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紅蓮−15

 ハッとして見ると、暗がりの向こうから、涅親子が現れた。
 マユリは二人の様子にはさほど興味を示さず、中の様子をしげしげと眺めている。
 後ろのネムは、黙って立っているだけだったが、それだけで精一杯の様子だった。
 何か虚の力を防御するものを使っているのだろうが、ネムではまだ霊力が足りないのだろう。
 平然と歩み寄ってくるマユリに、市丸はようやく日番谷から腕をほどいた。
 まさかここでマユリに助けられるとは、思ってもみなかった。
 彼は彼なりの任務で来たのだろうが、結果的に市丸の企みを阻み、日番谷を救ってくれたことになる。
 次の隊が来たということは、思ったよりも時間が経っていたのだろうか。
 日番谷が失敗したと思われたのだとしたら、それは屈辱的ではあったが。
 市丸は一瞬すごい目で涅を睨んだが、すぐにいつもの顔に戻り、
「…これはこれは、十番隊さんのお次は十二番隊さんですか。ボクの任務もまだ終わってへんのに、総隊長さんも、気ィの短いお人やね?」
「フム、君が壁の中で捕まえているのは、核かネ?…その腕は、抜けないのか?」
「今十番隊長さんと二人で、頑張っとるところですわ。あと半日もしたら、核も潰して、この腕も無事抜けるようになりますよって、十二番隊さんの出番はあらしません。な、十番隊長さん?」
 十番隊が失敗したと思われたくないだろう日番谷のプライドを利用したセリフだ。
 ここで涅を追い払えば、面目は保てるが市丸の望み通りになる。
 究極の選択に日番谷が黙ると、マユリは日番谷の氷輪丸をまじまじと見て、フム、と言った。
「それは阿近の作品だネ?よくできているが、まだまだだ。君の斬魄刀は、ここでは抜かない方がいいヨ。…市丸隊長のそれは…、ふうむ、なにかネ、それは?」
「邪魔するだけやったら、帰ってもらえませんか、十二番隊長さん?」
 いかにも面倒くさそうに、市丸が答えた。
「実に興味深いが、さすがの私もあまり長くここに居れないのでネ。相談なんだが、日番谷隊長、私の開発したこれを、使ってみてくれないかネ?」
「なんだ?」
 突然指名され、掲げられた妙な形の刀を見上げて、日番谷は眉をひそめた。
「強力な麻痺剤が仕込まれた刀だヨ。この虚はぜひとも生きたまま捕らえて、この腹の奥の奥まで調べてみたいのでネ。殺してしまうのは、もったいない」
「バカな!」
 思わず日番谷は、叫んでいた。
「ここまで来たなら、こいつの力くらい、アンタにもわかっただろう!こんなの生かしておいたら、危険だ!」
「大丈夫だヨ、これは私が作った、特別な薬だから」
「それは、総隊長の命令なのか!?」
「私の親切な提案だヨ」
 つまりは、無許可ということだ。
 だから命を受けていない彼は、無闇に斬れないのだ。
「断る!これ以上犠牲者が出る危険を冒すわけにはいかない!」
 断固として日番谷が答えると、涅は呆れたようなタメ息をついた。
「では君は、そのまま市丸隊長が核を破壊するのを、悠長に待っているつもりかネ?」
 興味がない顔をしながら、二人が何をしていたか、涅はわかっているようだった。日番谷の置かれた状況も、市丸の狙いも。
 涅が核を捕まえている市丸ではなく、日番谷に話を持ちかけたのは、そのためだったらしい。
 日番谷の頬にカッと血が上ったが、涅は利用できる情報として以外、そのことに興味はないようだった。
「今すぐ核を破壊したかったら、君の斬魄刀をその壁の中に刺し込んで、内側から直接物理的に破壊するしかない。この中では、我々の斬魄刀も、本来の力を発揮できないようだからネ。しかしそれでも氷輪丸では、市丸隊長の神鎗の長さには、及ばないようだ。君が身体ごとその壁の中に潜り込めば、話は別だがネ?」
 身体ごと壁の中に潜り込めば…
 ハッとして、日番谷はシッカリとはさまれた自分の手を見た。
 吸い込まれた瞬間の激痛や、それを抑えるために消耗する莫大な量の霊力が、全身に及ぶことを想像してみる。
「…あんな気ィ狂ったおっさんの言うことなん、信じたらあかんよ、十番隊長さん。壁ん中なん、いくらキミでも、潜り込まれへんよ?」
 市丸が声を潜め、それでも憤慨したように言った。
「…まあ、君の斬魄刀や君自身が、その中で耐えられるかどうかは、わからないがネ。そんな危険を冒すよりは、とりあえずこれで、こいつを眠らせた方が安全じゃないかネ?」
 一瞬でも涅に助けられたと思ったのは、間違いだった。
 正に前門の虎、後門の狼だ。
 仮にも隊長の立場にいながら、この二人の大人達は、何を考えているのだろうと日番谷は本気で思った。
 死神の任務や皆の命よりも、自分の欲望を優先させるような奴らばかりなのだ。
 そんな刀を用意してくるくらいなら、そのまま死に至らしめることのできるものを用意してくればいいのに、初めから涅は、そういう方向で協力するつもりは、全くないのだ。
 その上涅は、日番谷の勇気や覚悟を、試しているのだ。
 自分の頼みを蹴るからには、どんな目に会ってもそれくらいの覚悟があろうと、その結果をとくと見てやろうという考えなのだ。
 それともはじめから、子供の率いる十番隊の実力などその程度だろうと、バカにしているのかもしれない。
 どうせできやしないだろうと、そうやって脅せば涅の案に飛びつくだろうと思っているのかもしれない。
「…」
 こんな大人達に負けてやるものかと、日番谷は左手を、氷輪丸に伸ばした。
「日番谷はん…無茶やでキミ。ボクでも腕一本が、精一杯なんやで?キミの氷輪丸も、その可愛えお顔も、たちまち消化されてドロドロになってまうで?」
「…俺の霊力がこいつに負けなきゃ、いいんだろ…?」
「あかんて!あと半日待ち!その頃にはボクの霊力がこいつ捻じ伏せて、無理せんでも腕も抜けるようなるから!」
「…その間に、俺はテメエを愉しませなきゃなんねーんだろ?…反吐が出るぜ」
 ギラリと市丸を睨み、日番谷は吐き捨てるように言って、氷輪丸を抜いた。
「ホウ…?本当にやるつもりかネ?」
 とたんに氷輪丸が、ビリビリと軋み始める。
(氷輪丸…俺に力を貸してくれ…!)
 霊力の全てを氷輪丸に注ぎ込もうとしたとたん、目の前の市丸が、突然ユラリと立ち上がった。
 それだけで集中力が乱されるほど、渦のように凶暴な霊圧が押し寄せてくる。
 日番谷はとっさにぐっと腰を落として、圧倒されないように踏ん張った。
「…ああ、おもろないわ…どいつもこいつも、なんもかんも、ちいとも思い通りになれへん…」
 呪いの言葉を吐くように、灼けるような毒気とともに低く呟くと、市丸はそのまま無造作に歩を進めた。
 腕が壁に引っ張られて止まると、それも『思い通りにならない』もののひとつのように、振り返ってカッと憎悪の目を向けて、
「射殺せ、神鎗…!」
 言葉と同時に閃光が閃いた。
 同時に壁全体に亀裂が入り、足の下、この世界そのものがグラグラと揺れ始める。
「…市丸…っ」
 手を締めていた壁の力が緩んだと思った瞬間、目の前の壁の中から、ズルリと市丸の腕が引き出された。
「…ッ!」
 喉まで出た悲鳴を、日番谷はありったけの理性で飲み込んだ。
 目の前に現れたそれは、十番隊の隊員の腕よりも無残に溶け崩れ、骨が見えていた。
 思わず目を背けたくなるほど、まるで腐りかけた死体のような手は異臭すら放っていたが、続いて現れた神鎗は、曇りひとつなくギラリと妖しく光っていた。
「…崩れんで、十番隊長さん。ぼうっとしてたら、あかんよ」
 感情のこもらない声が、有無を言わせぬ威圧感をもって、乱暴に投げかけられた。
 次の瞬間、戻って来た神鎗の刃の先で、赤く発光した虚の核が、ボロリと崩れ落ちた。