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開けたらあかん−10

 六番隊で出されたお茶はとても良いもので、日番谷は朽木を待つしばらくの間、少し緊張していた。
 腰に下げた小さな箱が、これからしようとしていることで、日番谷を責めているように感じた。
 ごめん、と心の中で、小さく謝ってみる。
 市丸の顔が浮かんで消え、朽木の顔が浮かんで消え、見たこともない朽木の妻の顔が浮かんで消え、そして何故か、流魂街のおばあちゃんの顔が浮かんで消えた。
 こういう時、雛森や松本だったらどうするのかな、と一瞬思ったが、そもそも女の子は最初から、大切なものを見誤らないような気がした。
 しばらくして朽木が来ると、日番谷はピシリと背筋を伸ばしたまま、改めて決意を固めた。
 その表情を見て、朽木はすぐに答えを察したようだった。
「答えを保留していた、あの箱の話だが」
 それでも精一杯礼儀正しく、誠意をもって日番谷は言った。
「申し訳ないが、やはり、譲ることはできない。朽木隊長の気持ちも、奥さんの気持ちも、奥さんへの気持ちも十分わかるのだが、…俺にもこの箱は、…」
 本当に大切なものなんだ、と、やっとの思いで、日番谷は言うことができた。
 言ったとたんに重荷から解放され、すうっと楽になると同時に、とんでもない性根の曲がったことをしてしまったという後悔に囚われた。
 市丸なんかのために朽木の誠実で深い妻への思いを、踏みにじってしまったような気分になった。
 それでもこれしか日番谷には、市丸に誠意を見せる方法を思いつけなかった。
 市丸をもう一度振り向かせ、関係を修復する方法を思い付けなかったのだ。
「すまない」
 もう一度言って、日番谷は深く頭を下げた。
 朽木はずっと黙っていたが、やがて小さなタメ息をもらした。
「残念だが、いたしかたない。せめて…、せめて、兄がその箱を、大事にしてやってくれるか」
「もちろんだ」
 どうしようもない罪悪感と同時に、これで心おきなく大切に持っていられるのだと思うと、どうしようもない喜びが胸に湧いた。
 市丸に対する誠意より前に、自分がどれほどその箱を大事に思っていたのか、そこでようやく思い出した。
 今なら、今この気持ちなら、素直に市丸に謝れるかもしれない。
 謝れなかったら、朽木にもその妻にも申し訳ない。
 市丸ともう一度やり直すためにも、この罪悪感を払拭するためにも、本当の意味でこの箱を大切なものにするためにも、今度こそ、やり遂げなくてはいけない。
 六番隊を退出すると、知らず、大きな息がもれた。
 どっと疲れが出て、近くの木陰まで歩くと、腰を下ろしてぼんやりと空を見上げた。
『これは、やっぱり俺が、大切にすることにした』
 そう言ったら市丸はわかって許してくれるのではないかと思うのは、やはり甘えだろうか。
 それでもそれが日番谷の、考え得る限り精一杯の言葉だった。
 それに、市丸が話を聞いてくれそうだったら、昨日のあれは、飴玉をしゃぶらせるつもりだったわけではなかったと言おう。
 じゃあ何だと言われても答えられないが、…いや、答えられないと、まずいだろうか。
 何か、うまい言い訳はないか?
 考えながら箱を見ていた日番谷は、突然あっと思った。
(この箱、ここのところ、なんか、動かせそうじゃねえ?)
 とても開けてみたかったのに、開けたらいけないと言われていて、中の市丸の大切なものも、とてもとても気になっていたのだ。
 今このタイミングで開け方のとっかかりに気付いたことに、日番谷の胸が高鳴った。
 箱を開くことが、市丸の心を開くことのように思えた。
 ずっと暗い道を歩いてきたところへ、出口の光が見えたような気がした。
 何を考えているのかわからない市丸に、ずっと不満と不安を覚えていた。
 何を考えているのかわからない市丸に、どうしようもなく惹かれてしまうことに。
 惹かれてしまうのに、やっぱり何もわからないことに。
 市丸の大切なものとは、一体何なのか。
 それがわかったら、市丸のことも、少しわかることができるような気がした。
 開けたらいけない、つまり見てはいけないと言っていたのだから、見られたら困るものなのかもしれない。
 本当に秘密の宝物なのかもしれない。
 それとも、市丸のことだから、それを開けることによって、二人の距離が劇的に近づくような何か、魔法のものを隠しているのかもしれない。
 日番谷にこれを渡したということは、帰ってきたらふたりでこれを開けて、魔法をかけてくれようとしたのかもしれない。
 少なくとも、今までなかなか見せてくれなかった市丸の内面を、心の底で大切だと思っているものを、日番谷に託してくれていたのだ。
 皮肉な成り行きで、箱も中身も好きにしたらいいと言われている。
 今なら開けてもいいということだ。
 市丸の大切なものを、見てもいいということだ。
 動かせそうだった箱の一部を横にスライドさせると、すぐにもう一枚、壁があった。
 それ以上は開きそうもなかったため、その壁を押してみると、反対側の壁の一部がぐっと押し出されてきた。
(二重になってる…ええと、これは、…)
 箱を開けられる期待感に、胸がドキドキした。
 そこまできても、なかなか先に進まなくて四苦八苦したが、ようやく箱の底に、押したら中に押し込まれるボタンのような箇所をみつけた。
 先に壁をずらしておかないと、押し込めないようになっていたようだ。
 新しく動いたところばかりに気持ちがいって、一度いじってみて何も起こらなかった場所には気持ちが向かいにくいという盲点をついた細工だ。
 だが、一度気が付くと、後は楽だった。
 その先も簡単ではなかったが、次々と閃きがあって、次々と先に進んでいった。
 カタン、と箱の上部が軋み、とうとう蓋らしいものが開こうとしていた。
『開けたら、あかん』
 市丸の声がふっと耳に聞こえた気がしたが、ここで止めることはできなかった。
 難解なからくり箱を見事開けることができた達成感と、どうしようもなく知りたい、市丸の大切なものをとうとう見ることができる喜びが、あふれんばかりに日番谷の胸に湧いた。
 蓋を開く指が、震えた。
 こんな小さな箱に、驚くほどの細工。
 そしてこんな小さな箱の中に、市丸の大切なものが。
 日番谷は心臓の音に飲み込まれそうになりながら、ゆっくりと、箱を開いた。
 すっかりと蓋をとってしまい、中を見て、呆然とした。
 箱の中は、外側と同じような、豪華ではないが、上品な細工が施されていた。
 確かに思わず宝物をしまいたくなるような、そんな箱だった。
 だが、その中には、…
 確かに市丸は、大切なものを入れてあると言っていたのに、…






 箱の中には、何も入っていなかった。






 空っぽの箱を見て、日番谷の心も空っぽになったように、胸の高鳴りも、満たされたような思いも、どこかに消えて、なくなってしまった。


 何もない。

 何もないなんて、夢にも思わなかった。
 それは、市丸に、大切なものなど、何もないということなのだろうか…?
 それとも市丸の心を知りたいと強く思う日番谷の気持ちを、弄ばれたのだろうか…?
 大きく息を吸って吐き、日番谷は震える指で、箱の蓋を元に戻した。
 何もなかったように。
 何も見なかったように。

『開けたらあかん』

 からかうような市丸の声が、耳元で笑って通り過ぎていったように聞こえた。

 朽木の想いを振り切ってまで。



 なんて、バカなことをしてしまったのだろう。