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Don't Speak−9

  十番隊舎へ戻る途中、長い長い塀が両側に続く道を歩いていた日番谷は、不意に足を止め、タメ息をついた。
「…市丸、さっきから、影が見えてる」
 日番谷の言葉に、小さな影に被さるように大きな影が伸び、
「うん、いつ気付いてくれはるんやろう思うて、キミの可愛え影にちょっと重ねてみたり、並んでみたりしとったんや」
「気持ち悪ィことすんな」
 本当はもっと前から気付いていたが、市丸と対面したくなくて、なんとかまく手はないかとずっと考えていた。
 だが、彼が言うとおり訴えるようにその影は、日番谷の影に寄り添うように並んでみたり、抱き締めるように重なってみたりしながら、日番谷が振り向くのを、今か今かと待っていた。
『なあ、ボクはここやで。はよ気ィついてや』
『無視せんと、こっち向いて?お話しよ?』
『…いつまでもそうやって気ィつかんフリしはるんやったら、…』
 ただの影の動きだけで、雄弁にそんな気持ちを伝えられているような気がして、このまま無視を続けたら、実力行使に出てくるだろうことは、容易に予想がついた。
 それでようやく嫌々ながら覚悟を決めて立ち止まり、振り向いたのだ。
 見上げた塀の上に立つ市丸は、月を背負って顔が陰になり、スラリとしたそのシルエットはそれなりにカッコいいと言って言えないこともないのに、出てくる言葉はどうしていつもそんなに変態チックで、…どうして自分はいつもそんな変態チックな言葉に、こんなに胸が熱くなるようなものを感じ取ってしまうのだろうか。
 日番谷が視線を外すと、市丸は音もなく塀の上から飛び降りて、日番谷の正面に回ってきた。
 顔を合わせたくなくて日番谷がそのまま顔を逸らすと、市丸が追いかけるようにまた回る。
 日番谷が反対側に顔を逸らすと、市丸はまたそれを追い、反対側に回ってくる。
「ひ、日番谷はん?!なんでお顔逸らすん?」
「テメエこそ、なに人の正面回ろうとしてやがるんだ?!」
「キミの可愛えお顔見たいからに決まっとるやんか!」
 市丸は相変わらず、口を開けば可愛え可愛えを連発する。
 苛々して日番谷は両腕を組み、睨みつけるように市丸を見上げた。
「で、何の用だ?十文字以内で答えろ」
「わあ、なんやご機嫌ななめやねえ。この間、ええところで終わりになってもうたから怒ってはるの?それともキミを連れて逃げへんかったから、怒ってはるの?」
 やはり用件は、それだった。
「アホかてめえ。ヤメロつってること無理やりやりやがったこと怒ってるに決まってるだろ」
 吐き捨てるように言ってやると、言い訳でもするかと思いきや、
「あの後十三番隊長さんに、襲われたりせんかった?」
「はあ?!」
「キミの魅惑のお肌をちょっぴり見られてもうたやん。ボクもう、それが心配で心配で」
「テメエと一緒にすんな!浮竹はそんな変態じゃねえし、テメエと違って紳士だ!」
 ぐっと込み上げてきたものを怒りに紛らせるために乱暴に言い放ち、日番谷は市丸に向かって、爪先で土を蹴った。
「あかんな。十番隊長さんは、まだ若いわ。紳士みたいな顔してはるお人が、一番怪しいんやで?」
「テメエほど怪しい奴がいるか!」
 土をかけられても怒りもしない市丸に、日番谷はムキになって、地面を掘り起こすほどの勢いでガンガン足元の土を蹴りつけてやりながら、
「お前、普通はまず謝るもんだろ、この間は申し訳ありませんでしたって言うべきだろ、俺に!」
 まず、人が眠っているところを襲うなんて、卑怯だ。
 嫌だと言っているのに力尽くで続行したことも、許せない。
 そして市丸がそんなことをしたせいで、浮竹にそんな現場を見られた上、彼と気まずくなってしまったのも、みんなみんな、市丸のせいだ。
「キミ、ちょう砂かけすぎや!そない怒らんといて。ボクもあんなところでやめたなかったんやで?キミを懐に入れて逃げようかともよっぽど思うたんやけど、逃がしてくれへん雰囲気やったし」
「怒るポイントそこじゃねえったら!」
「ゴメンな」
 最後まですっとぼける気かと思いきや、突然謝って、市丸はすばやく、それでいてドキッとするほどやわらかく、大切なものを扱うように日番谷を抱き寄せた。
 優しい声とともに、市丸の匂いに包まれて、市丸の体温にくるまれて、思わず息が止まりそうになる。
 その夢のような心地にクラッとして、一瞬怒りも、その他の何もかもをも忘れてしまいそうになる。
「あないなところで一人残してもうて、堪忍な?せやけど、あそこでボクは、退散しとかなあかんかってん。そうやないと、キミが…」
「な、何しやがる、離せっ!」
 だが、寸でのところで我に返り、慌てて振りほどくと、日番谷は大きく後ろに飛んで、市丸から距離をとった。
「油断も隙もねえ、そういうのを、ヤメロって言ってんだ!気安く触るな、馴れ馴れしく近付くな!」
 日番谷が目を吊り上げて怒ると、市丸は右手の袖を口元に当て、小さく首を傾げて見せてから、突然蛇のような冷たい笑いを浮かべた。
「…なんや、冷たいなあ、十番隊長さん。あないに可愛く反応してくれはったから、ボクはてっきり、早う続きをしに来い思うてはると思うとったわ」
「だ…誰が!」
 急に変った市丸の声のトーンに、甘い気持ちは瞬時に吹き飛び、ゾッとしたものが背筋を駆け上がる。
 市丸は彼の中の何かを一瞬にして切り替え、日番谷から一歩下がり、間に何かガラスのような、透明でいながら隔たりのあるものを置いてしまったように感じた。
 馴れ馴れしくするなとは言ったが、手の平を返したようなその態度の急変に、わけのわからない不安や不快感で、いっそう嫌な気分になる。
 日番谷のそんな感情まで読み取ったのか、市丸は彼独特の、ク、ク、ク、とバカにするような笑いを漏らし、
「…あの後キミ、どうしたん?ひとりでしたん?」
「なっ…」
 一瞬何の話をしているのか理解できなかったが、すぐにその頬に、熱が上った。
「ボクのこと思いながら、自分で処理したん?」
 弄るように、辱めるように言って、市丸はいっそう唇の端を吊り上げる。
「あそこはまだ疼く?キミはあの続きを知ってはる?」
「ウルセエな、失せろ!」
 あまりの言葉に逆上し、思わず日番谷が吠えると、市丸は高く笑って、後ろ向きにもといた塀の上に飛び上がった。
「我慢はせん方がええですよ?身体に良うないですからねぇ?夕べはよう眠れはりました?」
「黙れ、消えろ、去れ!」
「おやすみ、十番隊長さん」
「二度と来るな!」
 怒鳴って見上げた先で、月を背にした市丸の、それでも狐の面のように不吉に笑った顔が、一瞬ハッキリと見えて、消えた。
 日番谷は市丸がいなくなった後もしばらく塀を見上げたまま、ぎゅっと唇を噛み締めていた。
(…なんだよ、急に態度変えやがって。わけわかんねえ。ムカつく)
 自分が冷たい態度をとったのだから当たり前だと思いながらも、勝手にすり寄ってきて、自分の言いたいことだけを言っておいて、日番谷が自分の気に入らない反応をしたからといって、あそこまで態度を変えるなんて、ひどすぎる。
 そんなふうにするから日番谷だって心を開けないのだと思うと、ふいにぎゅうっと胸がくるしくなった。
 大人の遊びは日番谷には新鮮で、その駆け引きは、それなりに楽しいと思っていた。
 遊びだから、駆け引きだから、これまで市丸が思いもよらぬことを言っても、突然態度を変えてきても、それはそれでゲームの一環として、『そうきたか』と思っただけだった。
 だがいつの間にか、そんな風に市丸に様々な趣向を凝らされることに、苛つくようになってきた。
 自分の心を弄ばれているように感じ、彼は最終的に自分の身体で遊びたいだけなのだと思う度に、言いようのない不快感を覚えるようになった。
 こんな大人の遊びは、最初は物珍しく新鮮で楽しかったが、結局自分はそういうのに向いていないし、好きではないのだと思った。
 身体に触れ合う快楽は、それだけで自分の全てが持っていかれるほどに感じたから、それをよく知っている大人の市丸が、そういう行為をしたがることは、わかる。
 だが、その未知の快楽に心を奪われ、助けにきてくれたはずの浮竹をどうしようもなく疎ましく思ってしまったことに、自分でショックを受けた。
 市丸があっさりと自分を置いて去ってしまったことを恨めしく思ったことにも、動揺した。
 いつの間にか自分は市丸の仕掛けてくる遊びに溺れ、自分を見失ってしまいつつある。
 その事実に気が付いた時は、あまりのことに愕然とした。
 こんなゲームは、しちゃいけない。
 慣れていない上に向いていない自分は、市丸に勝てるわけがないのだ。
 勝てないと思うことは悔しいが、向いていないことは、どうしようもない。
 こんなことはもう、楽しくもなんともないのだから、楽しくなくなった時点で、ゲームは遊びとして成り立たない。
 これまで漠然と感じていたことをいっそう強く思ったが、そう思ってみても、日番谷はこのゲームをやめる方法さえ、知らなかった。
 市丸の気まぐれな態度に振り回されるだけの、こんなバカバカしいゲームなど、即刻終わりにしたいのに。
 早く市丸のことなど忘れ、平穏な毎日に戻りたいのに。
 気が付いたらいつも、市丸のことばかりを考えている。
 市丸に、囚われている。
 そう思った瞬間、更なる暗黒が、日番谷を襲った。
(まさか)
 ドクッと熱い血が心臓から押し出される音が、胸に大きく響いた。
(まさか、俺、俺は)
 あまりのことに息が止まりそうになり、心臓はガンガン脈打っているのに、手足が凍えるほど冷たく感じた。
(俺は、いつの間にか、市丸のことを)
 それは噂に聞くような温かいものでも、胸がときめくような甘いものでもなかった。
 ただ一人底なしの沼に足をとられたような、心臓が凍りつくほどの恐怖だけが、電撃的に日番谷の身体を貫いた。