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Fall in love−9

 終業時間が近付いた頃、松本は大きく背伸びをして、ああ、ギンのやつ、結局来なかったじゃない、ウソつき!と、さも悔しそうに言った。
「昨日は、修兵に負けない上等なお菓子を持ってきてやるって、息巻いてたんですよ、あいつ。これで今日はおやつ代が浮くと思ってたのに。ホントに当てになんないんだから!…ま、こんなことだろうとは思ってたけど!」
 市丸の名前を聞いて、日番谷は眉間にシワを寄せ、ピクッと顔を上げた。
「…今日、市丸が菓子を持ってくる予定だったのか?」
「昨日バッタリ会った時、修兵と同じお菓子を持って来てて、同じのもらったって言ったら、すっごい悔しがってたんです。それで、もっといいもの持ってくるって変な対抗意識燃やして帰っていったんですけど。…どうせ面倒くさくなったか、いいものみつけられなかったのよ。いつも口ばっかりなんだから、あいつ!
 …ねえ隊長、本当にあいつと付き合ってないんですか〜?付き合ってるんだったら、ビシッと言ってやって下さいよう〜」
「付き合ってねえったら!」
「でもあいつのあんなデレデレした顔なんか…」
「それはもう聞き飽きた!ったく、どいつもこいつも!あいつの顔の責任までとれねえぞ、俺は!」
 日番谷が怒鳴ると、松本はしぶしぶ引き下がった。
 菓子をもらいそびれたことを怒っているような口ぶりだが、松本が本当に怒っているのはそんなことではないだろうと、日番谷は気が付いていた。
 口では散々に罵って早々に追い返すくせに、市丸が顔を見せるといつも、そのあと松本は少し機嫌が良くなるのだ。
 幼馴染といっても、死神になってからはほとんど顔も合わせないんですよ、と笑って言っていたが、本当はそれが淋しいんだろうと、なんとなくわかった。
 あの夜チラッと市丸がしていた思い出話を聞いても、…聞かなくても、流魂街で共に生きてきた幼馴染が大切でない死神など、いない。
 檜佐木に対抗意識を燃やして、彼に負けない上等な菓子を持って来てやると市丸に言われて、松本は嬉しかったんだろうな、と思った。
 檜佐木に負けないどんな菓子を持って来てくれるのだろうと、彼女なりに楽しみにしていたのだろう。
 それなのにどうしてそれを裏切るのか、日番谷には市丸という男が、全く理解できなかった。
 市丸だって、松本を大切に思っていないわけではないようだったのに。そういう相手に、平気でそういうことができることが、信じられない。
 日番谷は胸の合わせに入れてある結び文のあたりに、無意識にそっと手を当てていた。
 今朝ここへ来たら、机の上に、薄紅色の結び文が置いてあった。

可愛えボクの冬獅郎へ

 今夜お仕事終わったら、西の塔の舞台へおいで

ギン 

 その文にはそんなことが書いてあって、それを見た時、日番谷は色んな意味でおおいに憤慨し、とっさにビリビリに破いてしまうところだった。
(冬獅郎て呼ぶなって言ったのに!付き合ってねえって言ったのに!ボクのってなんだ!なんだこのピンクの紙は!てか、こっそり忍び込んでんじゃねえよ!何考えてンだ!)
 わざわざ「可愛えボクの」と書いたり「冬獅郎へ、ギン」と名前で書いたり、総じてこれでは、恋文だ。
 こんな文で呼び出されて行ったら、本当に恋人同士みたいだ。
(こんな勝手な呼び出し、誰が行くかよ!)
 日番谷は、断固としてそう決めた。
 これ以上市丸のような男に振り回されてたまるものか。
 あの夜…、日番谷は自分がいつ眠りに落ちたのかよく覚えていないが、夜中に目を覚ました時のことは、忘れられない。
 気が付いたら大きな温かい身体にしっかりと抱き締められて、裸のままで眠っていた。
 静かで規則正しい市丸の寝息がすぐ耳元で聞こえ、日番谷は即座に息を詰めた。
 どうして今、市丸が自分と同じベッドで寝ているのだろうと思って、すぐに夕べ、ふたりして濡れた身体のままベッドに入ってしまったことを思い出した。
 向うのベッドはおそらく使えない状態になっていて、日番谷は身体が小さいから、一緒に寝てしまえということになったのだろう。
 一瞬の間に色々なことを思い出して、驚愕と恐怖と緊張で、目が覚めても微動だにできなかった。
(夢じゃなかった…)
 大声で叫んで部屋を飛び出したい衝動を抑えるのに、またしばらくかかった。
 あまりにも激しく心臓が鳴っているので、市丸が気付いて起きたらどうしようと思ったが、市丸からは相変らず、落ち着いた鼓動が伝わってくるばかりだ。
 この男は平然と日番谷を抱いたまま眠っている。
 その前に、平然と、日番谷の身体に触れてきた。
 どうしてあんなことになったのかわからないくらい、いつの間にか市丸の腕の中にいた。
 終始ほとんどずっとパニック状態に近かったから、何があって何を言って何を言われたのかよく覚えていないが、こんなことになってしまった理由は、ただひとつ。
 日番谷に隙があったからだ。
 男でも、日番谷くらいの年齢のうちは、そういう対象に見られることも少なくはないということは、知っていた。
 まだ男も女もないような未分化な身体は、遊ぶには丁度良いのだろう。
 これまでそういう好みの男に手を出されるような隙を見せたことなどないが、夕べ市丸には、見せてしまった。
 そういうことだと思った。
 日番谷の隙。
 それはつまり、日番谷が、市丸のことを、……考えただけで、日番谷の呼吸は今でも苦しくなる。
 死神だって、隊長だって、なるからにはそれなりの覚悟を決めてなった。
 こんなところで、面白半分に手を出されたくらいで、全てを無駄にするわけにはいかない。
 そうと決めても、日番谷の胸はまだ、とくんとくんと高鳴っていた。
 今でもまだ、高なっている。
 市丸の名前を聞いただけで。
 あの夜のことを、ちょっぴり思い出しただけで。
 前の晩の市丸の言葉を思い出しただけで。
 いきなりあれだけ好き放題して、今更あんなに真剣に好きだなんて、順番が違うにもほどがある。
 あんなに軽々しく日番谷の心も身体ももてあそんでおいて、あの言葉だって、どこまで本気か、全く信用できない。
 気の向くまま、その時思ったままに行動するような男に、これ以上深入りしたくない。
 これを機会に、すっぱり切ってやるつもりだった。
 何を言っても通じないなら、態度でわからせるしかない。
 もう金輪際、二度と、あんな男に振り回されたりしないのだ。 
「…それにしても市丸の奴、そんなことを言っていたのか」
 おもしろくもなさそうに、日番谷は言った。
「…じゃあ明日俺が、市丸に負けねえ上等な菓子を買ってきてやる」
 その言葉に、松本は驚いて振り返り、
「…市丸に負けねえって、あいつ、何も持って来てませんけど」
「市丸が今度持って来るもんに負けねえものって意味だ。つまり、檜佐木と市丸の更に上ってことだ」
「隊長まで〜。何対抗意識燃やしてるんですか〜?」
 からかうように言いながら、松本の目がぱあっと輝いた。
 それにホッとしながらも、
「うるせえな、そんなんじゃねえよ。…俺もそんな上等な菓子、食ってみたくなっただけだ」
 松本に甘い顔をしてやるときりがないのだが、今回は特別大サービスだ。
 何故自分が市丸のフォローをしてやらないといけないのかと思うが、たまには日番谷も、松本を副官として大切に思っていることを伝えてみるのもいい。
 …それに、淋しがっている上に強がっている女性を見ると、どうも、なんとなく、落ち着かない気持ちになるのだ。それがいくら、松本でも。
「…たいちょ〜vvv」
「…だからいつまでも菓子の文句言ってねえで、さっさとそれ終わらせろ。それに、言っておくが、太っても俺は責任とらねえからな」
 抱き付いてこられそうな雰囲気を敏感に感じ取って、日番谷はそれを実行に移される前に、素早く牽制した。
「はぁ〜いvv明日、楽しみにしてま〜すvv」
 すっかりご機嫌になって、松本は机に残った書類に手を伸ばした。
 市丸のような男に心を奪われてしまったら、とても辛いことになりそうだと、しみじみ思う。
 改めて、自分の判断は間違っていないと思う。
(…明日は来るのかな。俺が今夜、行かなくても、その、上等の菓子とやらを持って)
 絶対に行かないと即刻決めても、日番谷は一時の感情が去ると、文を捨てることはせず、一度引出しにしまった。
 それからまたしばらくして、思い出したように文を取り出し、本当に市丸が書いたものなのか、三番隊からの書類を出して、筆跡を比べてみたりした。
 確かに市丸の字だと確認すると、少し考えて、その文を今度は着物の合わせ目に入れた。
 そしてぼんやりと、あの時の市丸の言葉を思い出してみたりした。
(…もしもホントに、ホントだったら?)
 考えかけて、もう許してしまいそうになっている自分に気が付いて、ゾッとした。
 本当だったとしたら、そう伝えるより先にあんなことをするなんて、頭がおかしいのだ。
 それとも日番谷が子供だと思って、バカにしているのだ。
 それを真に受けて許したりしたら、市丸の思う壷だ。
(俺は、テメエのお稚児さんになりたくて護廷隊に入ったんじゃねえ)
 同じ隊長格なのだから、同等の立場なのだ。
 正気に戻った今、これ以上思い通りになどさせてなるものかと思った。
 あれは一時の気の迷いだったのだと、自分にも市丸にも、証明したい。
 だから、だから絶対に、こんな誘いになど、のってはいけないのだ。
「じゃ、たいちょ、あたしはこれであがります。隊長は、まだ頑張っていかれるんですか?」
 松本に声をかけられて、日番谷はハッとした。
「あ、ああ。もう少し」
「早くあがってお菓子買いに行かないと、お店閉まっちゃいますよう〜」
 ウキウキと言う松本に、日番谷はフッと息を抜いてニヤリと笑った。
「大丈夫だ。明日の昼に行って、出来たてのを買ってくるから」
「そうですか。じゃあ、ごゆっくり〜vv」
 嬉しそうに言って帰ってゆく松本の後ろ姿を見送って、日番谷は背伸びをして、茶をすすった。
 ひとりになると、またドキドキと緊張してくる。
(あんな手紙寄越してくるんだから、今日はこっちには来ねえんだよな?)
 なんとなく気になって、もう一度文を出して、開いて見てみる。
 一字一句間違いなく、記憶の通りの文章だ。
 ごく短い、余計なことは書いてあるのに、大事なことは足りない文章。
 市丸の言葉そのままみたいな。
(…ホントにいるのかな。俺が行ってみたら、誰もいないか、他の奴が待ってたりして)
 これも市丸の、凝った冗談かもしれない。
 この一連の茶番全てが、趣味の悪い市丸の冗談かもしれない。
 あの夜だって、市丸は何度も意地悪をして喜んでいたから。
 それでも再び優しくしたら、またころりと騙された日番谷がおもしろくて、あの続きをしているのかもしれない。
(…いや、いいんだ。だから、絶対に行かねえんだし)
 そう思っても、仕事は全くはかどらず、日番谷は何度も何度も時計ばかり見ていた。
(まだ夜は、少し冷えるんじゃねえのかな?)
 チラリと窓の外を見て、日番谷は思った。
 前の晩も少し、寒かった。
 でも市丸がすぐ隣に来て、大きな腕にくるまれたら、寒さなんか一発で吹き飛んだ。
『好きやで、冬獅郎。ほんまに、好きや…』
 うっかり思い出してしまって、日番谷は低く舌打ちをした。
 本当みたいに聞こえた声。
 真剣みたいに思えたまなざし。
 そうなのだ。本当に、忌々しい。
 行かなければ、日番谷は本当に市丸と付き合う気はないのだと、証明できる。…それはつまり、行かなければ、本当に市丸とはこれきりになるということだ。
 日番谷はもう一度文を出して、その忌々しい文章を睨みつけた。
 市丸の文字には迷いやためらいというものはあまり感じられず、流れるような筆跡だった。
(こんなものきっと市丸は、軽く書けちまうんだ)
 日番谷がこんなにも悩むのを、わかっていて。
(…こんなとこで待ってるくらいなら、松本のとこに菓子くらい、持ってこれたのに)
 長い付き合いなら松本の気持ちくらい、わかるだろうに。
「…俺はお前みたいな不誠実な奴なんかとは、絶対に絶対に付き合わねえんだからな、バカ!」
 思わず叫んで立ち上がってしまってから、日番谷はため息をついて、また椅子に座りなおした。