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Fall in love−10

 西の塔へは基本的には立ち入り禁止で、その扉には鍵がかかっている。
 だがもちろん、登ろうと思って登れない死神など、少なくとも席官クラスにはいない。
 日番谷は扉に鍵がかかったままであることを確認すると、建物の二階くらいの高さにある窓を見上げて、タメ息をついた。
(…ホント、バカじゃねえの、俺。いねえかもしれねえよ、あいつ。…こんなところ、来たこともねえし)
 一応周りに誰もいないことを確認してから、大きくジャンプをしてその窓から中に入る。
 そこは階段で、中は薄暗く、古い匂いがした。
 中に入ると日番谷は一歩一歩、急がず足で階段を上がっていった。
 塔は精霊廷中が見渡せるほど高いから、そうやってゆっくりと登って舞台まで上がるのはとても大変で、時間がかかることもわかっていたが、日番谷はあえて踏みしめるように一段一段、時間をかけて登っていった。
 一体市丸は何がしたくてこんなことをするのだろうと考えて、それをいうなら自分も、一体どうしたいのだろうと思った。
 市丸に何を求めて、こんな時間にこんなところに、絶対行かないと決めたはずなのに、呼び出されるまま会いに行くのだろう。
 まるで、本当に恋人同士の逢瀬だ。
 一段一段上がる度、心臓がドキドキしてくるところなんか、本当に恋人同士の逢瀬みたいだった。
 どうしてあんな奴のために、と思いながらも、自分のために時間を作って自分を待っている市丸の姿を見たりしたら、それだけで心臓が止まってしまいそうな気もした。
 霊圧は、完全に消している。
 終業時間はとっくに過ぎているが、市丸はまだ待っているだろうか。
 塔の上は、下よりずっと寒いだろうに。
(いつまでも待ってればいいんだ、あんな奴。だいたい、こんなとこ指定してきたのは、あいつだし。…ったく、なんだって、こんなとこに)
 一階分の高さを登る度にひとつある窓から見える景色はどんどん高くなってきて、日はすっかり落ち、きらきらと星が瞬いていた。
 知らず急ぎ足になっていることに気が付いて、日番谷はまたスピードを落とす。
 もうすぐ、舞台に着く。
 心臓がガンガン鳴っているから、日番谷は一度止まって、深呼吸をした。


 一本、二本、三本…。
 日番谷を待つ間空けていった徳利を数えて、市丸は少し苦笑してから、次の徳利に手を伸ばした。
 高い塔の頂上よりも少し下あたりに張り出した広々とした舞台の真ん中を堂々と陣取って、そこからの美しい眺めに見入る。
 本当は夕日が沈んでゆく景色を日番谷に見せたかったけれども、そんな時間に彼が仕事を終えるわけはなかった。
 …というよりも、朝日が昇る時間になっても、来ないかもしれないのだが。
(…ま、それくらいで諦めたりせえへんけども)
 猪口になみなみと注いだ酒を、ちびりとすする。
(ああ、あの子。あの子がここに、おったらなぁ)
 この景色もこの酒も、何倍も美しく、おいしいものになるだろうに。
(せやけどあの子がここにおったら、もうボク景色やお酒どころやないかもしれへんなぁ)
 酒のせいではない理由でカッと身体が熱くなるのを感じて、市丸は飲みかけの猪口を盆に置いた。
 今夜は、待つ。とにかく、待つ。
 本当は待つよりさらいに行く方が市丸の性には合っているが、それでは結局市丸の気持ちでしかなくて、日番谷の意思ではない。
 だが言葉で聞いても日番谷の答えなど、わかっている。
 だからとにかく、今夜は待つと決めたのだ。
(ここからの景色、きれいやし。あの子がこれ見てお目々きらきらさせたら、そらもう可愛えやろうなぁ。気持ちが高ぶると胸の前できゅってお手々握るの、癖なんやろうな。あれ、可愛えよな。何度でも、そうさせてやりたいなあ…)
 うっとり思い出していたら、自然に顔がニヤけてきた。
 自分のものにできるかどうかの瀬戸際だというのに、…どうやら失恋の気配濃厚だというのに、幸せな男だと我ながら思う。
 でも、あの小さな手は、本当に可愛いのだ。
 あの可愛い可愛い小さな手が、シーツや市丸の腕をきゅっと握ったり、…手を掴もうとして、大きな市丸の手を全部握ることができなくて、小指と薬指の二本だけをきゅっと握ってきた時のことを思い出したりなんかしたら、…
 転げ回って悶えたくなって、市丸がブルッと震えると、
「バカじゃねえの、こんな寒いところに、何時間もいるからだ」
 クールな声にハッとして、後ろを振り返ると同時に、市丸は立ち上がっていた。

 あまりにも速いその動きと、予想もしていなかった展開に、さすがの日番谷も逃げきれず、気が付いたら市丸の腕の中にいた。
「おま…」
「来てくれたんやね。嬉しい。キミのこと、ずうっと考えとったんよ。ここまで上ってくるの、大変やったろう?こっちにおいで?」
 文句を言う間も与えず言って、市丸は日番谷を抱いたまま、大きく回転するように元いた舞台の中央に戻って行って、ふわりと座った。
「ここからの景色、きれいなんよ。キミに見せたいて思うとった。キミと見れたらどんなにええやろて、思うとった」
 そんなにぎゅうぎゅう抱き締めてきたら、見れるものも見れないのだが。
 突然の熱烈な歓迎と抱擁に、クールに決めようと思っていたのに、台無しになった。
「ちょ、待てよ、お前、離せ、苦しい!」
「離されへん。離したらキミ、逃げてしまいそうやもん」
「お前、酒臭!酔っ払ってんじゃねえよ!」
「酔うてへん。夢やないやろかとは思うとるけど、酔うてへん」
 やっぱりあの文は、そういうことだったのだ。
 わざと馴れ馴れしくいかにも恋文みたいにして、それでも来るかどうか、日番谷の気持ちを試していたのだ。
 あれに応えてやって来たということは、日番谷もその気持ちがあるという判断なのだ、市丸の中では。
 悔しい。
 何も言葉にしなくても、これでまた「日番谷の気持ちは確かめた」と言われてしまうのだろう。
 そんなあやふやな確かめ方は、日番谷は大嫌いなのに。
 日番谷にとっては、そんなものは何の確証にもなりはしないのに。
 どうして市丸はいつも、そんなものでこんなに自信満々に、確認したと言い切ってしまえるのだろう。
 やっぱり来るんじゃなかったと、日番谷は思った。
「あのな、言っとくけど、俺が来たのは、…」
「なんでもええんや。キミが来てくれた。それが、嬉しい」
 その腕から逃げようとした日番谷の頭を、胸に押しつけるように、市丸がもう一度ぎゅうっと抱き締めた。
 そのとたん耳に飛び込んできた、市丸の踊るような鼓動にびっくりして、暴れて逃げようとしていた日番谷は動きを止めて息を詰めた。
(これ…俺の心臓の音じゃねえよな?)
 日番谷の心臓もドキドキしているが、市丸も負けないくらいドキドキしている。
 言葉よりも態度よりも表情よりも、…その音が一番雄弁に市丸の本当の気持ちを語っているように思えて、ぴったりと胸に耳を押し付けたまま、日番谷は動けなくなってしまった。
「…日番谷はん?」
 突然おとなしくなった日番谷に、市丸の心臓の音が、更に速くなってきた。
 様子をみるように一度黙ったのは、動揺したからなのか。
 好き、と直接言葉で伝えられた時よりも、その音はずっと深く日番谷のハートを貫いた。
 鼓動の速さは日番谷にも移って、それは冷静な頭の回転を邪魔するくらい落ち着かないものなのに、もっとそれを聞いていたくて、日番谷は黙ったまま、押し返そうと市丸の胸に当てていた手で、その着物をぎゅっと握って目を閉じた。
 日番谷のそんな様子に、市丸は息を飲んで押し黙ったが、そのうち日番谷が何をしているのかわかったのか、困ったような声で、「ドキドキしとるの聞いとるの?意地悪な子ぉやね」、とタメ息をつくように言った。
 それでも愛しさが溢れるように、日番谷の頭を押さえていた手で髪をくしゃっと撫でると、そのままその髪に、顔を埋めてくる。
「…もっと聞く…?」
 その鼓動はドキドキと速いままで、その音に飲み込まれそうになりながらも、日番谷は心が溶かされていくような心地になった。
 黙ったまま、日番谷を抱き締めている市丸。
 なんだかそんなことが、あの夜にもあった。 
 ぺらぺらとよく喋る市丸が、こうしてじっと黙っている時。
 何を考えているのだろう。
 どんな気持ちでいるのだろう。
 何も言わないでこうしている方が、真剣な何かが伝わってくるように感じた。
「…こうしとると、あったかいね?」
 やがて市丸が、掠れた声で囁くように言った。
 ふわっと優しい口調が、するっと胸に染み渡る。
 身体の温かさだけじゃない。こうしていると、心も満たされて、温かくなるように感じた。
 そして市丸も、きっとそう言っているのだと思った。
「…そうだな…」
 ようやく日番谷が答えると、それを合図のように市丸が顔を下ろしてきたので、キスするつもりなんだ、とすぐにわかった。
 この流れだと、大人はそうするものなんだろうとなんとなくわかったのだけれど。
 これではいけないと断固思い、日番谷は今にも重なろうとしている二人の唇の間に、素早く手を入れてブロックした。

「だからお前、俺はこういうコトしに来たわけじゃねえって、言ってるだろ!」
 こんなにこんなに可愛くしておいて、日番谷は寸前で、無情に止めて冷たく言った。
 そればかりか、市丸の胸をどんと突き飛ばして、腕の中からさえ逃げていってしまう。
「ま、まだダメなん?!」
 ここでキスすらお預けなんて、どこまで祟るんだと、さすがの市丸も少しメゲそうになった。
「当たり前だ、お前がそんなだから、俺は、…」
「ほんまにボクがキミのことを好きなんか、不安になる?」
 その、呪文のようなたった一言で。
 日番谷はぱあっと頬を染め、泣きそうな、悔しそうな、それでいて恥じらいを含む、なんともいえない可愛い顔をして、
「…なんで俺がこんなこと言わないといけねえんだ!……ばか!」
 日番谷が、この年で隊長になるほど強く賢く大人びているとはいえまだ子供なのだと、頭では理解していたのに、やはりわかっていなかった。
 日番谷にとって、恋愛というものがどれほどデリケートで難しく、神聖で美しくあるべきものなのか。
 順番だとか言葉による気持ちの確かめ合いという、市丸にとってはさほどでもないことが、日番谷にとってはどれほど重要なものなのか。
 その初々しさ、真面目さ、不慣れさに、日番谷の年若さや純粋な気持ちをひしひしと感じ取って、とうの昔に忘れ去ったようなそんな新鮮さに、感動してしまう。
 これは、合わせてやらないといけないのだ。
 叶えてやらないといけないのだ。
 年齢も経験も大きく違う自分と日番谷の恋愛観は、それと同じくらい大きく違う。
 自分の基準を日番谷に求めるのではなく、日番谷の基準で愛情を表現してやることが、年若く純粋な日番谷との恋愛において「気持ちを確かめ合う」ことの、少なくとも第一歩なのだと、考えてみれば当たり前のことなのに、ようやく市丸は理解した。
 理解すると同時にお見舞いされた、この世の物とは思えないほど、とんでもなく可愛い「ばか」でそれを責められて、市丸は目の前に星が飛ぶほどの衝撃とともに、軽くノックアウトされてしまった。



 十番隊の宿舎の方へ続く廊下の前で、じゃあ、と言って日番谷は、市丸を追い返した。
「今日もここまでしか、送らせてくれへんの?」
 市丸が淋しそうに言ったが、日番谷はきっぱりと、ダメだ、と言った。
「また明日な。お休み」
「お休み、日番谷はん。ええ夢みるんよ?」
 暗にボクの夢、というようなニュアンスを含めた声で市丸は言って、日番谷の姿が見えなくなるまで、そこで見送っている。
 あれ以来、本当に市丸は日番谷に付き合って、可愛らしいお付き合いをしてくれていた。
 毎日毎日日番谷を迎えに来て、二人で食事をして、軽く遠回りをしてから、十番隊舎まで送ってゆく。
 手を握ろうとしてきたのも二回目にそうやって会ってからで、その時でも、「お手々握らせてもろてもええやろか?」とお伺いをたててきた。
 断ったら本当に我慢するのか確かめたくて、最初日番谷はダメだと言い、それにもメゲずに毎日何度もお伺いを立てられて、十回目くらいにようやく、おとなしく手を出した。
 月のきれいな、ちょっぴり肌寒い夜だった。
 そんな子供のような焦らし方をしても、市丸は辛抱強くそれに付き合って、ようやく日番谷の手を握るとそれはもう喜んで、初めて会った時に握手をした時、あんまり可愛い手で心臓が止まりそうだったというような話をするので、日番谷の方がドギマギしてしまった。
「しかも、なんやキミ、可愛えお洋服着とったよね?」
「あれは、無理矢理着せられたんだ。…なんだお前、お前もあんなのが好きなのか」
「…あの後キミは3曲目の舞台に出らんやったから、ボク、こっそり会場抜けて、探しに行ったんよ?」
「えっ…そうだったのか?」
「せやけどみつけきらんと会場戻ったら、キミはもう、女の子達にどこかに連れていかれた聞いて、慌ててまた探しに行ったんや」
 そういえば、あの部屋から逃げるきっかけを与えてくれたのは、市丸だった。
 よく考えてみたら当たり前なのだが、わざわざ探しに来てくれていたのだ。
「それに、ようやくみつけた思うたら、今度は眼鏡のおっさんがさらっていこうとしよるし」
 そういう話を聞くと、本当に市丸が初対面から日番谷にひと目惚れしたという話も本当に思えてきて、また日番谷はドキドキしてきた。
 …だとしたら、…あの夜は、本当に両想いだったのだ。
 それがわかっていたら、…あの告白の言葉をあの時言ってくれていたら、もう少し違った形で進展もしたかもしれないのに。
 少し恨めしい気持ちにもなったが、やはり市丸だけを責められまい。
「…そうだったのか…それでお前、あのあと宴会場にいなかったのか…」
 うっかり言ってしまうと、市丸の目が、突然キラリと光った。
「なんで知っとるの?」
「えっ?」
「ボクがあのあと宴会場にいてへんかったこと、なんで知っとるの、キミ?」
「なんでって…1曲目の時にはいたのに、戻ってみたら、見当たらなかったから?」
 勢いに押され、しどろもどろで日番谷が答えると、市丸は足を止め、日番谷と正面向きになって、両手を握ってきた。
「キミは、舞台の上から、ボクのことみつけたん?」
「え、だって、お前、目立つから」
「目ェ合うた?」
「…そこまでわかんねえけど」
「戻ってみたら、ボクが居らんなあて思うたん?」
「少なくとも、見渡したところいなかった…」
 市丸の言いたいことにようやく気が付いて、日番谷は動揺して身体を固くした。
「ボクのこと、探してくれたんやね?」
「いや…お前、目立つから」
 探しちゃいけねーのかコノヤローと言ってやりたかったが、市丸を喜ばせるだけなのがわかっていたから、日番谷は消え入りそうな声で、苦しい返事をした。
 だが市丸はやっぱり喜んで、素早く日番谷の額にちゅっとキスをすると、
「ボクは近道やと思うたんやけど。…ほんまに遠回りしてもうたみたいやね。…ゴメンな?」
 優しい優しい声で言われて、日番谷は突然泣きたいくらい胸が一杯になって、黙ったままうつむいて、包み込んでくる市丸の両手を、初めてそっと、握り返した。


おしまい