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紅蓮−17

 市丸はベッドの上に体を起こし、ぼんやり外を見ていた。
 隣で吉良が、かいがいしくリンゴをむいてくれている。
 吉良は最初、市丸よりよほど入院が必要なのではないかと思ったくらい憔悴していた上動転していたが、市丸の命に別状はないと聞いて、ようやく落ち着いたらしい。
 ともかく虚は倒したのだし、多少の負傷も日常茶飯事な世界なので、それほどの騒ぎにもならなかった。
 日番谷は今どこにいるのだろうと思いながら、市丸は軽く抜け殻のような状態になっていた。
 手に入れたと思ったのに。
 初めて抱き締めたその身体の感触は、今なお消えることなくその手に残っているのに。
 涅に邪魔に入られた時ではなく、最後まで拒絶し続けた日番谷の目に、願いが叶わなかったことを悟った。
(…藍染のおっさんには、笑われるやろうな…)
 それとも最初から、こうなることなどお見通しだったかもしれない。
 ほら見ろとでもいうような顔をして、言い訳をする機会も与えられないかもしれない。
(まあ、おっさんはどうでもええけども…)
 とりあえず当面は、おとなしくしておくしかないだろう。
 その身を危険に晒させ、怪我までさせた謀が、失敗したのだ。
 あそこまで追い詰めても、日番谷は手に入らなかった。
 次に打つ手など、今は何も思いつかない。
 何事もなかったかのように十番隊に行ったら、追い返されるだろうか。
 ぼんやりと考えて、それでもまだ日番谷を諦めていない自分に気が付いて、思わず笑いそうになる。
「…イヅルぅ、なんやおもろい話、ない?」
「ありませんよ。隊長がいない間、三番隊がどんな雰囲気だったと思ってるんですか?」
「う〜ん、確かに、イヅル自身が一番おもろかったもんな〜」
「そ、それはひどいですよ、市丸隊長!」
 戻った市丸を見た吉良は、卒倒寸前だった。
 なんとか持ちこたえた後も、意味不明のことをわめきたてるわ、動転して声は裏返るわ、あちこち走り回っては、色んなところにぶつかったりしていた。
 とうぶんはこの可愛い部下をからかって気を紛らわせるか…などとひどいことを考えていると、トントン、と遠慮がちにノックの音がした。
 卯の花の回診だろうかと思って見ると、今一番来る可能性の低い、誰よりも可愛い顔がそっと覗いて、ぎょっとした。
「…これはまた、珍しいお客さんが来はった。…右手は、もう大丈夫なん?」
 どきんと大きく心臓の音が聞こえて、市丸は狼狽した。
「…ああ。…お前こそ、腕は大丈夫なのか?」
「おかげさんでな、まだ繋がっとるみたいや」
 市丸は答えて、チラッと吉良の方に、目で合図をした。
 吉良は頷いて、するりと部屋を出てゆく。
「…僕はこれで失礼します。日番谷隊長は、ゆっくりしていってください」
「あ、…いや、…俺もすぐ…」
「十番隊長さん、立ち話もなんやから、ここ来て座ったら?イヅルが持って来てくれた果物、食べてき?ボク一人じゃ、食べ切れへん」
「…」
 別に食べ物に釣られたわけではないだろうが、日番谷は少しためらってから、ベッドに近寄ってきた。
「…元気そうだな」
「腕怪我しただけやからね。これもじきに治りそうや」
「…そんな簡単な怪我には、見えなかったけど」
「心配してくれとるの?」
「…別に…」
 言って日番谷は椅子を引き寄せ、ちょこんと座った。
 まさかこんな距離で腰を落ち着けてくれるとは思ってもみなくて、思わず目を疑ってしまう。
「…現世のお土産な、退院したら持っていきますよって、もう少し待っててな?」
 何を話したらいいのかわからなくて、とりあえず当たり障りのないことを言ってみる。
「いいよ、そんなの」
「乱菊は、待っとるやろ?」
「…あ、あいつはそう言いながら、本当はお前が元気になって顔見せるのを、待ってんだよ」
「お土産持ってな」
「…まあ、それも楽しみにはしてるみたいだけど」
 大事な昔馴染みと、自分の心を捕らえて離さない人。
 あまりに仲がよくて少し妬けるけれど、自然に笑みが漏れてしまう。
「現世には日番谷はんに似合いそうな服がぎょうさんあるし、買うてきたいものありすぎて、困りましたわ」
「メイド服とかスクール水着とかは、買ってきても着ないぞ?」
「ええっ、どこでそんなマニアックなもの覚えてきはったん?!」
 まさか日番谷の口から出るとは思ってもみなかった言葉を聞いて、市丸は心底驚いた。
「…よくわかんねーけど、どうせロクでもないものなんだろう?」
 どうやらまた、松本が何か教えたらしい。
 日番谷はとりあえず、怪しいものとして名前だけをインプットしたようだった。
 彼の頭の中ではまだ、その全貌は明らかにされていないらしい。
「…ほんま、何も知らへん無垢な日番谷はんに、よけいなことばかり教えて…」
「誰が無垢だ」
 市丸から見たら十分無垢なのだが、日番谷は気に障ったらしい。
 すぐに怒る。
 でも今日は、これまでよく同時に向けられてきた、嫌悪や拒絶、…のような感情は、感じられなかった。
「日番谷はんは、ソフトクリームは、食べたことあります?」
「ない」
「ほんま?せやったらぜひ、今度食べてもらいたいねん。色んな味があって、ほんまにおいしいんよ?」
「やだ。お前がそうやって言う時、絶対何か企んでやがるから」
「…」
 さすが、頭がよく、警戒心の強い日番谷だ。
 サービスが悪いという言い方もできるが、市丸の日ごろの行いが悪いせいもある。
「…残念やわ。巨峰味っちゅうのがあって、ほんまおいしかったんやけど。…日番谷はんにも、食べてもらいたかったな…巨峰は知っとる?ひーくん」
「ひーくんはヤメロつってんダロ?」
 ジロッと睨むが、帰ろうという様子はない。何か用事があって来たなら、来るなり用件を言ってすぐ帰ろうとするだろうし、用事がないなら、そもそもここには来まい。
 完全に市丸を拒絶する雰囲気は、なかった。
「…せやけど、嬉しいわぁ。もう二度と会うてくれへんかと思うとった」
 あまり重くならないようにさらっと言うと、日番谷は少し俯いて、しばらく黙ってから、
「あの腹ん中でお前、あと半日待てって言ってたけど、半日待ったら、お前の腕はあんなことにはなってなかったのか?」
 やはり、聞きたいことがあって来たらしい。
「まあ、ボクの霊力が完全に圧倒した時点で回復する予定やったけど、どうやろね?」
「…俺のせいで、回復する前に無理矢理抜かせちまったのか?」
「何言うてはるん?」
 言われて驚いて、市丸は日番谷を見た。
 全面的に市丸が勝手にしたことなのに、まさかそんなことを気にしていたとは。
「…あんなもん、悪いのはみんなマユリちゃんやで。ほとんどいじめや、ホンマ」
 自分のことは棚に上げて、市丸は堂々と言った。
「…でも、あの時涅が来なかったら、お前、俺のこと、…」
 少しばかり責めるように、上目遣いで言ってくる。
(なんや、やっぱり怒っとんのかいな)
 当たり前といえば当たり前だが、日番谷がこの部屋に顔を出した時点で、都合の悪いことはすっかり忘れていた市丸は、心底がっかりした。
 日番谷に性体験がないのなら、身体にその快楽を教えてやれば、嫌でも自分から離れられなくなると思っていた。
 だからやり方が多少強引でもすぐに和姦になると思ったし、それ以外日番谷を振り向かせる方法など、思いつきもしなかった。
 しばらく落ち着いていた、自分の中で制御できないものが再びざわめくのを感じて、市丸は日番谷から目を外し、窓の外を見た。
「…結局キミには、届かへんのやね」
 心を乱させるその姿が視界から外れると、言葉が吐息のように、勝手に零れ落ちた。
「ボクの声も、届かへん。ボクの手ェも、届かへん。キミの心には、ボクのもんは何ひとつ、届かへんのや」
 すぐそこにいるのに。手を伸ばしたら届きそうなところにいるのに。
 こんなに何かを欲しいと思ったのは初めてなのに、そのたったひとつが、決して手に入らないのだ。
 この世の中の何もかもは空虚で、うつろいやすく、意味などなにもないから、これまで生きていて、楽しくて仕方がなかった。
(…何があない楽しかったんやろなあ…自分のことながら、さっぱりわかれへんなぁ…)
 ぼんやり思っていたら、腕がまた、ズキッと痛んだ。
 胸が痛い、のに似ている。とまたぼんやり思った。
(…まあ、こないなんも、楽しないこともないかもしれへんなあ…)
 そっと腕に触れてみると、突然隣で、痛むのか?という声がした。
 ぼんやりしていた市丸は我に返って、ようやく日番谷が隣にいたことを思い出した。
 日番谷が隣にいて、彼の存在を意識しないでいたなどということは初めてで、市丸は自分で驚いた。
 彼を楽しませるようなことは何も言っていないし、彼の興味を引くようなことは何もしていないのに、そんなぼんやりした市丸に付き合って、日番谷がどこへも行ってしまわなかったことにも、驚いた。
 振り返ると、日番谷は怒ったように眉を寄せたまま、心配そうに市丸を見ていた。
「全然大丈夫やでぇ。こない包帯グルグル巻きで、みっともない姿見られてもうたなあ思うとっただけや」
「みっともなくなんか…」
 困ったように言って、日番谷はそっと目を落とした。
 その微妙な表情を見て、市丸はまた動揺した。
 触れなば落ちんという言葉があるが、今の日番谷が、まさにそんな状態なのではないかと、野生の勘で鋭く察知したのだ。
(触れなば落ちんゆうても、ど、どうやって触れたらええんか、わかれへん…)