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紅蓮−13

 どこまでも広い空は変わらないのに、現世の空気は澱んでいて、重くて、寒々として感じた。
 日番谷は副官の松本と数名の席官を連れて現世に降り立ち、市丸が消えたあたりの空を、建物の屋上から眺めていた。
 何の変哲もない平和な空が、まやかしで一杯の幻のように胡散臭く見えるのは、市丸が飲み込まれていったと思うからかもしれない。
 ひとり鉄柵の上に立って、ずっと空を見ている日番谷の言葉を、部下達は後ろで控えたまま、黙ってじっと待っている。
「…半日待っても俺が戻らなかったら、尸魂界に戻って経過を報告しろ。俺の命令がなかったら、何があってもお前らは、絶対にあの虚には近付くんじゃない。戦うことも許さない」
「…はい」
 日番谷は懐から鈴を取り出すと、霊力を絡めて、ゆるりと鳴らし始めた。
 本当にこんなもので現れるのかわからなかったが、現に市丸も、これで虚を呼び寄せていた。
 リン、リン、という静かな音が、儀式のように厳かに、平和な空を渡ってゆく。
 しばらくは、何もなかった。
 やがて空の色がごくわずかに濁り始め、それはみるみる濃くなっていった。
 後ろで席官達の、ゴクリと息を飲む音が聞こえた。
 空に、真一文字に、線が入った。
 それは空間をゆっくりと裂いて、ふわりと口を開いてゆく。
(…大きい…)
 実際に目の前で見ると、その口は途方もなく大きく見えた。
 あれが口だけでなく、本体全てを現したとしたら、少なくとも大きさは、大虚に近い。市丸さえ飲み込まれたことを考えると、その力も、それに近いのかもしれない。
 口が開くにつれ、ビリビリくるほどの霊圧を感じた。
「!お前ら、下がれ!半径10キロ以上だ!」
「はいっ!」
 部下が安全な距離を取るのを確認してから、日番谷は阿近の作ったシールドをつけた氷輪丸を握り締め、その口の中に自ら飛び込んだ。

 空中戦は得意なはずなのに、裂け目に近付いた瞬間、ぐるりと天地が回った。
 四方八方から身体がもぎ取られるように力が奪われてゆく。
「…っ!」
 まるで、ブラックホールだった。
 身体の奥にまで腕を入れられ、根こそぎ霊力を引きずり出され、全て吸い取られてゆくように感じた。
 氷輪丸はその形を留めているから、それでもシールドの効果はあるのだろう。
 果てしなくどこかに落ちてゆきながら、さんざんに嬲られ、奪い取られてゆく。
 悲鳴が口を付きそうになり、奥歯を噛み締めた。
 肌が熱を帯び始め、燃えるように熱い。
(溶かされ始めてんのか…?!)
 予想を遥かに超えたその力に、愕然とした。
(なんとしても…市丸のところにたどり着かないと…)
 日番谷は身体を丸めると、自らも霊力のブロックをした。霊力を固めてバリアのように張り巡らし、内から溢れる霊力で、更に硬度を増してゆく。
 奪われてゆく眩暈のような感覚は、それで少し和らいだ。
 やがて、ドンという衝撃とともに、どこかに落ちた。
 そこは広い空間だったが、圧迫感と空気の薄さに、いるだけで激しく消耗させられた。
 日番谷はようやく氷輪丸に結んだ布から、霊力を食うモノを破り捨てた。
 それで少しは、楽になった。
「…ひつがやはん…?」
 奥の方から、聞き覚えのある声がした。
 振り返って見ると、薄暗がりの向こうに、うっすらと市丸の姿が見えた。
 壁を背に座り込んでいて、左手をその壁の中に二の腕まで潜り込ませている。
「…市丸…まだ生きてたか…」
 よろりと立って、市丸の方に歩み寄った。
 市丸は憔悴した様子だったが、身体を溶かされてはいなかった。
「来たらあかんゆうたのに、なんで来たん?」
 責めるように言うが、その声は昨日より更に、明らかに弱っていた。
「テメエの指図なんか、受けねえ。十番隊の任務で来ただけだ」
「…身体、大丈夫なん?」
「ああ。…思ったよりは、吸われちまったみたいだが」
 本当は強力な重力でも受けているように、立ち上がるのも並大抵ではなかったが、力を振り絞って背筋を伸ばし、顔を上げ続けた。
「…さすが、十番隊の隊長さんやねえ。…十二番隊のへっぽこアイテムは、役に立ってます?」
「ああ」
 日番谷がまた数歩近付くと、市丸は日番谷を見上げて、弱く笑った。
「…ほんまは、キミにもう一度会えて、嬉しい。こんなん思うの、恋人失格なんやろうね?」
「もともと恋人じゃないから」
「許してくれるん?おおきに」
「礼ゆうところじゃねえ」
「もっとよくお顔見せて?」
「やなこった。虚よりも、テメエの方が危ねえ。それよりお前の言ってた核とかいうやつ、その左手で捕まえてんのか?」
「…また、そない冷たいこと言うて。こんな時まで冷たいんやね、ひーくんは。核な、神鎗が捕まえてんねん、この中で」
「ひーくんて言うなって言ってるだろ。…その腕、抜けねえのか?」
「んん…」
 珍しく市丸は、そこで言い淀んだ。
「…今な、この中で戦うとるんよ。せやからほんまに、今は来て欲しなかってん。ここでは昼も夜もわからへんけど、外でいう明日くらいには、勝負つく思うてるんや」
「勝負?」
 あながち嘘ではないらしい。日番谷が聞くと、市丸は独特の、にたりとした笑みを浮かべた。
「こいつな、不用意にボクの霊気吸って、苦しんどるんよ。毒になるもん、混ぜたったからなぁ。…せやけど、今は、さすがに核捕まえとるだけで、ボクも精一杯や。この中で神鎗保っとるの、しんどいねん。この核な、移動しよるんよ。逃したらたちまち、どこか行ってまう」
 日番谷は改めて、市丸が腕を入れている壁を見た。
 金属のような硬質なものではなく、柔らかな肉の壁に見える。
 市丸の腕は、その肉の壁に食われかかっているように見えた。
「中…大丈夫なのか?その腕は?」
「…今は、ダメやね」
 ようやく市丸は、認めた。
「この中はこいつのテリトリーや。神鎗刺さっとっても、貫ききれんととどめ刺せんねやで?せやけどこいつも、必死やからね。なんとか溶かしてまおうと、ムチャクチャ攻撃してきよる」
「溶かす…だと?」
 平気そうな顔をしているが、もしかしたらその中は、かなりひどいことになっているのではないか…?
 気が付いて日番谷は、ゴクリと息を飲んだ。
「…俺にできることは?」
「やめとき。ヘタに手ェ出したら、キミも溶かされんで?」
「その核を破壊できたら、こいつを倒せるんじゃねえのか?」
「こん中、霊力効かへんねん。…でも、そうやね、もう少し腕引き抜けたら、ボクも楽やね。どない引っ張っても、抜けへんのやけど。…力、貸してくれる?」
「わかった」
 壁の中で霊力が効かないといっても、市丸が斬魄刀で捕まえているというのだから、全くではないのだろう。
 物理的な力で破壊するにしても、核とやらの波動はずい分奥に感じるから、外から氷輪丸を刺し込んでも、届かなさそうだ。
 この壁の外側から霊力で攻撃をしたら…この空間で、息の根を止められるほどの力をぶつけることができるのだろうか?できたとしてもこのままの状態では、市丸が危険だろうか?
 そんなことを考えながら市丸の隣に立って、両手で左腕を掴もうとした時、
 すうっと、市丸の右手が上がった。
 静かに微笑んだ表情は全く変わらないまま、その手が、とん、と軽く日番谷の背中を押した。
「あっ…」
 恐ろしいほど間抜けなことに、日番谷はこの時、何が起こったのか、わからなかった。