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WHITE SNOW LOVE−8

 どこかから漂ってくるコーヒーの香りに、日番谷はふわふわしたまどろみの中から浮かび上がった。
 今までこの家では、しなかった匂い。
 日番谷自身も飲まないし、祖母は専ら紅茶を飲んでいたから。
 家の中のどこかから生活音が聞こえてくるのも、久しくないことだった。
 久しくなかった…けれども、この頃は馴染みの音となりつつある音。
 家の中に、自分以外の誰かがいる音。
 やがて部屋のドアが開いて、閉まる音がした。
 誰かが入ってくると同時に、コーヒーの香りが強くなる。
「冬獅郎クン?…まだ寝てはるのかな?疲れてもうたんやね、いつもはもっと早起きさんやのに」
 優しい声がして、何かがテーブルの上に置かれた音がした。
 続いて誰かが、遠慮なく布団の中に潜り込んでくる。
「…んっ…」
 部屋には暖房がかかっているが、布団の中の方が暖かいため、誰かとともに、うっすらと冷えた空気が入ってきて、反射的にみじろいだ日番谷の身体を、大きな身体がしっかりと抱き締めた。
「ボクの冬獅郎クン。そろそろ朝やけども、今日はもう少し、こうしていてもええなぁ?」
 とてもとても嬉しそうな、幸せそうな甘い甘い声と同時に、しっとりと柔らかいものが顔に触れてきた。
 二回、三回、…何回も、何回も。
 そろそろ日番谷は目が覚めていたが、こっぱずかしくて、眠ったフリを決め込んでいた。
(眠ってる奴相手に、何勝手に好き放題キスしまくってんだ、この野郎!)
 今自分を抱き締めている男が誰かを思い出して、日番谷はますます恥ずかしくなると同時に、胸に暖かいものが広がるのも感じていた。
 市丸は、最初から変わった男だった。
 まず、変な言葉をしゃべる。
 関西弁くらい日番谷も知っていたが、実際にそれを話す相手は身近にいなかったし、それをこんなに穏やかで優しく、しっとりと包み込むように話す相手に初めて会った。
 そしてその不思議な言葉を操って、市丸が言う言葉はなんでも新鮮で楽しく、魅力的なことのように聞こえるから、また不思議だった。
 そして市丸はまだ若くて頭も良く、見た目だって悪くないし、女の子にもモテるみたいだったから、向こうの世界で楽しいことなんか山のようにあるだろうに、帰りたいと言わないどころか、雪しかないこんな世界で、日番谷と暮らしたいと言う。
 雪しかないのに、びっくりするような写真を撮ってきて、そのセンスの良さや腕は、写真をよく知らない日番谷にもわかった。
 そんな腕がありながら、下界でプロとして活躍するだけが写真の道ではないと言う。
 そんな調子で、何もないと日番谷が思っていたところから何かをみつけては、いつも日番谷を楽しませ、気を引こうとしてくる。いつ見ても、笑っている。いつも、日番谷を見ている。
 何でもない会話も市丸とするととても楽しくて、何でもできて色んなことを手伝ってくれるから、ポン太の怪我が治っても、つい追い出しそびれてしまった。
 毎週来る配達便の阿散井は、いつまで経っても荷物が二人分で、毎回のようにフィルムを現像に出し、市丸がいっこうに帰る気配がないことを、気にしていた。
 阿散井も、日番谷が誰かと暮らすことに慣れ、そしてまたひとりぼっちにされることを心配してくれているのだ。
 向こうの世界で生きてきた者が、この世界に耐えられることなど、まずなかったから。特に、都会から来た若者などは。
 あいつ、いつまで日番谷サンとこご厄介になってるつもりなんすかね?このまま一緒に暮らすんスか?
 阿散井が来ると、いつも市丸はどこにいても必ず現れて、荷物を運び入れる手伝いをしてくれていたが、その日はたまたま来るのが遅れて、その隙にチラリと阿散井が聞いてきた。
「じき帰るさ。…近いうちに、飽きて、きっと」
 そう言っている間にも、市丸のためにコーヒー豆を買ってやり、着替えを何着か用意してやり、大きなスリッパを買って、大きな手袋も買った。
 市丸が撮った写真を整理するための、アルバムも買った。
 市丸が読むと言った雑誌を毎週買ってやり、ひとりでいた時には見なかった番組に、テレビのチャンネルを合わせることもあった。
 市丸は居候のくせに沢山食べたから、いつも食材はたっぷり買わないといけないし、毎食作る量も増えて大変だったが、気にならなかった。
 日番谷は稼ぎの割に生活が質素だったから、市丸ひとりが増えたって、困ることはなかったこともある。
 ポン太の事件で追い出すタイミングを失ってから、あっという間に市丸は日番谷の生活の中に溶け込んできた。
 冷たくしても冷たくしても市丸は全く平気で手ごたえがなく、そうしている間にいつの間にか日番谷の心の中にまで、自分の居場所を作ってしまう。
 いつの間にか市丸がいなくなったら淋しいと思うようになっていて、日番谷は怖くなった。
 市丸は、いつか必ず向こうの世界に帰るのだ。
 いつか必ず、向こうの世界での楽しい暮らしを思い出す。
 市丸と自分とでは、性格も、好みも、見ているものも、住むべき世界も、あまりにも何もかも、違いすぎる。
 こんな雪の中の生活など、きっと3日で飽きると思ったのに、市丸は飽きなかった。きっと一週間で目が覚めるだろうと思ったが、市丸の目は覚めなかった。きっと一ヶ月もしたら帰ると言い出すだろうと思ったが、市丸は言わなかった。
 市丸は日番谷を好きだと言う。
 ここでふたりで暮らしたいと、ずっと言い続けている。
 笑みが、どんどん優しくなる。
 距離が、どんどん近くなる。
 その温もりを、覚えてしまう。
 それをあんなに恐れていたのに、いざ市丸が本当に帰ってしまうと思ったら、取り乱してしまった。
 取り乱した自分に、腹が立った。
 市丸にすがるつもりはない。
 何もかも自分の意思で、自分の責任でしたことだ。
 だが果たしてこんな生活が、いつまで続くのか。
 思う度日番谷は、ただ途方に暮れてしまうのだった。
 
 

 午前中のひと仕事を終えると、昼食の準備をしにゆく日番谷の後を追って、市丸もキッチンへ入った。
「たまごとベーコン取ってくれ。あと、サラダの用意しろ」
「うん」
 答えながらも市丸は、まっすぐ日番谷の後ろまで行ってそこに膝をつき、ぎゅっと抱き締めた。
「おい」
「ああ、もう、可愛えなあ、キミ。キミのこと大好きやて気持ち隠さんでもええなん、幸せや、ボク」
 うっとりと言うと、日番谷は肘で市丸をこづきながら、
「…まあ、もともとそれほど隠せてもなかったけど」
「そうなん。気付いてはったんか〜。小悪魔ちゃんやな、キミ」
 抱き締めると日番谷はとってもいい匂いがして、市丸はその背に頬をすり寄せるようにして、大きく息を吸い込んだ。
「誰が小悪魔だ。くっついてねえで、早く仕度しろよ」
「ようやく想いが通じ合うたんやもん。一日中くっついていたいやん。ずうっと我慢しとったんよ?な、これからごはんはボクのお膝に座って食べることにしよ?」
「アホか。食いづれえよ。とにかく離れろ。メシの用意ができねえ。手伝う気がねえなら、あっち行ってろ」
 そんなことを冷たく言われても、やっぱり市丸は平気だった。
「ちゅーしてくれたら、離れる」
「子供か、テメエ」
「いや、むしろ大人やろ」
 しつこく背中にくっついてスリスリしていると、日番谷は急に振り向いて、突然チュ、と額にキスをしてきた。
「わっ…マジで!!??」
「したぞ。離れろ」
 ぐいっと押されて引き剥がされても、市丸は驚きと喜びのあまり、呆然と日番谷を見るばかりだった。
「ほんま子悪魔ちゃんや。口やなくておでこにするとこなん、めっちゃ小悪魔ちゃんや。ああ、どないしよう。胸が張り裂けそう」
「うるせえぞ、お前。勝手に張り裂けてろ」
 あんな情熱的な一夜があっても、日番谷は相変らず、クールだった。
 市丸はそのことでもうこんなに日番谷に夢中なのに、日番谷の態度は、昨日となんら変わりがない。
 いや、変わりなく見えるだけなのか。
 日番谷がベーコンと溶きたまごをフライパンに落とすの見て、市丸は中華返しを取って手を伸ばし、ちょちょっとたまごをハート型に整えた。
「何やってんだ、お前!…器用だな」
 怒りながらも感心したように、日番谷がフライパンを覗き込む。
「何型にも整えたるよ。リクエストあったら言うて♪」
「じゃあ、ポン太の形にしろ」
「ト、トナカイは難しいで!」
 それでもなんとか鹿の顔のような雰囲気にして、市丸は面目を保ったが、
「あとはこれを無事皿に移すのが問題やな」
 市丸が言うそばから、日番谷は無造作にフライパンを持ち上げ、さっさと皿に移してしまう。
「うおっ、そない無造作に!…ってキミも器用やな」
 それほど慎重にやったようにも見えないのに、とても上手にそのまま皿に移した日番谷に、今度は市丸の方が感心してしまう。
「思い切りが大切だ。失敗したら失敗したで、仕方ない」
「男前や〜」
 こんなに可愛い顔をしているが、日番谷はとても勇敢で、度胸がある。しかも聡明で、本当に何でもできてしまうから、市丸がここで特に役に立つことと言ったら、力仕事と、高いところにある物を取ることくらいなのが残念だった。
 もっともっと、頼ってほしいのに。
(ま、少しずつやな)
 信用というものを築くのには、とにかく時間が必要なのだ。
 小さなことを積み重ねてゆくことが大切なのだ。
「サラダはひとつの器でええよね?ふたりでひとつの器をつつくのがええよね?」
「早い者勝ちには負けねえぞ。テメエ、口がデカい割には食うの遅ぇし」
「キミの料理を味わっとるだけやん〜!早い者勝ちて何!ボクの分まで食べるつもりなん!」
「ひとつの器で食うっていうのは、そういうことだ」
「ちゃうよ、全然ちゃうよ、特別な仲てことやー!」
「じゃあ、分けろ」
「ええー!ボクら特別な仲ちゃうの??!!」
 言葉遊びでそうは言うが、日番谷がどうやら照れているらしいことは、なんとなくわかっていた。
 こんな愛情表現などされたこともなくて、どうやって対処していいのかわからないのだろう。
 そう思ったらますます可愛くて、際限なく愛を注ぎ込んでやりたくなる。こんな可愛い子が自分の恋人になったと思ったら、嬉しすぎてまた顔がにやけてきてしまう。
 窓の外では雪が降りしきっているが、頑丈なログハウスの中は暖かく、暖炉の前などはとてもロマンチックだ。
 日番谷への想いを持て余していた時は同時に地獄でもあったが、今は天国にいるようだった。
 雪かきも、ポン太の世話も、日番谷との暮らしの中に組み込まれているというだけで、全く苦痛に感じなかった。
「な、冬獅郎クン、今晩は一緒に映画観ような?キミはボクのお膝で観るんよ?」
「なんでそう膝に乗せたがるんだ。子供扱いすんな」
「ええやんか。な、今度お揃いの部屋着買おう?玄関マットも、ハート型のにしよう?」
「お前な〜」
 他の料理も皿に移し終わると、日番谷は呆れたように市丸を睨み上げてから、タメ息をつくように、
「…そんなに最初からエンジン全開にしてっと、すぐに疲れちまうぞ…」
「え?」
 いつものようにごくクールに、そう言って淡々と料理をテーブルへ運んでゆく日番谷の後ろ姿を見て、市丸は突然、理解した。
 日番谷と結ばれて、舞い上がって、すっかり有頂天になっているのは、市丸だけなのだ。
 日番谷も、市丸を好きだと思ってくれているのは本当で、こういう関係になれたことを嬉しく思ってくれていないわけではないのだろうが、根本的に、日番谷は市丸を、市丸との未来を、まるで信用していない。
 いつ市丸が日番谷の前からいなくなっても、耐えられるように常に心の準備をしているように感じる。
 そう気が付いたとたん、市丸の胸が、ぐうっと苦しくなった。
 この子はどれだけの間、そんな孤独にひとりで耐えてきたのだろうと思った。
 与えることはしても、与えられることは何も望まず、これまで生きてきたのだろう。
 拾ってくれたおばあちゃんに一生を捧げ、彼女が亡くなった今、その先の長い人生を、ポン太とふたりで生きてゆく覚悟なのだ。
 ポン太の寿命は知らないが。
「全開やないで。まだまだ5%くらいやで?」
「どんだけだ、それ」
 軽口だと思ったのだろう。こちらもごく素っ気なく、日番谷は笑いもせずに答えた。


 その日から市丸は、ずっと考えた。
 日番谷の様子を見る限り、身体をつなげることは、とりあえず市丸の心と身体を安定させはしたが、ふたりの絆を確固たるものにしたとは、到底言えなかった。
 焦ることではないとは思っていたが、日番谷にはもっと、確かだと少なくとも彼が思えるような保証のようなものが必要なのではないかと思った。
 例えば市丸が、自分の心臓を日番谷に捧げるような。
 全てを捨てて日番谷と生きる決意だということを、日番谷が信じることができるような、証のようなものが。
(まあ、ボクもあかんよな。冬獅郎クンから見たら、軽くてええ加減で、口だけ達者な、調子だけええ男みたいに見えるんやろうな…)
 まあ、少しはそうでない部分も認めてくれたから、ここまで許してくれているのだろうが。
 それでも市丸は、生まれて初めて、誰かの人生の中に入り込みたいと思ったのだ。
 誰かに縛られることがこれほど甘美に感じるのも、生まれて初めてなのだ。
(なんかええもん、ないやろか。なんかあの子に捧げられるような、形のあるもん。…言うてもボク、あの子のヒモみたいな状態やし。…あの子の写真撮らせてくれたら、わかってくれるような写真撮れるかもしれへんのやけど。それ以外なん、この身体以外あの子にあげられるものなん思い付かへん…)
 長い髪があれば、切って捧げるものになるのかもしれない。身体に刺青で彼の名前でも彫ったら、その身を捧げることになるかもしれない。
(せやけどそないなもん、あの子が喜ぶとも思われへんし…)
 日番谷は、その小さな身体と大きな心の全部で、市丸の全てを受け入れてくれた。
 市丸だって、心と身体の全部で日番谷に愛を誓っていることを、心の底から彼にわかって欲しい。
 だが、そのために今市丸が彼に与えられるものは、すでにほとんど捧げているのだ。
 それでも届かないというならば、届くまで、届く方法を考えるしかないのだ。