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紅蓮−19

 日番谷はその晩、なかなか眠れなかった。
 なんといっても、初チューだったのだ。
 初チューを、市丸に奪われてしまったのだ。
 しかもそれが、けっこうよかったりしてしまったのだ。
「ギャーッ!」
 思い出しただけでうっかり叫び声を上げてしまい、日番谷は慌てて口を押さえ、布団をかぶった。
 恐ろしい。恥ずかしい。悔しい。
 ぐるぐる回る考えの最後に、ちょっとだけ、でも、ひっぱたいてしまったのは悪かったな、とも思った。
 パニックのあまり張り倒して逃げてしまったが、市丸は大人なんだし、たぶんあの流れからしたら、大人の世界では、ああするものなのだろう。
 唇を寄せられた時に、キスされるのだろうと気が付いたのに、その時は逃げなかったのだ。いや、厳密には逃げられなかったという方が正しいが、とにかく許しておいて、張り倒したのだ。
(ごめん、ごめん、市丸。身体が勝手にやっちまったんだ。反射なんだ。悪気はないんだ…)
 だが、今更謝ろうにも、初チューでしたと言うのも、だからパニックして張り倒して逃げてしまいましたと言うのも、子供丸出しみたいで恥ずかしいし、相手は市丸だし、プライドが邪魔をして決心がつかない。
 それに日番谷はまだ、市丸にキスをされて嫌じゃなかった自分の心に動揺している段階だった。
 何故だか市丸とふたりきりでもそれほど嫌じゃなかったし、市丸が元気そうで嬉しかったし、手を取られたらドキドキしたし、キスされたら痺れるような…
(わー、わー、わー!)
 思い出してまた日番谷は、布団の中で赤くなった。
(どうかしちまったんだ、俺。相手はあの市丸なのに。あんな男なのに。あんなことされたのに。なんで許してんだろう。なんで顔見たいんだろう。なんで気になるんだろう。右手より頭の中、四番隊に診てもらった方がいいんじゃねえの?!)
 悶々とそんなことを悩んでいると、不意にぞっとするような霊圧を感じた。
(!この霊圧は…!)
 反射的に氷輪丸を抜き、がばっと布団をはね退けて起き上がる。
 音もたてず、障子が開いた。
「…こんばんは、十番隊長さん。今日はお見舞いに来てくれはって、おおきに」
 包帯を巻いた左腕をぶらりと下げて、またしても市丸が、月をバックに幽鬼のように立っていた。
 病室で会った時の、弱っていたためか、もう一歩近づけそうだった、柔らかくて温かみを感じる彼ではなかった。
 瞬時に緊張して、日番谷の産毛が逆立った。
「市丸!」
 羽織袴姿ではなく、四番隊で見たままの寝巻きに上掛け姿でいるところを見ると、病室から抜け出して来たのに違いない。
 市丸は氷輪丸の切っ先を向けられても平然としたまま、するりと部屋に入ってきた。
 市丸の背後で、障子が音もなく閉まる。
 とたんに部屋中に、黒い霧のような不穏な空気が立ち込めた。
「袴姿やない十番隊長さん、初めて見ましたわ。こらまたえろう色っぽいですね?」
「…こんな時間にこんなところに、何しに来た…?」
 日番谷が威嚇するように低く言うと、市丸はゾッとするような、刃物のような笑顔を向けて、
「キミに逢いとうて」
「ふざけるな!」
 怒鳴ったとたん、市丸の霊圧が、ぐっと揺れた。
 一瞬にして日番谷を飲み込むように迫ってきて、一瞬にしてそれは引き、消えた。
 フ、フ、と、息をつくように、市丸が笑った。
「スンマセン、元気な時でも抑えるのいっぱいいっぱいやのに、…この忌々しい腕、まだ痛みよるんですわ…」
 右手でそっと押さえるようにして、市丸は低く言った。
「…なら、なんで病室抜けてくるんだよ。おとなしく寝てろよ」
「どうしても、キミに、逢いとうて」
 強調するように繰り返して、ぐいっと一歩近付いてきた。
「それ以上近寄ったら、殺す」
 氷輪丸を握る手に、ぐっと力を込めて言うが、
「斬りたかったら、どうぞ、お好きに」
 平然と言って、また一歩近付く。
 いくら相手が市丸でも、丸腰の怪我人を斬るような真似はしたくない。
 チッと舌打ちすると、市丸はまた、フ、フ、と笑った。
 少し苦しそうなのは、腕が痛むからだろうか。
「そないな冷たい目ェしたらあかんよ…?」
 言葉とともに、また霊圧が揺れる。
 突然、市丸がひどく切なそうな顔をしているように見えて、日番谷は動揺した。
 痛むのかひきつるのか、市丸は包帯の巻かれた指を軽く開いたり閉じたりしている。
 抑えに抑えているが、それ以上は制御できないとでもいうような感じで、言ってみれば、…
 …余裕を、感じなかった。
(あ)
 突然気が付いて、その言葉に日番谷はドキリとした。
(余裕…。余裕か。そういえば、こういう時のこいつは、自信満々な態度だけど、そうでない時のこいつより、弾いたら切れそうな、触れたら爆発しそうな危ない感じがいつもしてたな…?)
 そしてこういう状態の市丸は嫌いだけれど、いつも日番谷を緊張させ、動揺させ、心に深く訴えかけてきた。
 そう思い始めると、色々と思い出してきた。
 そういえば昔の市丸は、もう少し感じがよかった。
 松本に厳重注意をされて日番谷の警戒が強まり、やや避けるようになってから、市丸は毒気がきつくなった。…ような気がする。
(…そういえば、昔の俺はもっと優しかったとか何とか、こいつも言ってたな…。もしかして、俺がこいつをこんなふうにしてんのか?)
 日番谷の、頑なな拒絶が?
 普段の市丸はあたりは柔らかいけれどもバカにされているように感じることが多くて、もう少し彼の本気が感じられたら、もっと彼のそばに行けるような気がした。
 そして市丸の本気は…、恐ろしいことに、こんな暴走した形で、突きつけられていたのかもしれない。
 落雷のようなショックが日番谷を襲い、理解したとたん、色々なことがするすると納得できる場所に収まっていった。
 市丸が制御しようとしてできないでいるのは、報われずに行き場を失った、日番谷への想いだ。
 嵐のように荒れ狂い、市丸自身すら飲み込んで、どこまでもどこまでも追ってくる。
 そのあまりの激しさ、狂おしさに、日番谷はゴクリと息を飲んだ。
 同時に頬が、カッと熱くなる。
 こんな恐ろしい事実に気が付いて、ゾッとする前に心が揺れてしまうなんて、なんてことだろう。
 こんなとんでもない男なのに、今更その本気に胸が熱くなるなんて、なんてことだろう。
 衝撃的なその事実に、息が止まってしまいそうだった。
 日番谷がそのときめきにも似た熱いものを意識したとたん、窒息するほど黒く重く部屋に満ちていた空気が、一瞬にして甘く濃厚な、色を含んだものに変わった。
 市丸もそれに気が付いたように、その眉がぴくんと上がった。
 どうやらそれは市丸一人の霊圧の変化ではなく、日番谷の霊圧が部屋を支配したわけでもなく、突然二人の波長がぴったり合って、とたんにお互いの霊圧同士が化学反応を起こし、混ざり合って、溶け合って、全く違うものに変わってしまったみたいだった。
 あんなに反発し、ぶつかり合ってどちらも一歩も引かなかったのに、それはどちらも引くことがないまま突然何の抵抗もなくお互いの中に踏み込んで、融合し、色を変え、姿を変えてしまった。
 思いも寄らないその変化に、わけがわからず日番谷は呆然とした。
 市丸は顔を上げて背筋を伸ばし、味わうように大きく息を吸って胸を張り、大きな身体をさらに大きくして満足そうに周りを見回した。
「…なんや、ええ色なっとるね?」
 市丸はまるで、その謎の全てを理解しているようだった。
 嬉しそうに言うと、また市丸の霊圧の波長が変わって、いっそう濃密な色に、弾むような高揚感が加わる。
 市丸の変化した霊圧に引きずられるように、日番谷の霊圧も、ときめくような期待と喜びに震え始めた。