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大正ロマン−4

 「やめろ…っ」
「可愛えなあ、冬獅郎。ほっぺがピンク色や。食べ頃の色やね」
「…いち、」
 こんな狭い部屋に市丸と二人なんて、やっぱりなんとしても逃げるべきだった。
 ついさっき殊勝に反省していたくせに、いいも悪いも、気持ちの切り替えが恐ろしく早い男なのだ。
 だがここまできてしまうと、もう日番谷もヤメロとは言えない状態になってしまっていた。
 濃厚な口づけや肌と肌の接触は理性を弾き飛ばすような魔力を持っていて、何より生まれて初めて人の手でそこを触られて、その目的で弄られて、為すすべもなく追い詰められた。
「…ん、…っ」
「なんやえろう大人しなったなあ?気持ちええんやね?可愛えよ、冬獅郎…」
「…クソ、バカ…もう、…もう…」
「可愛え声。たまらんわぁ。ほな、ええ顔見れたし、あまり苛めてもあかんから、そろそろイかせたるな?」
「あ、んん、〜〜〜〜〜ッッ!」
 強烈すぎる快感に、頭が真っ白になった。
 身体中から力が抜け、荒く息をつく日番谷を更にしっかりと抱き締めて、市丸は胸の中にあるその髪に顔を埋めて、冬獅郎、と囁いた。
 その声のとんでもない色香に日番谷の心臓は跳ね上がり、腰に当たる固いものの存在を強く意識した。
「バカ、バカ、冗談じゃねえ、絶対ヤダ、したら殺す、嫌いになる、お前とは別れる…!」
「…わかっとるから、大人ししとき!」
 必死で暴れてその腕から逃げようとした日番谷に、市丸は突然鋭い声で言って、抱き締める腕に、恐ろしい力をかけてきた。
(痛ッ…)
 そのまま締め殺されるのではないかというほどのすごい力は一瞬で引き、いつものような、壊れやすい大事なものを扱うような力加減でくるんでくるが、絶対に逃すつもりのない、隙のない抱き締め方だった。
 市丸の荒い息が耳元で聞こえ、大きな強い腕が微かに震えているのを見て、さすがの日番谷も、市丸がどういう状態なのか、理解した。
 ゾクゾクするほどの欲望の波がオーラのように押し寄せてきて、敏感になっている日番谷の肌は、その熱気だけで吹き飛ばされそうになった。
 その凄まじさに、少しでも動いたら緊張の糸を切ってしまいそうで、市丸の忍耐を粉々にしてしまいそうで、思わず息を詰め、微動もできなくなってしまう。
 どうしたらいいのかわからないまま固まって、市丸が落ち着くのをひたすら待つ。
 心臓がドキドキしすぎて、破裂してしまいそうだった。
 そうしながらも、市丸がどうにか堪え切りますようにと神様に祈ってしまっている自分に気が付いて、市丸に対して申し訳ないような気持ちになってしまった。
 そして、その反動でか、自分のためにこれほど我慢してくれて、大切にしてくれようとしている気持ちを痛いほど感じて、胸が熱くなる。
 市丸の大きな身体が、包んでくる腕が、愛そのものに感じられて、そのかけがえのなさに、身体が震えるほどの愛しさが込み上げてきた。
「…ええんや、ええんや、明日があるし。ここは場所があかんだけで、日番谷はんかて、その気やないこともない。ボクへの愛は、本物や。慌てないで、大事にする、大事にする。明日はボクの誕生日やもん。日番谷はんは、きっと応えてくれはる。今日のところは、我慢、我慢…」
(ええええええええ〜〜〜!)
 だが、小さな声でブツブツ自分に言い聞かせている市丸のその言葉に、日番谷はぶっ飛びそうになった。
(き、聞こえてる、聞こえてるから!)
 もしかしたらそれすら計算のうちで、日番谷に覚悟を決めさせようとしているのかもしれない。
 今日この場では我慢する代わりに、明日は遠慮なくいただくぞと、予告しているのかもしれない。
 だがもしかしたら1%くらいは、ただそうやって自分に言い聞かせて堪えようとしているだけという可能性もあって、今とんでもない我慢を強いている状態だけに、迂闊に突っ込めない。
(あああああぁぁ、神様!)
 市丸のことは、嫌いではない。将来的に、いつかそういう関係になるかもしれないことも、まあ、あるかもしれないとは思っている。
 だが、今日や明日ではないつもりでいた。
 でももしかしたら、市丸が子供の日番谷の事情を考えてくれようとしたように、日番谷も大人の市丸の事情も考えてやらないといけないのかもしれない…。
(ハッキリ断ってるハズなのに、なんでこんなことになってんだ〜!)
 本気でわめきたくなった時、市丸の腕から、ふいっと力が抜けた。
 日番谷は反射的にその腕から逃れ、壁にぴったりと背中をつけてから、思わず舌打ちをした。
 部屋から逃げるチャンスだったのに、市丸がおそらく意図的に力を一方向に抜いたので、ついその方向に逃げてしまった。
「痛くしてゴメンな」
 なんとか乗り切ったとはいえ、まだ強く未練の残るのをまざまざと感じる気だるさで、市丸は髪をかき上げた。
 そんなふうにじっとこちらを見られると、あまりにも空間が狭くて、空気が少なくて、叫び出したくなってしまう。
 答えられないまま息を飲むように市丸を睨み据えている日番谷に、
「やっぱりあかんな、この部屋は。このままやと、ボクの理性はもちそうにないわ」
 市丸はため息とともに言ったが、そんなことは最初から気が付いてもよさそうなものだ。
 日番谷が不満そうに睨みつけると、市丸はその様子をじっと見てから、ボクが怖い?と聞いてきた。
「怖いわけあるか」
「なら、そないぴったり壁に張り付かんでもええやん」
「…怖くはねえけど、…お前、信用できねえもん」
 きっぱりと言ってやると、意地悪やなあ、冬獅郎は、とわざとらしいほど項垂れてくれた。
「せやけど、冬獅郎が悪いんやで?可愛すぎるもん」
「何を!」
「…なあ、冬獅郎…」
 甘えるように言いながらにじり寄ってくる市丸に、日番谷は思わず本気で、
「ああもう、来るな〜!」
「意地悪言わんで〜。ちゃんと我慢したやん〜」
 狭い部屋で後ろは壁。目の前には、大きな身体。
 仮にも恋人のはずなのだが、本当の本気でやめてほしい迫り方だった。
「来るな、来るなったら、あっちいけ、シッシッ!」
「シッシッはないやろ、ちょっと近くに寄りたいだけやん。可愛えボクの冬獅郎を、抱きしめたいだけやん」
 こんなに嫌がって見せているのに、市丸は平気で追い詰めてくる。
 逃げる隙も与えないその迫り方は、にこやかにしているが、本当に逃がす気がないやり方だった。
(…調子に乗りやがって…)
 一瞬凍らせてやろうかと思ったが、やめた。
「…大丈夫、大丈夫。市丸は本気で俺のこと、好きだから。俺が嫌がること、絶対しねえから。明日も手なんか出さねえで、絶対ェ我慢してくれるし。…やっぱ年上だもんな。それくらいの余裕、見せてくれるに決まってるよな」
 自分に言い聞かせるための独り言のように、市丸の真似をして言ってやると、市丸は複雑な顔をして日番谷を見た。
 だが、してやったと思ったのに、市丸はすぐに蛇のような笑いを浮かべて、
「そうやね、キミの嫌がることは絶対せえへんて約束するから、今からボクの部屋で二人で、飲み直そう?」
「……」
 自分の言葉に責任をもつキャラかどうかという点で、もしかしたら失敗したかもしれない。
 この瞬間にすでに、その言葉はかなり怪しい。
「どないしたん?ボクは少しでも長くキミと一緒にいたいだけやで?朝起きて一番にキミにお誕生日おめでとう言うてもらうんが、ボクの夢なんや〜vv」
 そんな言葉も絶対に信用できない市丸と付き合って、大人になるまで最後の一線を守り続ける…。それは、この世で一番実現が難しいことのひとつかもしれなかった。


終わり