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紅蓮−18

 今までさんざん、拒絶に拒絶をされてきた市丸だ。
 文字通り普通に触ろうとした時だって、手を伸ばしただけで撥ね付けられ、触るなと怒鳴られ、足を蹴られて逃げられ続けてきたのだ。
 だが、今なら。
 そのなめらかな頬にも触ってみたかったし、髪にも触れたかったし、その柔らかそうな唇にも、触れてみたかった。
(…あかん、なんや、ドキドキしてきよった…)
 すごいことなのだ。
 日番谷が自分とふたりきりで、おとなしくそばに座っているというだけでも、すごいことなのだ。
 市丸は抜け殻になりかかっていたはずの胸に、新たなエネルギーと欲望がどんどんどんどん溢れてくるのを、抑えようがなかった。
「…日番谷はん、そこのりんご、取ってくれます?」
「ん?ああ」
 日番谷はぴょんと椅子から下りて、吉良が切っていってくれたりんごの皿を取った。
「…お皿やのうて、ひとつ楊枝に刺してくれます?」
「ああ」
 言われた通り、皿に乗ったりんごに楊枝を刺して、市丸に渡してくれようとする。
 いつもあんなに警戒しているのに、こういう時は割と無防備で、手が届くほど、そばに来た。
 日番谷は案外怪我人とか病人とか、弱者には優しいのだ。
「おおきに」
 答えて市丸はりんごを受け取るように手を伸ばし、…そっと、その手を取った。
 日番谷は驚いたようにビクッとするが、撥ね付けたりは、しなかった。
「…右手、怪我させてもうたね?」
「…たいした怪我じゃない」
「ゴメンな?」
「いいよ、もう…」
 その手を軽く引きながら、自分の上体も、日番谷の方へ傾けていった。
 日番谷は手を引かれ、半ばベッドに座るような体勢になったが、市丸から逃げようとは、しなかった。
 まさか、このまま進めても逃げないのでは?
 驚いたような、緊張したような大きな目が、まっすぐ市丸をみつめている。
「…冬獅郎…」
 囁くように言いながら、そっと唇を近づけていった。
 キスくらいでこんなに緊張するのは、初めてだった。
 唇が触れ合う寸前、日番谷の目が閉じられた。
 その反応に、カッと身体が熱くなる。
 それでも理性の限りを尽くして、触れるだけの優しいキスにした。
 柔らかな感触が唇に触れ、甘い吐息を味わう。
 少し強く押し付けて、唇で、軽く唇をなぞった。
 そのあまりの柔らかさと甘さに、興奮した欲望が大パニックを起こし、いけるんちゃう、いけるんちゃうん?と大騒ぎを始める。
 こんなにおとなしくて可愛い日番谷は、初めてだ。
 驚くと同時に、胸の中に渦巻く日番谷への感情が、押さえ込んで屈服させたい嵐のような凶暴なものから、優しく抱き締めて愛おしみたいような、甘く心を満たしてゆく温かいものに変わってゆくのを、はっきりと感じた。
 大事に大事に大事にしまって、優しく優しく優しく可愛がってやりたい。
 だが続いて日番谷を抱き締めようと、そうっと手を伸ばしたとたん、まだ治りきっていない左腕に激痛が走った。
「…っ!」
 わずかに震えただけで何とか押さえ込んだのに、日番谷はその一瞬でハッと顔を上げ、我に返ったように真っ赤になって、いきなり市丸の頬に平手打ちを食らわしてきた。
「なっ、何しやがるんだよ!お、俺、…っ、帰る!」
 そのままぴょんとベッドから飛び降りると、すごいダッシュで病室を飛び出してゆく。
「ひ、日番谷はんっ!」
 あまりのショックと動揺で、思わず日番谷を追おうと身を乗り出した市丸は、慣れないベッドから転がり落ちた。
 ガン、と肩を打ち、その痛みと自分の無様な有様に、情けなくて涙が出そうになる。
(ああ〜ッ、ええところやったのに〜っ!)
 高まっていた欲望を抑えに抑えていただけに、込み上げるものも半端ではなかった。
「なんでこない重要な時に痛むねん!そこは死んでも自然にやらなあかんところやろが!今奇跡起ころうとしとったんやで!わかっとんのか、このクソ忌々しい役立たずの腕が!そもそもあんな虚ごときに、何溶かされとんねんゆう話やぞ!」 
 わざわざ痛む腕を使って、スリッパでバンバン床を叩いて怒り狂っていると、
「あらあら、お元気そうですこと…」
 突然扉が開き、血も凍るような優しい声が降ってきた。
 市丸はさっと背筋を伸ばし、何事もなかったかのような笑顔を満面に浮かべると、
「これはこれは四番隊長さん、この度はほんまお世話になってます」
 言ってすらりと立ち上がり、優雅に着物の埃を払ってベッドに入る。
「ところでボクはいつ頃退院できますやろか?そろそろ通院でもええかと思いますけども?」
「そうですねえ、あまりここで暴れられては、他の患者さんに迷惑ですしねえ」
 にっこり笑って言われるから、余計に怖いと評判だ。
「せやったら、今からでも」
 こちらも負けずににっこり笑って言うと、
「まだダメです。ようやく筋肉組織まで蘇生しかかったところですから。あとまだ皮膚が戻らないと、感染の危険もありますし。くれぐれも、暴れたり激しく動かしたり、不潔なものに触れたりなさらないように」
 なんだか、太文字で言われたような気がしたが、市丸はいい子の笑顔でハイと答えた。
「しかし市丸隊長も、忙しい身。そうそうゆっくり入院もしていられないでしょう。明日にと思っていた治療の続きを、今から始めることにしましょう。準備をしてきますので、もうしばらくお待ちを」
 パタンと扉が閉まると、市丸はベッドに沈み込んだ。
(ああ、もう、最悪や〜。絶対お仕置きにきっつい治療やりよるで、卯の花はん。ああ見えてけっこう、Sなんやあの人)
 聞かれるといけないので、今度の文句は心の中だけでする。
 だが、怪我をした腕のせいで抱き締めることや、もしかしたらできたかもしれないそれ以上は失敗したが、夢にまで見た甘い唇はいただけてしまった。
 夢で見た以上に、甘く甘く柔らかくて、触れるだけのキスだったのに、腰が蕩けそうだった。
(しかも、ええ匂いがした…。あかん、やっぱダメや、諦めるなん、不可能や)
 これまであんなに冷たく素っ気なかった日番谷が、何がどうしてしまったのか、突然魔法にでもかかったようにおとなしく手をとられ、唇を許した。
 忌々しい腕のせいで、すぐに我に返ってしまい、引っぱたかれた上に逃げられたけれども。
(もう一度あの魔法かからんやろか…?)
 先ほどの日番谷の、世にも可愛い表情を思い出す。
 自分を拒絶しない瞳。
 ぽっとピンクに染まった、可愛い可愛い頬。
 そして自分を受け入れるために閉じられた、透き通るような瞼と、長い睫毛。
 思い出しただけで高まった感情に、指が震えてきた。
 本当に自分が欲しいのは、あの日番谷だ。
 憎悪に目をギラつかせて睨みつけてくる、決してなつくことのない、手負いの獣のような彼ではない。
 そういう彼も激しく自分を駆り立ててくるけれども、そういう彼は市丸を更なる激情に駆り立てるばかりで、いつまでたっても、満たされることはない。
 だが、そうでない彼は市丸の心を、あんなにも満たしてくれるのだと今日わかった。
 自分の心が日番谷によって満たされることがあるのだという事実も、天地が引っくり返るほどのショックとともに、理解した。
 なんとかしてなんとかして、もう一度日番谷にあんな表情をさせたい。
 ああいう日番谷を手に入れて、満たされたい。
『中途半端に手を出すと、心が残るよ?あの子は、向こうへ連れて行けない』
 ぼんやりと、藍染の言葉が胸に浮かんだ。
(わかってへんわ。連れて行く行かんなん、問題やない。あの子は存在する限り、ボクのもんなんや。…ボクのもんに、しとかなあかん)
 絶対に。永遠に。欠片ひとつ残さずに。
 そうしないで未来に自分の存在など、あり得ない。
(…いうても、あの子の考えること、さっぱりわからへん。何がようて、何があかんのやろう…)
 いけないというなら、今回市丸がしたこと全て、完全に見限られても仕方がないくらい、いけないことだったはずだ。
 それなのに何故か日番谷は、逆に自ら市丸のところへやってきた。もう一歩近くに、寄ってきた。
 もう少し、もう少しなのに。
 いつもギリギリで、日番谷は身を翻す。
 一歩歩み寄ったら一歩逃げ、もう一歩踏み込むと、また一歩。
 もどかしくて苛立って、無理をしようとしてまた拒まれる。
(…あかん、またや…)
 コントロールできない強烈な欲望に、ゆっくりと支配されてゆく。
 思い通りにならないことは、大嫌いなのに。