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紅蓮−14

 力をかけられてバランスを失い、思わず壁に手を付こうとして、すうっと手首まで壁に吸い込まれた。
「うわあっ!」
 とたんに電流のような激痛が走って、日番谷は叫び声を上げた。
 反射的に引き抜こうとするが、ガッチリと壁に咥え込まれていて、ビクともしない。とっさに手に霊気を集めると、激痛はなんとか引いた。
 荒い息をついていると、目の前の大きな身体が、ク、ク、ク、と低く笑った。
 ゾクッと、覚えのある寒気が背筋を駆け抜けると同時に、肌が総毛立った。
 市丸の醸し出すものはいつの間にか、全く違うものに変貌していた。
「…ようやっと、捕まえたで…?」
 血も凍るような声で、うっとりと、市丸は言った。
 今度はショックが、電撃のように身体を貫いた。
 信じられない思いにドクンと鼓動が高鳴り、顔が上げられない。
 見なくてもわかる。
 今の市丸が、どんな顔をしているのか。
 あれだけの目に会っていながら、どうして自分は市丸の前で、警戒を解いてしまったのだろう。
 市丸が自分のために命を懸けて虚に飲み込まれたなんて、どうして信じてしまったのだろう。
 あんな、戯言で。
 愛があるかのような、切ない声ごときで。
 死にそうな声を聞かされただけで、本当に死にそうなんだと、どうして信じてしまったのだろう。こんな男、殺したって死なないだろうに。
 市丸は、罠をしかけて日番谷を待っていたのだ。
 日番谷のために、命をかけたフリ。
 無邪気に純粋に、日番谷に想いを寄せているフリ。
 虚に捕まって、死にかかっているフリ。
 本当は全部嘘っぱちで、その気になったら今すぐにでも、こんな虚の息の根くらい、止めて逃げ出せるのだ。
 日番谷を捕まえるためだけに、そうしないでこんなところで、日番谷を待っていたのだ。
 わざわざあんな声を聞かせて、来るなと言って、そう言えば日番谷は、絶対に来るとわかっていたのだ。
 そうしなくても、あの晩五番隊の名前を出して、十番隊が出るしかない心理状況にもっていかされている。
 幾重にも用意された誘導のための罠にことごとくはまって、まんまと捕らえられてしまったのだ。
「…いちまる…!」
 怒りのあまり、声が震えた。
 平然と欺いた市丸も、騙された自分のバカさ加減も許せなかった。
「どないしたん?声が震えとるで?」
 笑いを含んだ声とともに市丸の手がそっと伸びてきて、日番谷の髪に触れようとした。
「触るな!」
 鋭く撥ね付けると、市丸は撥ね付けられた手をじっと見てから、突然日番谷の髪を引っ掴んで、ぐいっと力任せに上を向かせた。
「…っ!」
「可愛えお顔、よう見せてぇな」
「放せ、このヤロウ!」
 髪を掴んだ手に爪を立てると、市丸は眉を寄せて手を放した。
「…あんまり怒らせんといてな?ボク、抵抗されんの、ほんまに嫌いやねん。暴力も、嫌いやねん」
「俺も嫌いだ、好きでもねえ奴に触られンのも、汚らしい感情向けられンのも」
 市丸はすうっと表情を消して、口元を袖口で隠し、小首を傾げるようにして日番谷を見た。
「…もう一方のお手々も、壁ん中入れられたいん?」
「…!」
「今はまだ平気やろうけど、そのうちその手、中で消化され始めんで?」
 平然と言う市丸に、冷たいものが背筋を走った。
 自分を思い通りにするためだけに、そうまでするのか?ここまでするのか?それだけのために、自分の命も、日番谷の命も、部下の死神達の命も危険に晒したのか?
 その想像を絶する妄執ぶりに、愕然としてしまう。
「…キミはもう、どこにも逃げられへんよ?」
 呆然とする日番谷に、更に市丸は、うっとりと続けた。
「ボクがこの核放してもうたら、…そうやな、ボクらはこの腕切り落としたったら脱出はできるかしれへんけども、次この虚倒すまでに、また何人犠牲者が出るやろね?」
「…脅すつもりか?」
「現状の説明したってんねん。わかってへんみたいやから」
「テメエだって、腕一本なくなるんだぞ?」
「腕よりも、ボクは冬獅郎が、欲しいねん」
 言って笑った市丸の口は、空に開いた虚の口の裂け目みたいだった。
 口というよりは、どこまでも漆黒の闇に続く、不気味な空間の裂け目だ。
 通信機ごしに初めて冬獅郎と言われた時は、不覚にも少しばかり頬が熱くなってしまったが、今その口から名を呼ばれると、おぞましいだけだった。
「…ほんま言うとな、ボクはこのままここで死ぬまでキミと二人でおっても、ええ思うてるんよ?」
「…お前…」
「邪魔なもんが、多過ぎなんや」
「…狂ってる、…ぜ…?」
「…キミの理性やプライドも、邪魔や」
 言葉と同時に、また腕が伸びてきた。
 とっさに抜刀しようとしたが、右手は壁に埋まったままで動かず、後ろに逃げるにも限界があった。
「触るなーっっっ!!」
 絶叫にも近い怒号も、市丸には効かなかった。
 魔物の触手のように黒いものをまとった腕が、とうとう日番谷の腕を捕らえ、引き寄せられる。
(…あ、…あ…っ!) 
 恐怖と嫌悪のあまり、全身に鳥肌が立った。
 こんなことがあっていいのだろうか。
 まるで、悪夢だ。
 その腕に抱き締められると、まるで爬虫類に巻かれているような生理的な嫌悪感に、身の毛がよだった。
「…捕まえたで…もうキミは、ボクのもんや…」
 耳元で、市丸の嬉しそうな声がした。
 通信機で聞いたような、弾むように純粋なものではなく、腹を空かせた蜘蛛が獲物を捕らえた時の、舌なめずりをするようなゾッとする声だった。
「…離せ…それ以上何かしやがったら…許さねえ…」
「すぐにボクを受け入れるようになるよ?キミの心は、キミが自分で思うてるよりも、柔軟なんや…キミの身体もな、ボクの可愛え冬獅郎…」
「勝手なこと言ってんじゃねえ!テメエなんかに名前呼ばれるだけで、虫唾が走る!」
 力で勝てなくても、絶対に屈するつもりはなかった。
 日番谷の激しい拒絶に、市丸が少し身体を離し、表情のない顔がすうっと視界に入った時、
「おやおや、こんな時だというのに、ずい分楽しそうにやっているじゃないかネ?」
 突然広々とした空間の向こうから、独特な声がした。
「ほう、これがこいつの腹の中かネ?…なかなか興味深いじゃないか」