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神隠しの杜−7

 自分の言ったことで自分で呆然としている日番谷の両手をとって、ぎゅっと握りしめてくる。
 とぼけ通すと思っていたのに、市丸は驚くほどあっさりと認め、まるで日番谷が思い出したことを喜んでいるようにすら見えた。
「あの時のことは思い出したけど、どうゆうことなのか全てはわからない、それで不安になってもうたんやね?」
 記憶のままのあの指の長い手で、日番谷の手をしっかりと握られて、あれほど腹にたまっていた怒りが、どこかへすっ飛んでいってしまっていた。
「やっぱりか。知らないフリなんかしやがって、胸クソ悪ぃ」
 それでもここは、もう少し踏んばるところだろうと思って、日番谷はわざと拒絶するように言った。
「ああ、そないな言葉使うたらあかんよ。ボクが思い出させてあげなかったから、怒ってはるんやね?堪忍してや。知らないフリ言うたかて、キミ覚えてへん思うたし」
「勝手なコト言ってんじゃねえ。テメエが俺の記憶を消しやがったんだろう。…都合が悪いと思って」
 本当はその手も振り払ってやりたかったのに、やっぱり日番谷には、それができなかった。
 その弱みを見抜いているみたいに、市丸は日番谷の手をしっかりと握ったまま、驚いたような顔をした。
「キミの記憶なん、ボクは消してへんよ。キミが記憶を失くしてはるいうのも、後になって知ったことやった」
「嘘つきやがれ」
「ほんまや。…ボクは…」
 そこで一度息をついて、市丸は真剣な顔で日番谷を見た。
「ボクは、キミが思い出してくれて、そしてここへ来てくれて、ほんまに嬉しい…」
 あろうことか、市丸にそんなふうにみつめられて、熱っぽい声を出されて、日番谷は簡単に戦意を喪失してしまっていた。
「じゃあ、どうして…お前、あれ以来、姿見せなかったんだ」
「ああ、そこ。やっぱりそこ、怒ってはるんやね。ええよ、キミが全て知りたい言うなら、教えてあげる。ボクもずっと、どないしよう思うてたんや。キミの記憶、無理に戻してええやろか思うたし、せやけど、どうやらこのままやあかんみたいやし」
「…どういう意味だ?」
「教えてあげる。せやけど今はちょっと難しいよって、今晩キミのお部屋に行ってもええやろうか?」
「ああ」
 全て教えると言われて、日番谷はよく考えもせず、あっさりと答えてしまった。
 いや、本音を言うと、ずっとモヤモヤしていたから、何の邪魔も入らない時間を作って、市丸と腹を割ってゆっくり話せることが、嬉しいとも思った。
 てっきりのらくら逃げられると思っていたから、市丸が予想を裏切って誠意のある態度を示してくれたことも、日番谷はとても嬉しかった。
「そしたら今夜、そないに早くは行けへんよって、ご飯は済ませて待っててな?今度また時間作るよって、ご飯はまた別の機会に、ゆっくりふたりで食べような?」
「ああ」
 別に一緒に食事をしたいわけではなかったが、おざなりに相手をするつもりではないと言いたいのだろうことも、真剣に考えてくれているみたいに感じて、それも日番谷は嬉しいと思った。
 今夜だけでなく、また市丸とふたりの時間を持てることを約束してもらったことも、誠意のように感じて、やっぱり嬉しかった。
「ところでこのこと、キミは誰かに話さはった?」
「いや…。話してねえけど、藍染には、多少何か思われたかもしれない。俺、五番隊で、あの時の報告書見てたの、見られたから」
 日番谷が言うと、市丸は少し顔を曇らせた。
「そう…あの人は頭のええ人やから、気を付けなあかんね?」
 言外に、誰にも言うなというニュアンスを感じて、やっぱりそうなのか、と日番谷は思った。
 当時隊長だった藍染にも、秘密のことなのだ。
 何かの共犯に引きこまれたような気はしたが、何故かそれも嫌な気はしなかった。
 そしたら今夜、と約束をして、三番隊を退出した日番谷の足取りは軽かった。
 完全に対立することも覚悟していたが、案外正面からいったら、うまくいった。
 あれほど嫌な奴だと思っていたのが嘘のように、日番谷はすっかり今晩を楽しみにしていた。
「あら隊長、ご機嫌ですね?何かいいことあったんですか?」
 隊舎に戻るなり松本に言われて、日番谷は慌てて顔を引き締めた。
「別に。あ、これ、五番隊で菓子もらってきたから、食え」
「あらっ、五番隊に行ってらしたんですか〜。わあ、ありがたく頂きま〜すvv」
 松本にお茶を出され、気持ち良く一息ついていると、
「…隊長、わかりました。雛森副隊長の手を握っちゃったんでしょう?」
「はあ?」
 にやにや笑って松本が言う意味がわからなくて眉を寄せると、
「隊長がご機嫌な理由。さっきからご自分の手を見て嬉しそうにしているし、五番隊から帰ってきたところだし。総合して推理すると、五番隊で何かのきっかけで桃の手を握ったとか、…他のとこ触ったとか、それでご機嫌なんじゃないですか?当たりでしょ?」
「バ…な…」
 そんなに自分がご機嫌に見えることにも、自分の手を見て嬉しそうにしていた自覚もなかった日番谷は、思わずパッと頬を染めた。
「あらっ、隊長、わかりやす〜い♪」
「バカ野郎、くだらねえこと言ってねえで、仕事しろー!」
 当たらずとも遠からずな指摘をされて、日番谷は必死で怒ったふりをしてごまかしたが、まだ相手が雛森だと思われているだけましだと思って、深くは言わないことにした。
 


 今晩全ての謎が解き明かされるとなって、日番谷は少し緊張もしていたが、おおむね満たされた気分だった。
 およそのことは自分の予想どおりだろうと思っていたし、あとは市丸から詳しい話を聞いて、彼に弁明と謝罪をさせ、和解して、めでたしめでたしで終わるだろうと思っていた。
 それもこれも、市丸があっさりと全てを認めたからで、悪意で日番谷を裏切ったわけではないと言ったからで、日番谷に対し、とても誠実な態度を見せたからだ。
 日番谷はそれですでに市丸を許していたし、つまりは日番谷が一番憤っていたのは、そこだったのだ。
 記憶の中の狐に、あの時の市丸に対して抱いていた好感の、持って行き場をみつけた。
 人は誰でも、相手が自分の期待していた通りの反応をしたり、そういう人物であったりしたら、安心し、満足するものだ。
 もともとそれが幻想であっても、そうでないとわかると、「信じていたのに」「そんな人だと思わなかった」等と言って、勝手に失望するのだ。
 そんな期待は、目の前にある明らかな事実でさえ、見えなくさせる。
 日番谷は、自分の見つけた事実やそれに基づいた推理があまりにピタリと収まったので、説明できていない部分に、気が付かなかった。
 いや、気が付いていても、今夜説明を受ければ納得できる、取るに足らないものだと思っていた。
 市丸が、「思い出してもなお会いに来てくれた」「日番谷が、自ら記憶を失くした」つまり、それほどのことがあったのだと匂わせたことにも、全くといっていいほど頓着していなかった。
 すでにもう、思い出さなくてはと焦る気持ちはなくなっていたが、それが却って、封印していた記憶を蘇らせてしまったかもしれない。
 もしくは、封印したのと同じ理由で、それも防衛本能によるものだったのか。
 とにかく日番谷は、満たされた思いでその日も午睡をし、そして、夢を見た。
 夢の中で日番谷は、あの夜迎えに来た不思議な男と…今となっては市丸とわかる男と二人、古いお堂のようなところにいた。
 それは恐らくあの鳥居を抜けた先にあったところで、恐らく現実にはない、どこか別世界であると思われた。
 男は日番谷をそのお堂の真ん中あたりに座らせると、どこかから酒のようなものを出してきて、振舞った。
「キミはもうわかってはるやろうか。もうすぐここに、虚が来る。ボクらはそれを、迎え撃つ」
「そうか」
 虚討伐の実習は何度もしてきたし、自分の力にもある程度自信があった日番谷は、それを聞いてもさほど動揺しなかった。
 それよりも、目の前のこの男が自分以上の能力を持っていることは明らかで、今回のこの虚討伐でその力を目の当たりにでき、なおかつ実践で戦い方を教えてもらえる、またとないチャンスだと思ったら、喜びで胸がドキドキしてきた。
「その虚はな、このお山で、獣の霊と、同化したみたいなんや」
「そんなことがあるのか」
「ここは、そういう霊的なお山やから」
 説明になっているのかわからないが、そういうものかと、日番谷は思った。
「それに、他にたくさんの獣の霊を、眷族みたいに従えてとる」
「たいしたことないんだろう、獣の霊なんか」
「そうやね、獣の霊は、たいしたことない。数が多くて面倒なだけや。せやけどその虚は、臆病で、狡賢いねん。小賢しい手を、いくつも用意してんねん」
 まるで一度対したことがあるように、憎らしげに、男は言った。
 この男でも、一度対した相手を取り逃がすということがあるのかと思ったら、今回のその相手は、本当に侮れない相手なのかもしれないと思い、日番谷は無意識に気持ちを引き締めた。
「確かに下のモンだけに任せるには強い霊力もってたし、力も特殊や聞いとった。この空間も、そいつの作った空間に、このお山の霊力借りて、ボクが無理やり繋げたんや。せやからここは、いわばそいつのテリトリーの中なんよ」
「…それは…特殊だな。それは、虚空の向こうということか?」
「違う。このお山の力や。ここ来るまでに、キミも感じてはったやろう。あいつらの気配、それから空間のひずみ」
「……」
 それは、確かに感じていた。
 とても不気味で、禍々しいものを。
「お山は平等や。ボクらに力貸してもくれるし、奴に力与えもする。…忌々しい。ほんに、忌々しい」
 男は一度酒をあおり、小さく嘆息した。
「さて、こうしとっても、奴は出てこん。餌まかなあかん」
「餌?」
 酒の器をとんと置いて、男は立ち上がると、四方に灯りを立て、魔法陣のようなものを描き始めた。
 その中心に薄い敷き布団のようなものを敷き、腰に差していた短い刀を置いて、そこに胡坐をかいて座る。
「おいで?」
 男が手招きをするから、日番谷は素直に彼のそばへ行った。
 男の手は優しく日番谷の手を取り、目の前に座らせる。
「怖がったらあかんよ?ボクに逆らってもあかん。何もかも、ボクの言う通りにしとるんよ?」
 男は日番谷の背の斬魄刀を下ろし、布団の外へ置いた。
「霊圧も、極力抑えとき?キミの霊圧浴びたら、あいつら怖がって出て来んよって」
「何をするんだ?」
「あいつをおびき寄せるのが、一番面倒なんや。せやけど出てくるのただ待ってても、埒あかん」
 言った男の顔が、突然ふわっと回転した。
 同時に柔らかな感触が背に当たる。
「え…っ?」
「大丈夫、怖ないよ…?」
 四方に灯された明かりにゆらゆらと照らされた男の顔が、上から覗き込んでいた。
 長い前髪に遮られて陰になり、その表情は見えない。…影の向こうの、表情として認識できない、薄い、貼り付いたような笑顔しか…
「…な、」
 いつの間にか布団に倒され、組み敷かれていると気が付いて、日番谷は動転した。
 状況がわからず、とっさに起き上がろうとするが、身体はビクとも動かない。
 男の顔は狐によく似ているが、その手は狐とは違って大きくて、力が強く、そして自由になる指を持っていた。
 その男の力強い大きな手が日番谷の二の腕を掴み、しっかりと布団に押さえ付けていた。
 そこで初めて目の前の男が、実は正体も知らない相手だということに、日番谷は唐突に気が付いた。