばらく二人はそうやってぴったりとくっついたまま、お互い何も言わなかった。
それだけで満たされていくような温かいものに、ゆったりと身を任せていたかった。
突然時が流れを止めてしまったように、世界がそこだけ切り取られてしまったように、市丸の存在以外の何もかもが、消えてしまったようだった。
「こないにしてもキミが逃げへんなん、夢みとるみたいや」
やがて味わうように、市丸が言った。
「キミが大人ししとってくれとるだけで、ドキドキする」
「…」
そんなことを言われたら、こちらまでドキドキしてきてしまう。
こんなにぴったり胸に顔を押し付けられていたら、その音なんか全部聞かれてしまうのに。
「…そろそろ、いいだろ」
慌てて日番谷が市丸を押し返そうとすると、一瞬早く市丸はぎゅっと抱き締める手に力を入れて、
「冬獅郎も、ドキドキしとるね?」
「は、なせよッ!」
猛烈に恥ずかしくなって怒鳴ると、市丸はさっとその手を取って、自分の胸に当てた。
「ボクも同じやもん。ええやん」
市丸の鼓動は本当に速くて、驚くと同時にもっと聞きたくなって、また動けなくなってしまう。
市丸の鼓動の速さは日番谷の鼓動を追いかけるようなスピードで、やがて重なって、どちらの音かわからなくなった。
市丸は、腕の中の赤子が母親のそれを聞くように、うっとりと胸に甘えている。
思い切って髪を撫でてみたら、思ったよりもさらっと柔らかかった。
そのままで、またしてもどれくらい経ったろうか。
市丸もしばらくそのままじっとしていたが、やがて顔を上げると、手に持っていた通信機を、日番谷の胸の合わせ目に差し込んできた。
「大事に持っててな?」
「…」
だからといって、手に渡せばいいのに、なぜかわざわざ胸の合わせ目に通信機を差し込んでくるのは、絶対にわざとだ。真面目な顔をしているけれども、わかったもんじゃない。
ちょっといい感じだったのに。胸が温まる方向でいい感じだったのに。
市丸はすぐに、空気に色っぽいものを混ぜ込んでくる。
(これだから、大人の男というやつは)
隊長になるまでに、こういう種類の嫌な思いをしたことは、何度かあった。
早く完全に大人になりたいけれども、大人の世界がこういうもので構成されているのならば、もう少し子供のままでもいいような気がしてならない。
もっとも、相手が市丸ならば、それは必ずしも、嫌なばかりではなかったが。
市丸はもう一度日番谷の両手を取ると、日番谷の腕をそっと引いて、唇を合わせてきた。
なんだかんだ言っても市丸とのキスは嫌いじゃなくて、自分が上から唇を下ろすのは初めてで、相手の高さに合わせて軽く上体を倒してするキスは、悪くはなかった。
ふんわり合わせるキスは、大人しくしていない市丸の舌によってじきに大人のキスになってゆき、ちょっとヤバいかも、と思い始めたところで、突然ぱっと視界が回り、温かいものに全身が包まれた。
「と、冬獅郎、かんにん。ボ、ボクの羽織の中で、…したらあかん?」
「えっ?」
自分の身体が一瞬にして引っくり返され、後ろからしっかりと市丸に抱き締められていることに気が付いて、唖然とした。
しかも市丸が羽織をかぶせてくるから、いつの間にか彼の懐中の懐の中で、カンガルーの子供がポッケの中にいるみたいだ。
「羽織の中なら、キミ小さいし、外から何も見えへんよ」
「な、何言ってやがる、死ね!」
びっくりした日番谷は本気で身の危険を感じ、思わず容赦なくその股間に蹴りを入れた。
「ぎゃっ!」
ものすごい存在感があったから、かなり元気になっていたのだろう。さすがに悲鳴を上げて、市丸の手が緩んだ。
すがさずそこから逃げ出して、ジロリと睨みつけてやる。
「す、すっぽりやから、絶対見えへんのに…」
涙目で訴えるが、もちろん聞く気はない。
「じゃ、俺、隊舎帰るから、またな!」
「あっ、ちょう待ってや!実はほんまのお土産が、まだあるねん。渡したいから、ボクのお部屋に来てくれへん?」
「まだ言うか。絶対いらねえ。どうせロクでもねえもんだろうが」
「ひ、ひど…十番隊長さんのために、必死で選んだのに…」
地面に両手をついて、敗北者のように項垂れる市丸の姿があまりにも憐れで、日番谷はまたしても、うっかり足を止めてしまった。
十番隊長さんという呼び方で、ちょっと真面目な空気を取り戻したような気がしたせいもある。
現世のお土産とはつまり、あの時通信機の向こうにいた市丸が、日番谷のことを考えて買ってきたもののことだ。あの時やっぱり市丸は、本気で日番谷を想っていたということだ。
そんなことをひとつひとつ確認してしまう日番谷は、もうすっかり市丸に捕らわれているのだろう。
足を止めてしまった一番の理由は、結局そういうことなのかもしれない。
胸の合わせ目に入れられた通信機も、その存在そのものが、きゅんと胸を締め付けてきた。
「みっともねえから、立てよ、お前」
「ひ、日番谷はん…」
上げた顔が情けなくて、仕方なく日番谷は、手を差し出してみた。
「ほら。立てって。隊長のくせに、いつまでもみっともねえ格好してんじゃねえ」
「日番谷はん…!」
とたんに顔を輝かせて、差し出し出された手をぎゅうっと掴んで、市丸はいそいそと立ち上がった。
立ち上がっても手は握ったまま、もう一方の手で優雅に袴の埃を払っている。
「…おい」
「現世で買うた、おいしいお茶とお菓子もあるんよ?」
にこにこ笑って、いっこうに手を離す気配もないまま、勝手に話を進め始める。
「カッコええお帽子とか、珍しい細工の箱とか、綺麗な景色の写真もあるんよ?」
広い広い瀞霊廷の中、さらさら揺れる木々の向こうには、他に誰の姿もなかった。
「だから、お前、手」
「見るだけでも、見て?キミのこと考えながら、一生懸命選んだんよ?」
「…」
平和な空気。平和な景色。
祝福するように、静かに流れる時間。
大きな手は確かにそこにあって、確かな温もりがあって、確かな愛情もそこにあった。
「ボクのお土産話も聞いてや?」
にこにこ笑っている市丸。
その笑顔の下で何を考えているかなんか、わからないけれども。
その霊圧は安定していて、包み込むように優しくて柔らかだ。
見慣れた瀞霊廷の中の、よくある平凡な景色なのに、市丸がそこにいるだけでやたらと印象的に胸に残り、日番谷は慌てて目を逸らした。
「…仕事、終わったらな?」
とうとう小さく答えてしまったのは、彼の手が、なにげないふうを装って、自分の手をしっかりと握っているからかもしれないし、自分がその手を振り払わないでいるからかもしれない。
ふたりがお互いの気持ちを確かめ合うように、ただそっと、手を握り合っているからかもしれない。
日番谷の言葉に、市丸はいっそう笑みを深くして、うん、待っとるよ、と答えた。
今度はそれ以上駄々をこねず、ゆるりと歩き始めながら、現世のお土産話とやらを、早速話し始める。
ふたりの隊首羽織さえなかったら、年の離れた弟をつれた兄くらいにしか、見えないだろう。
そうしてさりげなく手を握り合ったままで、ふたりは十番隊への長い長い遠回り道を歩き始めた。
終