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ただ今外出中です−5

 窓の外に見える空は、まだ暗く、朝までしばらくあるようだった。
 市丸が着衣を整えていると、日番谷は気だるげに半身を起こして、
「…市丸、これからどこへ行くつもりなんだ?」
 市丸の様子をぼんやりと眺めながら、日番谷は静かに聞いた。
 ひどく大人びたその表情は、理不尽な仕打ちも全て許して受け入れるような、本当に大人の顔だった。
「それくらい、聞いてもいいだろう?」
「そうやね」
 じっと見ていると、口付けずにはいられない。
 市丸は顔を寄せ、ちゅっとキスをしてから、
「ボクは朝までに、藍染はんの鏡の中に行かなあかんねん」
「藍染のところに?」
「藍染はんのところに行く約束で、プレートから解放してもろうたんや」
「…」
「藍染はんは、明日また別の人のところへ行くことに決まっとるんやって。そうやってあちこち旅して回っとるらしいわ。その旅に、ボクについてきて欲しいゆうてはった。ついて来るんやったら、ボクの望みを叶えてくれるって」
「…そうまでして、プレートから解放されたかったのか?」
「キミのお顔が見たかったんよ」
「…」
 呆れられるかと思ったが、日番谷は少し悲しそうな顔をしただけだった。
「…で、藍染のところに戻らなかったら、どうなるんだ?」
「今のこの身体は、ボクのもんもキミのもんもかりそめやから、朝日浴びると同時に灰になって消えてまうんやって」
「…そうか」
「ゴメンな。せやけどキミは、ボクが藍染はんのところに戻ったら、そのまま人間になる魔法かけてくれはるって。それとも、またプレートに戻してもいいし、別のものに魂を入れてもいいって。キミは、どないになりたい?」
「…人間になったら、鏡の中のお前の姿は見えなくなるし、声も聞こえなくなるな?」
「そうやね」
「でも、いいよ。人間にしてもらう。そんで、藍染の野郎、ブチ割ってやる」
「おお、怖。それやったら、ボクも一緒に割れてまう」
「当然だ」
 ジロリと睨まれて、市丸はしゅんと身をすくめて、窺うように日番谷を見た。
「怒ってはるん?」
「別に。俺も解放されたいだけだ」
「怒ってはるんやね?」
「くどいな」
 素っ気なく言って、日番谷は脱ぎ捨てられた服に手を伸ばした。
「…市丸」
「なに?」
 日番谷は市丸を振り返り、澄んだ瞳でじっと見上げてから、そっと差し出すように、顎を上げた。
 キスして、という声が聞こえたように思って、市丸は吸い寄せられるように近付いて、唇を寄せようとした。
「…っ!」
 伸ばした腕を、取られた。
 日番谷の身体がすっと脇をかすめて背後へすり抜けると同時に手首と肘をひねるように押さえ込まれて、あっと思った時には床に捻じ伏せられていた。
「ひ、日番谷はん?!」
 まさか、こんな小さな身体にこうも簡単に押さえ込まれるとは。
 大人びた表情に、完全に油断していた。
「いいザマだ」
 ギリリと市丸の腕を捻り上げ、容赦なく背中の中心を膝で踏み付けながら、日番谷は楽しそうに笑った。
「誰が藍染のもとに逃がしてなんかやるもんか。お前はこのまま、ここで灰にしてやる」
「ひ、日番谷はん、そないなことしたら、キミも一緒に灰になるんやで?!」
「仕方ねえ。ふたりでひとつだからな」
 苦しい姿勢で振り返って見ると、日番谷は恐れる様子もなく、悠然と見下ろしていた。
 そのあまりにも毅然とした様子に圧倒されて、市丸は呆然と日番谷を見上げた。
「藍染が怖いか。怖くねえよ。お前が戻らなかったのは、お前のせいじゃなくて、俺が戻らせなかったからだ。言い訳立つだろ」
「そないなこと…」
 どうでもええのに。
 もちろん、どうでもいいだろう。言い訳をするチャンスなど、与えられるかどうかもわからないのだから。
 だが、日番谷とふたりで、夢にまでみた可愛い顔を見ながら命の終わりを迎えることが、本当にできるとしたら。
 市丸は突然高まってきた鼓動に飲まれそうになりながら、こんな幸せな終焉があるだろうかと思った。
 何度も色々な夢をみてきたけれども、こんな幸せな最期など、思いつきもしなかった。
「…キミは、それで、ええの?」
「確認したところで、テメエにはどうにもできねえよ」
「だってキミ、窓の外へ逃げたカレンダーが雨に打たれて死んでもうたの、一日夢を見るよりも、苦しくてもひと月生きながらえた方が幸せやて、そう思わはってたんやろ?キミはそういうふうに考える子ぉなんやと…」
「うるせえよ、そんなの、…」
 夢みてなかったから、そう思ったんだよ、と日番谷は消えそうな声で言った。
「一度見ちまたら、俺だって、もう戻れねえよ…」
「…冬獅郎…」
 幸せってなんだろうって聞かれたら、それは人によって、場合によって、状況によって違うけれども、少なくとも愛した半身と離れ離れになることではないと思った。
「キミがそうしたいなら、ボクもそれでええよ。…ふたりで抱き合って、朝を迎えよか?」
 市丸が言うと、日番谷は不愉快そうに眉をひそめた。
「ンなこと言って手を放させようったって、騙されねえぞ、このウソつき野郎」
「そうや。ウソつきやもん、藍染はん裏切るんも、平気や」
「…」
「それにボクが裏切るんやのうて、キミが戻らせてくれへんかったからしゃあなく戻れへんのやもんね?」
「テメエ」
 ムカついたように言うが、日番谷が市丸を信じたがっているのは、間違いない。それにもともと日番谷は、相手が誰であろうが、信じたくて仕方ない人種なのだ。
「せやったらこうゆうんはどう?今から二人でここ飛び出して、朝日昇るまで、遠くへゆこう」
「…」
「藍染はんの手ぇも、届かんとこまで」
 ふたりの最後の時間を、邪魔されないところまで。
 大きな日番谷の瞳が、ゆらゆら揺れた。
「ボクやって、藍染はんのオヤジ臭隣で嗅いどるより、キミの可愛えお顔見とった方が、なんぼかええよ?」
「なんだ、ソレ」
 市丸の言葉に、日番谷が珍しく、軽く吹き出した。
 一瞬力が緩んだ隙を逃さずに、市丸は日番谷の手を振りほどいて、ぱっと起き上がった。
「あっ」
「逃げへんよ」
 逃げるどころか、市丸は日番谷の身体を引き寄せて、ぎゅっと抱き締めた。
 そのまま日番谷を抱き上げて、有無を言わせず窓を開け、外に飛び出した。
「市丸…」
「外の空気、最高やね、日番谷はん!」
 どこまでも広い世界。自由な身体。腕の中には、愛しい温もり。まだ完全な人間ではないその身体は身が軽く、軽いジャンプで屋根の上まで飛ぶことができた。
 日番谷も初めて見る外の世界を、圧倒されたように言葉もなく見ていたが、とりあえずある程度まで遠くへ行くために、市丸が猛スピードで屋根から屋根へと飛び移ってゆくためか、しがみつくように市丸の首に手を回し、そっと身を預けてきた。
「…どこまで行けるかな?」
「どこまでもや」
 本当は、藍染と離れることでその魔法が解け、灰になるならまだしも、プレートの中に引き戻されてしまうかもしれないとも思っていたが、そうはならなかった。
 たとえどうなるとしても、固く固く抱き締めて、もう決して離すまいと思っていた。

 高いビルの上で市丸は足を止めると、日番谷を胸に抱いたまま、腰を下ろした。
 そこからは街中が見渡せたし、誰もいず、二人きりだった。
 朝日は真っ先に浴びてしまうけれども、堂々と胸を張って、光の射す景色を見たかった。
「ええ眺めやね」
「ああ」
「寒ない?」
「…お前が、あったかいから」
「うん。こうしとると、あったかいね?」
「ああ。あったかいな」
 温もりなんて知らなかったから、しみじみと染み渡るお互いの体温が、肌を刺す寒さよりも、強く感じた。
 もうすぐ、朝がくる。
 広い外の世界も興味深かったが、残りの時間は、もっと可愛いものを見ていたい。
 市丸がその顔を覗きこむと、日番谷は少し頬を染めて、何だよ、と言った。
「キスしてええ?」
「う〜、好きにしろ」
 その顔と返事が可愛くて、市丸はちゅっと口付けてから、残念そうに、
「もうちょっと早うどこかに落ち着いとったら、もうちょっと先までできたかもしれへんな。失敗や」
「いや、そこまでは許さねえし」
 この期に及んできっぱりと言うが、日番谷はしっかりとつないだ市丸の手を、きゅっと握った。
 市丸も応えて、痛くないように気をつけながら、きゅっと握り返した。
 やがて、夜が、明けてきた。
 暗かった空が次第に白み始めてくるのを見て、日番谷が静かに、朝だ、と言った。
「怖い?」
「怖くはねえ」
「そう、よかった。ボクはほんまは怖いんやけど、冬獅郎が怖ないんやったら、ボクも怖ない」
「怖いんじゃねえか。お前にも怖いもんなんか、あったんだな」
 大きな瞳が市丸を見上げて、少し笑った。
 愛しい顔をしっかりとみつめて、市丸は心の底から幸せを噛み締めながら、怖いもの、いっぱいあるよ、と微笑んで答えた。