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WHITE SNOW LOVE−1

  ごうごうと唸りを上げて吹雪く山の中で、仲間も方角も見失った市丸は、低く舌打ちをした。
「ああ、あかん。これは、あかん」
 あまり山にも慣れていなかった市丸は、2m先も見えないような吹雪に会うのは初めてで、なんとかビバークできそうな場所を、必死で探していた。
 これほどのブリザードに耐えられそうな重装備はしていなかったし、こんなところで遭難したら、本当に死んでしまう。
 市丸は山の写真を撮りにきただけで、登山にそれほど慣れているわけではない。
 だが、どうしても雪山の写真を撮りたくて、大学の山岳部の知り合いに頼んで連れて来てもらったのだ。
 ほとんど初心者に近かったから、雪山の山荘まで行って一泊して帰るだけの、単純なルートにしたのに、あっという間に変わる山の天気は恐ろしい。
 一瞬のホワイトアウトで視界を失った市丸は、足場を踏み外して崖を滑り落ち、そのまま完全に自分がどこにいるのかもわからなくなった。
 視界は、ほぼないと言ってもいい。
 下手に動くと本当に遭難するとわかっていたが、なんとか吹雪をやり過ごせる場所を探すうち、もう一度襲ってきた激しいブリザードに巻かれ、雪の中に倒れこんだ。
「うわっ!」
 反射的に出した両腕は、その先にあるはずの地面を捉えることはなく、市丸は雪の塊とともに、どこかへ果てしなく落ちていった。
(マジで、遭難してまうやんか〜!)
 ボスッと、雪の中深くに落ちたのはわかった。
 早く脱出しないと、本当に死ぬ、と思ったことも覚えている。
 だが、凍えきった手足は思うように動かず、落ちる途中でクラッと空間が歪むような、眩暈のようなものを感じて意識は半ば朦朧としていた。
 もがいても身体を起こすこともできず、自分の上にどんどん新しい雪が積もってゆくのを感じ、このままここで死んだら、死体も発見されずに終わるのかも…などと不吉なことを考えていた。
(ああ、ボクまだ人生のめっちゃええ時なんに。恋もしてへんのに。こないなことやったら、山なん登らんで、女の子とぱーっと遊びに行けば良かった…)
 死ぬ間際など、本当にくだらないことを考えてしまうものだ。
 凍えた意識が白く霞んでゆく中で、市丸はその時、きゅっと雪を踏みしめるような音を近くで聞いたような気がした。
「…にんげんだ!」
 続いて聞いたこともないような可愛らしい声がして、誰かが自分を助けてくれようとしている気配がする。
 その後の記憶は、夢なのか、現実なのか、わからない。
 市丸は真っ白い天使に助けられ、ふわりと空を飛んでいた。
(ああ、ボク、天国行くんやろか…)
 自分の過去の行いを考えると、天国に行けるほどいいことをしたとも思えないが、自分を連れてゆく相手が天使だから、きっと天国なのだと思った。
 それに、空を飛んでいる。
 きれいな音が聞こえている。
 可愛い可愛い、天使がいる………




 市丸が目を覚ますと、柔らかで暖かな布団の中だった。
 空気も暖められていて、肌を刺すような冷気はない。
「…天国?」
 目を開けて辺りを見回すと、そこはログハウスのようなところで、メルヘンチックな内装の施された可愛らしい部屋だった。
 部屋の中は暖かいが、窓の外にはしっかりと積もった雪が見える。
「目が覚めたか」
 身体を起こそうとして身じろぐと、布団の中から、可愛い声がした。
「えっ…」
 驚く間もなく、胸の中から温かな生き物がさっと飛び出していき、ベッドの横に置いてあった椅子の上から服を掴むと、白い身体にふわりと羽織る。
「ええっ…!」
「食い物用意してくるから、待ってろ」
 言い残して、小さな身体は素早く部屋を出て行った。
「い…今、天使が…」
 まだクラクラするから、これも夢なのだろうか。
 何がなんだかわからずに、市丸は呆然と、閉まった扉をみつめた。
 少年だった。
 真っ白で、眩しいほどきれいな身体が、一瞬だけ見えて、去っていった。
 ハッとするほど美しい、翠色の大きな目をしていた。
 夢の中で見た天使だ。
 少年が布団から飛び出したら、温かなぬくもりが逃げていったように感じたから、恐らくあの少年は市丸が目覚めるまで、一緒に寝ていてくれたのだ…
 そこまで気が付いてハッと見ると、自分が今まで着ていたはずの服は、壁にかけてあった。
 布団の中で確認してみるが、どうやら自分は素っ裸だ。
「う、うわ…」
 あの少年も、下着はつけていたが、それ以外は、裸だった。
 徐々に思い出してくるにつけ、あの温もりや感触があの少年の肌だったと思うと、勝手に頬が熱くなってくる。
(…あない綺麗な子、初めて見る…何者なんや、あの子)
 身体はほんの少年くらいのサイズだったし、声も少年のものだったが、喋り方とか目つきや雰囲気は、大人みたいだった。
 本当にまだ夢の中にいるようで、ぼんやりしていると、扉が開き、シチューの皿とショールを持った少年が再び現れた。
「具合はどうだ?」
「あっ、はあ、おかげさまで、なんとか」
 見れば見るほど、少年は本当に妖精みたいだった。
 美しい銀色の髪に真っ白い肌、宝石のような翠の目をしているから、妖精だったら雪の精なのかもしれない。
 そんな少年がまっすぐ自分を見ながら近付いてくるから、ドキドキしすぎて間抜けな答えをしてしまった。
 少年はサイドテーブルに持って来たシチューの皿を置くと、「食欲あるか?」と聞いてきた。
「もちろん」
「じゃあ、とりあえず、これ羽織れよ。起きれそうか?」
「大丈夫やと思う」
 市丸が少し身体を起こそうとすると、少年はすかさずベッドに半分乗り上がり、肩にショールを掛けてくれた。
(近!)
 その急接近に鼓動は跳ね上がり、もしやと思って起き上がるのにわざともたついていると、少年は小さな可愛らしい腕を伸ばして、介助してくれた。
(う、うわわ、可愛え手…ええ匂いがする…)
 雪の中で遭難しかけたことよりも、少年のチャームで倒れそうだ。
 このまま少年の胸に倒れ込みたい衝動をなんとか抑え、上体を起こすと、少年は今度はベッドの下に置いてあった市丸の荷物を開いて、「お前の荷物、勝手に見させてもらったけど。着替え、これだけか?」と聞いてきた。
「うん、それしか持ってきてへん。…荷物、無事やったんや。カメラ、ある?」
「カメラ?ああ、入ってたぞ。着替えに包まれてたから、無事だ」
「ちょっと見せて?」
 市丸はカメラを受け取ると、ファインダーを覗き込み、動作を確認してみた。
「うん、無事や。良かった」
 こんな目に会う前に、いい写真をたくさん撮ったのだ。
 そうでなくても大事なカメラを失ったら、残念すぎる。
 写真は趣味だが、カメラは結構いいものを使っているのだ。
「それよりお前、早く服着ろよ」
 急かすように少年に言われたが、着替えといっても一泊の予定だったから、軽いアンダーウエアと下着だけだ。
 とりあえず市丸が着込むと、日番谷はそれを見て、
「寝てる間はそれでいいと思うけど、起きれるなら、俺、お前が着れそうな服持ってくる。お前の着てた服は、まだ乾いてないし」
「おおきに…」
 市丸の礼に、出て行きかけた少年は、チラッとだけ振り向いた。
 そしてすぐ出て行ったが、そのチラッで、またも市丸の心拍数は上がっていた。
「あ…なんやろう。夢なら覚めないで。天国なんやったら、神様ありがとう」
 年の頃はいくつくらいなのだろうか。
 天使のように美しい姿かたちはしているけれども、少年の顔にあどけなさとか無邪気さといった、子供特有のものはなくて、代わりに知性や理性といった、大人のような色がその目にはあった。
 笑顔はちらとも見せず、どちらかというと不機嫌そうな表情で、目付きもあまり良いとは言えない感じだったが、そのアンバランスさが、市丸には不思議な魅力に感じた。
 そんな年端もいかない少年に、なんともいえない色気のようなものを感じてしまったのも、子供とは思えないそんな知性や雰囲気のせいだろう。
 あと、言葉遣いも決してよくはないのに、どこか品のようなものを感じるせいもある。
 キラキラ眩しいほどの姿に、どこか憂いを帯びた表情。
 目の前で突然消えてしまうのではないかと心配になるほど、この世の存在とは思えない、天使…という言葉が違うなら、妖精と言いたくなるような少年だった。
 市丸が呆けながらシチューを平らげた頃、ようやく少年がスウェットの上下のようなものを持って戻ってきた。
「これなら着れるんじゃないか?もともと、ばあちゃんと俺のふたり暮らしだったから、お前の着れそうなサイズの服は、あんまりないんだ」
「十分や。…ところで、ここはどこなんやろう。キミがボクのこと、助けてくれたんよね?」
 この少年のことを色々聞きたくてたまらなかったが、努めて失礼でないよう、様子を窺いながら聞いてみる。
「お前、向こうから、落っこちてきたんだ。俺は偶然、そこを通りかかったから」
「向こう…?」
 市丸が聞くと、少年は「余計なことを言った」とでも言うように、目を逸らしてしまう。
「キミがひとりで、大きなボクをここまで運んでくれたん?大変やったやろう?よう運べたね?」
「そりがあるんだ。ここは雪が深いから、荷物を運ぶ時は、自分が移動する時も、たいていそりを使うんだ」
「そのそりは、空を飛ぶの?」
「飛ぶわけねえだろう」
 即座に答えられて、市丸は首をひねった。
 ではあれは、やっぱり夢だったのだ。
 もちろん、考えなくても空を飛ぶなんて夢に決まっているのだが。
「…さっき、おばあちゃんと二人暮らしやった、って過去形で言わはったけども、おばあちゃんは、今はいてへんの?」
「…余計な詮索してねえで、もう寝ろよ。夕べはお前、生死の境をさまよってたんだから。元気になるまでは、おいてやる。回復したら、さっさと帰れ」
 冷たく言われて、市丸は心底がっかりすると同時に、そう簡単に追い出されてたまるか、と思った。
「堪忍な。キミみたいな子が、ひとりで暮らしてはるんかなあ思うたものやから。助けてくれはって、ほんまにおおきに。キミは命の恩人や。ボクは市丸ギン。なんやお礼させて」
「いらねえ」
 自分が名乗ったのだから、当然少年も名乗ってくれるだろうと思ったのに、冷たく返されただけだった。
 仕方なく、
「キミは、お名前なんていわはるの?」
と聞くと、少年は少しためらうが、すぐに胸を張って、
「日番谷冬獅郎だ」
「冬獅郎クン。かっこええお名前やね?」
「名前で呼ぶな、馴れ馴れしい」
「ボクのことは名前で呼んでな?」
「誰が呼ぶか。さあ、おしゃべりはこのくらいにして、もう寝ろ」
 素っ気なく言って日番谷は毛布を置くと、空になった皿を取り、部屋を出ていってしまった。
(…冬獅郎クンか…)
 日番谷が部屋を出ていってしまうと、どっと疲れが戻ってきて、市丸はおとなしく横になり、暖かな布団をかぶった。
 もう自分は死んでしまうのかと思ったが、まさかこんな夢のような展開になるなんて。
 いや、本当は何が起こってここがどこなのか、彼は何者なのか、自分はこれからどうなるのか、全くといっていいほどわかっていないのだが、あの少年と出会えたことが、奇跡のような幸運に思えて仕方がなかった。
(…なんとかして、元気になってもここにいさせてもらう方法考えんとあかんな…)
 生死の境をさまよっていたと日番谷は言ったが、実際にはそれほど深刻な状態でもなく、自分はそれほどかからず回復するだろうと思えた。
 せっかくここにいさせてもらっても、ずっとベッドで寝ているだけでは何にもならないし、実際何か、日番谷にお礼をしたい。
 市丸はときめくような幸せな気持ちになりながら、うとうとと眠りについた。