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Don't Speak−12

  月は、中天に昇っていた。
 それを見上げて、日番谷は、ふうっと息をつく。
 ともすれば止まってしまいそうになる足をなんとか動かして、三番隊の隊舎へ向かうところだった。
 足が震えてしまいそうなのは、市丸が怖いからじゃない。
 大きな大きな決心をして、一歩前進するような時、期待と不安に胸がいっぱいになるのは、普通のことだ。
 自分はまだまだ子供だった、と日番谷は思って、苦く笑った。
 少し前もそんなことを思っていたが、今思うとその時も、まだまだ子供だった。
 明日にはまた、今日のことを思い出して、まだまだ子供だったと思うのだろう、きっと。
(大笑いだぜ)
 日番谷にとって恋愛とは、ちょっと胸がドキドキしたり、一緒にいて温かい気持ちになったり、相手のためになんでもしてやろうと頑張ったり、そういうものだった。
 限りなく家族への愛に近いもので、見返りなど気にしたこともなかったし、肉欲などというものも、当然なかった。
 だから、わからなかったのだ。
 市丸が仕掛けてきていた遊びの、本当の意味を。
 それがどんなに危険な遊びなのかということも。
 何もわかっていないまま、ちょっとしたスリルを味わい、好奇心を満足させるためだけに、十番隊の評判を落とし、浮竹の優しさを踏みにじり、そして、
 日番谷はぎゅっと目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
(遊びじゃなきゃ、いけなかったのに)
 今すぐにでも断ち切らないといけないとわかっているのに、それを思うと、胸が捻じ切られるように苦しくなる。
 もう二度と市丸とは会わない方がいいと思うのに、そう思っただけで、胸に大きな穴が開いて息もできないほど苦しくなる。
 こんな感情は、知らなかった。
 知りたくもなかった。
 怒りよりも制御が難しく、みじめな気持ちになるだけのこんな感情は、いらない。
 苦しくてもなんとしてでも乗り越えて、振り切って、目指した未来へと続く道に、戻らないといけない。
 どんなことをしてでも。
 どんなに辛くても。
 そのための方法を、それこそ必死で考えた。
 とにかく市丸に、遊びをやめさせることが必要だ。
 こんなことはやめろ、もう来るなとは、今までさんざん言ってきた。
 だが、そう言ったからといって大人しく言うことをきくような男ではないことくらい、すでにわかっている。
 市丸に、自分への興味をなくさせる方法。
 考えただけで震えたが、もうそれしか思いつかなかった。
 それは自分の気持ちを知られる前に、今すぐにでも、実行した方がいい。
 固く固く決心したのに、市丸の部屋に近付くにつれ、心が乱れてくるのを感じた。
 市丸の前では、毅然としていなくてはいけない。
 そうでなければ、あっという間に手玉にとられ、バカにされ、笑われて、いっそう太い鎖をかけられるだけだ。
 日番谷は市丸の部屋の前までくると、大きく息を吸って、吐いた。
(…もう、最悪のモンは、捨てちまったようなもんだ。今更何も、恐れるこたねえよ)
 自虐的に笑うと、心がすうっと静まった。
「市丸」
 しっかりと腹に力を入れて、呼んでみた。
「日番谷だ。夜分に申し訳ないが、いいか?」
 中で何かが動き、近付いてくるのを感じた。
 スラリと戸が開き、死覇装に隊首羽織を羽織ったままの市丸が、驚いたように日番谷を迎えた。
「…なんや、珍しいお客さんやねえ。難しいお顔しはって、どないしたん?」
 柔らかな声。
 いつもの市丸の匂い。市丸の姿。
 市丸をすぐ目の前にしただけで、泣きたいほど胸が熱くなる。
 一瞬だけ、この男を切り捨てるのではなく、その胸に飛び込むことができたらどんなにいいかと思ったが、すぐにそんなくだらない考えは振り捨て、気持ちを落ち着かせた。
(これは、俺がどうしたいかなんか、関係ねえんだ。しちゃいけねえこともあるし、できないこともある)
 第一飛び込んだら、突き放されるのはわかっているのだ。大人の駆け引きは、大人のままで終わらないといけない。
「まあ、とにかく、お入り?」
 市丸は日番谷の肩にそっと手を添えて、部屋に招き入れた。
 来訪者が日番谷だとわかると、入口まで出迎えにくる市丸。招じ入れる時に、そっと身体に触れてくる市丸。
 何も言わないけれども、そういったちょっとしたことの中に、特別扱いをされているような、大事にされているような、そんな気持ちにさせる態度を見せる。
 この男はそれをごく自然にするから、こちらもごく自然に、無意識のうちにそれを当たり前のものとして受け入れてしまうのだ。
(…クソッ)
 とりあえず、座り?と言って、座布団を出してくる市丸に、日番谷は扉の前に立ったままで、
「…市丸、一度お前と寝てやったら、こんなくだらない遊びは、終わりにしてくれるか?」
 全てを終わらせる言葉は、案外簡単に口から出てきた。
 震えることもなく、切ない響きもこもらず、投げやりでもない声で、ごく冷静に、静かに言えたように思えた。
 長居するつもりなど、ない。
 こんなところでくつろぐ必要も、ない。
 いきなり本題を切り出した日番谷に、市丸は表情の読めない顔で、振り向いた。
「もう、うんざりなんだ。この身体で遊びたいなら、遊ばせてやる。その代わりこんな遊びは、これでもう終いにしてくれ」
 市丸は軽く首を傾げて、じっくりと日番谷を見た。
「あらあら、難しいお顔してはると思うたら、大胆なこと言わはるんやねえ。…本気なん?」
「ああ」
「うんざりなん?」
「そうだ」
「お遊び終わりにしたいん?」
「ああ、そうだ」
「…ほんまに、好きにするで?」
「…ああ」
「せやったらその案、ボクも大賛成や」
 ごくあっさりと、満面に笑みを浮かべて、嬉しそうに市丸は答えた。
 そう答えてくれなければ困るはずなのに、ぱっくりと口が割れるような笑顔とその答えに、胸が抉られるような気持ちがした。
 身体が手に入るなら、日番谷との関係は簡単に切ってしまえるような、やっぱり市丸は、そんな気持ちだったのだ。
 少しの逡巡も見せず、いとも簡単に答えてしまう市丸は、遊びの引き際を心得た、大人なのだ。
 心に立ったさざなみを押し隠すように、日番谷は表情を変えないまま、ぎゅっと拳を握った。