.

開けたらあかん−9

「市丸、この箱だけど」
「うん?」
「朽木に、この箱は、朽木の亡くなった妻が、生前ずっと探していたものだって言われた」
「ふうん?」
 興味がなさそうな声。
 このままたいしたことではないように、あっさり話が進めばいい。
「…できれば、譲ってほしいと言われた」
「そう」
「…すごく、すごく大切なものみたいで、とても熱心に頼むから、俺も、その、真剣に考えてみたんだけど」
 ごく軽く答えるから、やはりそれほどこの箱に執着はないんだろうと安心して、日番谷は勢いよく続けた。
「もし、もしお前さえよければ、もとの持ち主に返してやった方がいいのかなって…」
「…そう」
 ごくあっさりと答えた市丸の手は、日番谷の肩に伸ばされかけたままそこに乗ることはなく、すうっと引いていった。
「…キミは、おねだりに来たんや?」
「えっ?」
 まるきり予想外な方向から返ってきた答えに、日番谷は戸惑って、一瞬意味がわからなかった。
 市丸はふらっと日番谷から離れて、窓辺の方へ歩いてゆき、柱にもたれて腰をおろした。
「キミの前では、どうやらボクも、ただの男なんやねえ」
 市丸が何を言おうとしているのかわからず、日番谷はその場に立ち竦んだ。
 何を言おうとしているのかはわからないが…、あっさり話が終わらなかったことだけは、わかった。
 日番谷が答えられないでいる間、市丸は首の後ろに手を当ててどこかを見たまま、しばらく何も言わなかった。
 それからぽつんと、ボクはてっきり、しばらく会えへんで、キミが淋しくて甘えてくれてるんやと思うてもうたよ、と言った。
「でも、違ったんやね。ボクのご機嫌とろうと思うただけやったんや。ボクが気ィ悪すると思うて、先に飴玉しゃぶらせたろ思うて、色々サービスしてみせただけやったんや」
「なっ…」
 違うと言いかけて、違わないことに気が付いた。
 違わないことにしないと、いけないということに。
 まさかそんな部分に突っ込まれるとは思ってもみなかったため、とっさに言い訳もなにも思いつかなかった。
 というよりも、そこだけは、日番谷が何とか守りたい部分だった。
 そうじゃないと言ってしまったら、…甘えたくて甘えたんだと、認めないといけなくなってしまう。
 反論もできないでいる日番谷に、市丸はまたしばらく黙っていたが、
「ええよ、キミの好きにしたらええ。その箱はキミにあげたんやから、あげたかったら誰にでもあげたらええよ」
 欲しかった答えだったが、感情のあまり感じられないその声に、日番谷はさっと血の気が引くのを感じた。
 修復しないと。
 このままでは、市丸との関係は、取り返しがつかないものになってしまう。
「…箱の中身」
 だが、こんな展開は予想もしていなくて、箱ではなく、そんなところで市丸が気を悪くするとは思ってもみなくて、動揺した日番谷は、どうしたらいいのかわからなくなった。
 ただ、何か言わなくてはいけない、話を進めなくてはいけないと焦って、出てきた言葉ときたら、
「お前の大切なものが入ってるんだろう?それは、お前に、」
「キミにあげる」
 途中からかぶせられた答えには、容赦がなかった。
 それはそうだろう。今のは、日番谷が悪かった。
 謝るなり、弁解するなり、何か歩み寄る言葉を言わなければならないところだったのに、先に箱の中身の話をするなんて。
「でも…」
「そうやね。たいしたことないなあ。開けたらあかん箱なん、わけのわからへん贈り物やもん。そないなもん、大事に持ち歩いとるわけないよね。中身ボクに返すために持ってきただけで、六番隊長さんにもろてもろた方が、なんぼかええなあ」
「そんなことは…」
「ええんよ」
 すっぱり言って、市丸はすっと立ち上がった。
「キミの言いたいことも、優しい気持ちも、ようわかる。キミの中の、大切な順番もな」
「…市丸、それは、」
「ええんよ」
 またも日番谷の言葉を遮るように言って、市丸は扉の前まで歩いて行った。
「箱も、中身も、キミにあげた。ボクのおうかがいなん立てんでも、キミは、キミの、好きにしたらええ」
 そこですっと扉を開けるのは、出ていけということか。
 まさかこんな形で物別れになるとは思ってもみなかった。
 なんとかわかってほしかったが、取りつく島もない市丸に、こんな複雑な気持ちを説明できる言葉など思いつかなかったし、それ以前に、正直な気持ちを伝える勇気も決心もなかった。
 こんな中途半端な覚悟で市丸に臨んでいたなんて。
 今更その甘さに気付いても、唇を噛み締める以外、今の日番谷にできることなどなかった。




 誠意をもって話せば、きっと市丸はわかってくれると思っていた。
 だが市丸に対して誠意を見せることは、これがなかなか難しいのだ。
 市丸が、いつもからかうように笑っているからもあるし、そのせいで自分の誠意を軽んじられそうに思えてしまうからもあるし、誠意と愛情が時々こんがらがって、うっかり心の底を見られそうで怖くなるからもある。
 市丸に甘えるくらいなら死んだ方がマシだと思うのに、口実さえできれば、本当はいつでもそうしたいと思っている。
 自分のそんな弱さも嫌いだし、そうさせる市丸も嫌いだった。
 でも、大切でないなんてことは、決してなかったのだ。
 大切な順番、と市丸に言われた時、息が止まるかと思った。
 今までどれほど自分が市丸を、市丸の愛情をないがしろにしてきたか、突きつけられた気がした。
 甘えていないつもりで、それこそ市丸に、市丸の愛情に、甘えていたのだ。
 これくらいで市丸は怒らないだろうと、いつも思っていた。
 これくらいで市丸は、日番谷に怒ったりしない。嫌いになったりしない。離れていったりしない。
 これまで何を言っても許されたし、何をしても許されてきたから、今回も許されるだろうと心の底で無意識に思っていた。
 だから、誠意をもって話そうと思っていたのに、実際に顔を見たら、それすらいい加減にしてしまおうとした。
 好きだなんて一言も言っていないのに、日番谷が市丸を好きであることを前提とした態度を市丸がとることを、ずっと納得いかないと思っていた。
 だが、日番谷の全てが市丸に許されていたのは、その前提があったからこそだったのだ。
 すっぽりと手の中で可愛がられていたのに、それにも気付かないほど、バカだった。
 対等になりたいと思いながら、対等な態度をとっていなかったのは、自分の方だった。
 自分が市丸に同じことをされたら、どれほど傷つくかと思ったら、たまらなくなった。
 自分にとって、市丸は何なのか。
 その答えは難しすぎて、到底解明できる日がくるとは思えないが、大切であること、大切にしなければならないことだけは、泣きたいほど今、わかった。
 だが日番谷は、ここまできてもなお、どうやって市丸との関係を回復したらいいのか、わからなかった。
 怒ってはご機嫌をとられてきたのは、いつも自分の方だったから。
 市丸を取り戻したいのに、プライドを折ることは、どうしてもできない。
 大切なもの。大切な順番。守りたいもの。
 考えていたら、ひとりで帰るその道が、とても淋しくて遠く長いものに感じた。