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神隠しの杜−20

 ほんのりと体が熱い。
 熱を持っている。
 少し、息が苦しい。
 ごくごく健康に生きてきた日番谷は、軽い変調ではあったが慣れないことだったので、少し戸惑うような気持ちで夢の中を漂っていた。
(…でも、前にもあった。こんな感じ)
 覚えていない昔の記憶を夢の中で取り戻すことを、このところ何度かしていた。
 また、そんな感覚なのだろうか。
 体の芯がダルくて熱で体が重い。
 …そして、…
「…ん…」
 軽くみじろぐと、ふわっと優しく何かが髪に触れてきた。
 そのまま額の上のものがどかされ、代わりに触れてきたそれはほっそりしていて冷たくて、人の指先だとすぐに気が付いた。
「…まだ熱いなァ」
 独り言のように、小さく声が聞こえた。
 タメ息のようなその声は、心配していることが感じとれる。
 熱を持った額に心地よい冷たい指はしばらくそこに乗せられていたがじきに離れて、再びひんやりと濡れた布のようなものが額に置かれた。
 そうして空いた指が、そっと手を握ってくる。
 この感覚も…、初めてではないと日番谷は思った。
 同じように熱が出て、臥せってしまったこんな夜、祖母の家を出て以来いつも、…いつもひとりだった布団の隣に、誰かがいた。
 誰かがいて、こうしてずっと、日番谷の手を握って…
 思い出しかかって、突然その先は、暗い闇に覆われた。
 胸を押しつぶすほどの黒いものが周りいっぱいに広がって、日番谷を包み込み、真っ暗な淵に深く身を投げ込んでしまう。
 どこまでも落ちて何もかもから遮断されると、日番谷はようやく安心して、フッと息をついた。
 目を閉じたら、何も見えない。何も感じない。何も聞こえない。何にも触れられたりしない。
 軽い微熱にふわふわと浮いて、そのままどこかへ流されて…
 なんともいえないその安らぎの中で、もう一度深く眠りに就こうとした時、日番谷の胸の奥に、何かがチリリと触れてきた。
 こんなところまで、誰も来られるはずがないのに。
 何も届かないはずなのに。
 それから逃れようとして、こんなに深いところまで下りて来たのに。一度は確かに逃げ切ったはずなのに。
「…冬獅郎」
 聞き覚えのあるその声は、さっきと同じ声だった。
 優しく呼びかけられると、胸がどうしようもなく締め付けられるように苦しくなってしまう声。
 胸をじんとさせるのに、身体の深いところが、警告を発する声。
 日番谷が逃げようとすると、その声は切なそうな色を帯び、
「…今度は、ちゃんと戻ってきてな…?」
 言葉と同時に、ぎゅっと手を握る力が強くなったのを感じた。
 その手に引き寄せられるように、一気に意識が覚醒してゆく。
「……」
 日番谷が目を覚ますと、そこは自分の部屋だった。
 ぼんやりと、夢でもみたかと思って見回すと、いるはずのない男が自分の顔を覗き込んできた。
 傍らに水の入った小さめの桶を置いて、日番谷の布団の枕元に座り、その手をしっかりと握っている。
「目ぇ覚めた?」
「…なんでお前がここにいる、市丸…」
 眉を寄せて言いながら、みるみる甦ってきた記憶に、日番谷は市丸の手を払い、バッと身体を起こした。
「あの虚はっ?あの空間はっ?」
 勢い込んで聞くと、市丸は大きく笑みを広げながら、日番谷の額から落ちた手拭いを拾って桶の中に入れた。
「あの虚は、もうおらへんよ。あの空間は、…ボクらの心の中にある」
「謎かけしてんじゃねえぞ。何がどうなったのか、ハッキリ言え!」
「ボクらが再び出会うて、今度こそ、恋人同士になれた」
「ポイントそこじゃねえ!」
 恋人同士、という言葉に照れながらも怒ったように言うと、市丸は日番谷の乱れた髪に優しくそっと触れて、
「そこやない言われても、それしかないんやないやろか…?まあ、これだけは言うといてあげないとあかんかな。あの虚は、討伐完了や。もう二度と出て来うへんよ」
「ホントか」
「ほんまや」
 自分が知らない間に全てを片づけてしまっていた市丸には腹が立ったが、確かにそれを聞いて、日番谷は安心した。
 その気持ちを表すようにその身体から力が抜けたのに気が付いて、市丸がそっと抱き締めてくる。
「今度はちゃんと記憶あるんやね。…よかった」
 静かな声だったが、深い思いをそこに感じて、日番谷はそっと息を詰めた。
 市丸がどれほどそれを心配していたか、痛いほど伝わってきたのだ。
 同じようにあの世界から戻ってきて、あの後日番谷は、同じように熱を出した。
 今回は微熱だが、あの時はもっと熱も高くて、日番谷は朝になっても目覚めないまま、熱が下がると共に全てを忘れてしまったのだ。
 その事実が市丸にどれほどの打撃を与えたかなんか考えたこともなかったが、結局日番谷はもう一度思い出して、市丸はもう一度迎えにきた。
 そしてもう一度、日番谷の枕元で、こうしてずっと、濡らした手拭いで額を冷やしてくれながら、その手を優しく握って、日番谷が目覚めるのを待っていた。
(…あの時も、こうして俺の隣にいたんだ、こいつ…)
 記憶の防御を取り払い、色々と思い出した今、うっすらとだが確かに覚えている。
 誰かがそこに、いた気配。
 誰かがずっと、自分の手を握っていた。
 疑う余地もないくらい、それはこれと同じ手だった。
 でも前は、市丸が戻らなくてはならない時間になっても日番谷は目覚めなくて、そのまま市丸は帰り、日番谷はその記憶にすら封印をかけ、…
 全部思い出したと思っていたが、どうやら全部ではなかったようだ。
 中途半端に思い出していたから、あの後市丸はボロボロになった自分を置いてさっさと帰り、そのまま二度と現れなかったのだと思って彼を恨んだが、そうではなかった。
 あそこで語られた市丸の言葉も、どこまで信じていいやらわかったもんじゃないとも思っていたが、…こうして日番谷の身体が、あの時市丸がそばにいたことを覚えていたのだから、少なくともそれは真実なのだろう。
 あの世界から連れ帰って、熱を出してしまった日番谷を布団に寝かせて、そのまま朝までずっとこんな感じで、隣に座って手を握っていたのだ…
 それすら全て、日番谷は忘れてしまっていたけれども。
 市丸の身体は、…あの狐と同じ、香のようなよい香りがして、全てが夢ではないのだと、教えてくれているような気がした。
「おまえこそ、今度はちゃんと逃げずに俺の前にいるんだな」
 嫌味のつもりで言ったのに、それを聞いて、市丸はとても嬉しそうに笑った。
「うん。ずっとおる。ずっとおっても、もう大丈夫やねん。何もかも、今はあの時よりも、ずっと自由やからなァ。…キミも、ボクも」
 隊長だからって、実際はそれほど自由じゃねえだろ、と思ったが、日番谷は言わなかった。
 市丸が言いたいことは、恐らく日番谷に全てを理解するのは無理だけれども、一番大事なことだけは、とてもよくわかったからだ。
 市丸は愛しそうに何度も日番谷の顔に口付けてから、そうっと布団に戻した。
「今度もまた、お熱やねん。無理させてもうたんやね。ゴメンな?」
「…微熱だ。たいしたことない」
 あれくらいのことで熱を出すなんて、子供みたいで恥ずかしい。
 日番谷はきゅっと唇を噛んでそっぽを向いたが、市丸が視界からいなくなると不安になって、すぐにまた振り向いた。
 市丸は変わらずそこにいて、微笑みを浮かべたまま、じっと日番谷をみつめている。
「…布団がもうひと組押入れに入っているから、お前も少しは寝ていけよ」
 帰ってほしくないけれども、このままここで徹夜させるのも申し訳ない。
 日番谷にしては、かなり勇気を振り絞って言った言葉だったのに、市丸は少し驚いたような顔をしてから、とろけそうな顔をして、
「もうひと組出さなあかんの?キミの隣に入れてはくれへんの?」
 図々しくも言ってきた市丸に、日番谷の熱は、また上がったような気がした。