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Don't Speak−2

  図書館の奥深く深く、うっすら埃すら被っているような、誰も来ない奥の棚列まで入り込んで腰を下ろすと、日番谷はようやく、ふう、と息をついた。
 隊長になったらわずらわしいことは、減ることもあれば増えることもあるだろうとは思っていた。
 だが、これは予想もしていなかった、新たな展開だった。
 霊術院時代も、護廷十三隊に入隊して即上位席官となってからも、そのあまりに強力な霊圧に圧倒され、気安く近づける者はほとんどいなかった。
 日番谷自身が、そうなるように仕向けてもいた。
 それでも女性は、驚くほど平気で日番谷に構ってくることはあったが、身体が子供である日番谷に興味を示して面倒をみたがるのは、女性の本能であると思えることから、納得はした。
 納得はしても、ありがたくもなければ嬉しくもないのに、男達は女性の関心を集める日番谷を妬んで、殊更子供を強調した陰口を叩いたりしていた。
(…まあ…、そうでない奴も、いたけど…)
 ふっと思い出しかけて、浮かんだ顔はすぐに、ぼんやりと霞む。
 あの頃は、日番谷は今よりも更に、子供だった。
 肉体的にも、精神的にも、今思うと笑ってしまうくらい、まだまだ子供だった。
(…くだらねえ。退屈した大人のゲームだ。駆け引き楽しんで、ちょっとスリルを味わって、そんなもんだ)
 自分は別に、毎日の生活に退屈しているわけではない。
 それどころか、日々の仕事は充実していて、大変ではあっても、望むものを手に入れるためにひた走ることは心地よく、今の生活に満足している。   
 だが、息抜きは必要だ。
 真面目に順調に隊長にまで上り詰めた日番谷にとって予想外だったのは、市丸の出現だった。
 辟易するほど熱心に十番隊に通ってきては、わけのわからないことを言ってくる市丸に、うんざりすると同時に、新鮮なものを感じていた。
 彼の幼馴染であるという副隊長の松本が日番谷の味方をしてくれるのでずい分助かっているが、それでもかわしきれない市丸のアプローチは多種多様で、いつどこに現れるか、次の瞬間何を言って何をしてくるか、全く予想がつかない。
 予想がつかないことに対処することは、常に事態に判断を求められる隊長という仕事をしてゆくにあたって、脳への良い刺激になった。
 そこに甘ったるい恋愛の色がこめられていることも、不思議とそれほど嫌だと感じたことはない。
 あの手この手で自分に近付いてくる市丸を冷たくあしらうことは、楽しくさえあった。
 それは今まで日番谷が知らなかった大人の遊びで、大人の駆け引きで、大人のゲームだった。
 あんなふざけた遊びを思いつくのだって、市丸くらいのものだろう。
 市丸が日番谷の剣の相手をすると言い出したのは、…あの日は日番谷が残業で遅くまで残っていて、松本は用事があって早めに上がってしまった夜だった。
 時計の音ばかりが静かな部屋に響く中、霊圧を消し、そっと部屋の戸を開けて市丸が現れた時は、本気で幽霊でも出たかと思った。
 いや、死神が尸魂界で幽霊が出たとか言うと笑われてしまうのだが、あの時の市丸を見たら、きっと誰でもそう思わずにはいられないだろう。
 もうちょっと心臓に悪くない顔をした者だったら、せめてもうちょっと肉がついているなりもうちょっと背が低いなりしてくれていたら、そこまで本気で「幽霊?」などと思ったりしないのに。
(…イヤ、吉良でもそう思ったかもしれない)
 市丸に負けず劣らず夜に一人でいる時に、暗闇から急に現れて欲しくない男だ。
 三番隊で遅くまで残業なり夜勤をした死神の中には、きっと同じような思いをした者が何人もいるに違いない。
 とにかくそんな静かな、他に誰もいない夜に市丸は十番隊に現れて、一人でいる日番谷を見て、それはもう嬉しそうな顔をした。
「ずいぶん遅うまで頑張ってはるんやね?」
 にこにこしながら遠慮もなく入ってくる市丸に、日番谷は手にした筆でゆっくりと弧を描くようにして、床を指し示した。
「市丸。そこを見ろ」
「はい?」
「床に円が描いてあるだろう?それは、俺がお前のためにわざわざ描いてやったもんだ。喜べ」
 それは今日の昼、松本とふたりで描いたものだった。
 日番谷の机を中心として、半径約3mほどの円…厳密には、日番谷の机の後ろは壁と窓なので、完全な円にはなっていないが…が、消えない塗料で、しっかりと描いてある。
「はあ、なんやマルが描いてありますねえ。なんですの、これ?」
 きょとんとして首を傾げる市丸に、日番谷は容赦なく、
「その線から中には、市丸立入り禁止だ」
「ええっ、なんですの、それ!」
 心底思いがけないというように、円を見下ろすために丸めていた背をさっと伸ばして、市丸は顔を上げた。
 ショックを受けたような顔をするくせに、その口はいつものようにしゃあしゃあと、
「ガード固いとますます燃えるボクの気ぃ引こうとしてはるん?それとも立入り禁止と言われると俄然入りたなる、人の心理を利用してボクの気ぃ引こうとしてはるん?」
「なんで俺がお前の気を引かないといけねえんだ、死ね」
 動揺もしないで日番谷が冷たく言うと、市丸は「空中はありなん?」と小学生のようなことを言って、それでも珍しくも律儀に線の外に立ったまま、手を伸ばしてくる。
 もちろん、手を伸ばしても届かない距離に線を描いてある。
「円より中に入ったらボクはどうなるんやろ?あかん、試してみたい気ィもりもり湧いてきてもうた」
「じゃあ、入ってみろよ」
「そう言われると、怖くてよう入られへん」
「じゃあ、そこで大人しくしてやがれ」
「十番隊長さんには、敵わんわ〜」
 しばらくの間、市丸は動物園の熊のように円に沿ってその外を行ったり来たりしていたが、やがてその一点に座り込むと、ただ線引いてあるだけやのに、ほんまのバリアみたいに中に入られへん。切ないわ〜、とわざとらしくタメ息をついた。
 まるでその目に見えないバリアに背もたれているような姿勢で、市丸は珍しくも黙ったまま、ぼんやりとむこうを向いている。
 静かな部屋に、再び時計の音だけが響き始めた。
 そこにいるだけで何も言わず、何もしない市丸というのは初めてで、その方が助かるのだが、どうも調子が狂ってしまう。
 こちらは市丸がいつ何をするのかと待っているのに、何もしないなら警戒するだけ時間と労力の無駄だし、さっさと仕事を終わらせて帰りたい。
「…おい、用がねえなら、帰れ」
 苛々して日番谷が言うと、
「…用。用ですかー…」
 こちらを振り返りもせず、上の空ではないかと思えるほど気の抜けた声で答える市丸に、日番谷が机の上にあった湯のみでも投げつけてやろうかと思った時、
「…ほんなら、これなら、どうですやろ?」
 言葉も終わらないうちに、日番谷の頭の中に、ぱっと閃光が走った。
 それは大脳で理解する前に脳幹が危険を察知し、小脳が送った指令に身体が反応した合図だった。
 気が付いた時にはほんの目の前で、自分の刀が市丸の刀を受け止めていた。
「…さすが、隊長さんや。ええ反応しはりますわ。今の、よう受け止めはったね」
「テメエ…何のマネだっ!」