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開けたらあかん−12


 目を閉じてしまうと、眉間にしわが寄っていても、やはり子供の幼い顔だった。
 幼い顔なのに、切なくこぼれた小さな声や、泣いているようなその表情に、思わずドキリとするほど不思議な色香を感じて、ふたりは顔を見合わせて、固まってしまった。
「…つぶれた?」
「大丈夫か?」
「な…なんか、日番谷隊長、色っぽくね?」
「あー、いやー、そのー、それを言うな!なんか色々と、マズイから!」
「あー、そうッスね!俺もなんか色々と、マズイっす!」
 小さな日番谷を抱えて帰るくらいわけはないが、なんとなく今、日番谷を抱えて布団に運んでしまったらマズいことになってしまうような、かといってその役を相手に譲りたくないような、本当に色々とマズイ雰囲気で二人の男が赤い顔でドウシヨウドウシヨウと言っていると、不意に窓に続く部屋の障子が、すうっと開いた。
「堪忍なあ、ちょうっと、苛めすぎてもうたみたいや」
 突然闇の中から、謎めいた言葉とともに、ふわりと大きな影が現れた。
 黒い死覇装は闇より深く、銀色の髪と白い羽織は、月の光を受けてうっすらと浮かんで見えた。
 何故今ここに現れるのか、見たこともないほどうっとりと優しい空気をまとった市丸が、それでも圧倒的な存在感をもって、音もなく歩み寄ってくる。
 まるで日番谷に呼ばれてやって来たかのような……、思いもかけぬ男の突然の登場で、酔いどれた部屋の空気が、神秘的に冴え渡ったものに、ガラリと色を変えた。
 その姿と雰囲気に、声も出せぬほど魅入られていた二人は、一瞬おいてから、ようやく仰天した声を出した。
「い、市丸隊長!」
「い、一体、」
 うろたえるふたりに、市丸は嬉しそうに笑ったまま人差し指を立てて、しいっ、と言った。
「この子の相手してくれて、おおきに。ムチャな飲み方して迷惑かけて、ゴメンな?」
 いや別に、市丸隊長に謝られても、というか、何であなたがお礼を言うんですか、などと思いながら、口をパクパクさせて二人が首を横に振ると、市丸はいっそう笑みを深くして、柔らかな動きで膝を付き、そっと日番谷を抱き上げた。
「ここのお勘定は、ボクが払っといたから。キミらも早う、帰って寝ぇや」
「は、はい」
「ありがとうございます」
 さっきはクソ野郎などと言っていたが、本人を前にしたら、そうとしか答えようもなかった。
 何よりそうとしか答えさせない雰囲気が、そこにあった。
 そしてその雰囲気の中に、なんともいえない色香が混じっているのを感じ取って、ますますふたりは赤くなって、固まった。
「ほんならな、おやすみ」
 ふわりと羽織の裾を翻して、市丸は現れた時と同じように、日番谷を抱いたまま、闇に溶けるように、消えた。
 後に残る、しっとりした残り香のような二人の霊気だけが、今の出来事が夢ではないことを告げていた。





 嗅ぎ慣れた匂いと温もり、髪を梳く優しい指の感触に、日番谷はうっすらと目を開けた。
 身体は重く、クラッと視界が歪んで見えた。
 目ェ覚めた?と、聞き覚えのある優しい声が降ってきた。
 誰の声かはすぐにわかったが、状況が理解できない。
 日番谷はもう一度目を閉じて、
「なんでお前がここにいる?」
 勢いで無理矢理飲んだ酒のせいで、気分が悪かった。
 檜佐木と阿散井を連れて、店で飲んでいたはずなのに、いつの間にかここは自分の部屋で、布団で寝ているようだった。
 隣に市丸が座って、長い手を伸ばしてそっと日番谷の髪を撫でている。
「お酒飲みすぎて、キミ、眠ってもうたんよ?」
「いや、だから、なんでお前がここにいる?」
「意地悪しすぎてもうたから、そばにいたらなあかんなあ思うて」
「…全然答えになってねえ」
 タメ息とともに、日番谷は言った。
「お前が何を言っているのか、全然わからねえ」
 市丸は、静かににっこりと笑った。
「ええんよ」
 昨日と同じ言葉だが、その色合いは、全く違っていた。
 昨日はそれでぴしゃりと撥ね付けられたが、今日のそれは包み込むように優しく、甘い響きをもっていた。
「ほんまはみんな、わかっとんねん。意地ばかり張っとるキミがあんまり憎らしゅうて、つい意地悪してもうた」
 身体が重くて、思考が鈍く、市丸のゆったりした声が、まるで夢の中のように不明瞭なまま、頭に流れ込んでくる。
 いつの間にかいつもと同じ市丸に戻っていることが、安堵するとともに、少し憎らしく思えた。
「箱」
「うん?」
「大切なものを入れてあるって言ったのに」
「うん」
「何も入ってなかったじゃねえか。ウソツキめ」
「あは」
 髪を撫でられるまま、それでも睨むようにして言った日番谷に、市丸が楽しそうに笑った。
「入っとったよ。入っとったけども、キミが開けたから、消えてもうたんや」
「いい加減にしろ、お前が大切なものを入れているなんて言いやがったから、俺がどれだけ、」
「キミの寝息やもん、あの中に入れとった、ボクの大切なもの」
「はあ?」
 思いもよらないことを言われて、日番谷はとっさに、間の抜けた声を上げてしまった。
「せやから目に見えんし、開けたら逃げてしまうから、開けたらあかんかったんや」
「…な、んだ、それ…」
 そんなバカバカしい種明かしがあるか。
 適当にもほどがある。
「キミと初めて夜を過ごした後に、あんまり嬉しくて、隣で眠るキミがあんまり可愛くて、キミの寝息が、とても甘くて愛しいものに思えたんよ」
 だがそんなくだらない話を、あんまり嬉しそうに、あんまり愛しそうに、まるで本当にそう思っているかのように、市丸がうっとりと夢を見るように言うものだから、日番谷は返す言葉をなくしてしまった。
「その時のキミの寝息。あの箱の中にそっと閉じ込めて、ずっと大切にしとったんよ」
 まさかそんな、そんなくだらないことを本気でしていたとしたならば。本当に大切にしていたならば。
「しばらくキミに会えんことになって、何かキミにあげたかったけども、ボクの大切なものは、キミ自身やもん。キミに喜んでもらえるようなものなん、何も持ってへんかったし、ほんまに大切なもんをあげるんでなければ、意味ない思うたんや」
 心がないどころか、市丸は本当に、呆れるくらい日番谷のことだけを、
「…ごめん」
 あんなに言えなかったのに、するりと言葉が、勝手に唇からこぼれ落ちていた。
「ごめん。俺、俺、…」
「ええんよ」
 いっそう甘く優しい声で、市丸は言った。
「ボクの本当に大切なものは、キミ自身やて言うたよ。大切なもん悲しませて、ボクがあかんかった。ゴメンな?」
 何もかもを許して受け入れてくれる優しい言葉が、やっぱり当たり前のように与えられた。
 いつもいつも奪われてばかりいると思っていたのに、こんなにこんなにいつもいつも与えられていたなんて。
 びっくりすぎて、呆れすぎて、返し方がわからなくて、泣けてくる。
「…市丸」
 途方に暮れて、日番谷が布団から手を出して市丸の袴を握ると、市丸の大きな手が、すぐにそれに重なった。
「ボクも明日はお休みや。ずうっとそばにおるよって、安心して、おやすみ?」
 市丸の嫌いなところが、またひとつ増えた。
 気の向くままに、泣けるほどに優しくするところ。
 まるでそれが、本物の愛みたいに思わせるところ。
 目を閉じると、やっぱり酒の酔いが、クラリと思考を鈍くした。
 これも全て、酒のせいなのかもしれない。
 こんなに無防備に甘えて安心した気分になれてしまうなんて、酒のせいとしか思えない。
 だとしたら、……どうしようもなく身体の調子は悪くなるけれども、たまには酒も悪くない。
 だって、全て酒のせいにしてしまえるから。
 結局またそんなふうに考えている自分に苦笑しながらも、今はその口実に甘えてしまうことにした。