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神隠しの杜−1

 本日届けられた書類をざっと見て、日番谷はタメ息とともにそれを机に置くと、副官の姿を探した。
 松本は朝から忙しくあちこち立ち働いていて、まだ帰ってきていないようだった。
 日番谷はまだ隊長になったばかりで、十番隊にも来たばかりだ。
 加えてまだ若いということで、副官である松本は実に細部まで気を配ってくれていて、女性らしい心遣いも、本当に有難いと日番谷は思っていた。
(あまり副官に頼ってばかりでもいけねえな…)
 日番谷は立ち上がり、書棚の前に立つと、目的の資料を探した。
 また随分と高い棚にそれをみつけると、もう一度タメ息をそっとついて、椅子を移動させ、それに乗って、資料を取った。
 現世の管轄区の分布表だ。
 現世での通常任務に就く死神達は、基本、隊ごとに管轄区が決められていて、定められた区域内で起こる事柄に対し、それぞれ責任を持つ。
 人間の魂に関する役目がほとんどなので、人口密集地とそうでない土地では、忙しさも危険度も難易度もかなり違うため、隊によって不平等にならないよう、かといって争いが起きやすくもならないように、それは綿密に計算され、現世の地域開発や人の流れに合わせ、毎年微調整を行い、また何年かごとに担当管轄区の入れ替えを行っている。
 上が決めたことは絶対ではあるが、現場の意見や事情も参考にして、多少の融通は利くように、各隊長にもそれなりに権限があった。
 今回、その件について下から要望書が上がってきていた為に、隊長である日番谷はそれを調査・検討して、他隊との調整を取らなければならなかった。
(…三番隊か…)
 行きたくないな、と正直日番谷は思った。
 どうも、あの三番隊の隊長は苦手…というほど顔を合わせたこともないが、近づきたくない何かは初めて見た時から感じ取っていた。
 初めて会ったのは隊首会で、新隊長として皆に紹介され、挨拶をした時だったが、その時他隊の隊長達と一緒にずらりと並ぶ中の一人としていただけで、特別言葉を交わしもしなかった。
 そしてそれ以後、一度も会ったことはない。
 それでも…、何か、他の隊長にはない特別な印象を持ったのは、確かだった。
 なぜかはわからない。そしてその正体もわからなかったが、その特別な印象とは、本能を信じてありていに言うならば、…それは、危険信号だった。
 あの男には、何か不吉なものを感じる。
 得体の知れない不穏な何かを感じる。
 そう思って、意識的に三番隊には近づかないようにしていた。
 だが、隊長になったからには、そんなことも言っていられない。
 日番谷は三席を呼んで三番隊の隊長に午後会いに行く旨を伝えるように言うと、管轄区についての資料を頭に叩き込むことに集中した。


 どの隊も、基本的な隊舎の造りは似たり寄ったりだ。
 三番隊の応接室に通されながら、日番谷は用心深くあちこちの様子を窺って、三番隊だって他の隊と変わりないのだと自分に言い聞かせた。
 奥に行くほど死神達の数が減り、静けさが広がり、初夏なのにひんやりとした印象を受ける。
 それも、どの隊でも、同じ…なのかもしれない。
「今市丸隊長をお呼び致しますので、こちらでお待ち下さい」
 通された部屋のソファに背筋を伸ばして座り、自分がやや緊張していることに自分で苦笑して、低く息を吐く。
 市丸が来るまでの時間が、やたら重く長く耐えられないもののように感じた。
 ふと目を向けると、開け放たれた障子の向こうに、美しい日本庭園が見えた。
 よく手入れされたそれに目がなごみ、市丸の気配もまだ感じなかったので、日番谷はちょっと立って、そっとそれを見に行った。
「お気に召しました?」
 しばし見とれていると、突然背後から声がして、日番谷は驚いて振り返った。
「お待たせしてすいません。今お茶を替えさせてますよって、そのままお庭楽しんではって下さい」
 いつの間にか後ろに立っていた市丸が、にこやかに微笑みながら言った。
「あ、いや、」
 柔らかな訛りが、意外でもあり、らしいとも思った。
 だが、音もなく、気配も感じさせずに背後に立たれたことに、少々不愉快なものを感じた。
「あら、もうええんですか?」
「別に、庭を見に来たわけじゃない」
 日番谷がソファに戻ると、市丸もゆったりと向かいのソファに腰を下ろす。
 その動きがやけに優雅で、日番谷は無意識に眉を寄せていた。
「お忙しそうですねえ。隊長のお仕事には、慣れはった?」
「まあまあな」
 落ち着かないこんなところに長居したくないから、さっさと本題を済ませて、さっさと帰りたかった。
 市丸ののんびりした雰囲気に、苛々する。
「新しく割り振られた、現世の管轄区についてなんだが」
 持ってきた資料を早速開いて言うと、市丸はいっそう口の端を上げて笑みを深くする。
 せっかちやなあ、という声が聞こえたような気がして、日番谷はムッとして市丸を見上げた。
「何スか?」
 低い声で、敢えて聞いてやると、市丸はクククと喉の奥で笑って、
「管轄区ね。真面目な隊長さんやなあ。そない細かいことなん、下のもんに任せといたら良さそうなもんやのに」
「怠慢だろう、それは」
「まあまあ、そないな目ぇせんと」
 またもムッとして言うが、市丸は全く気にしない様子で、テーブルの上の茶菓子を勧めてきた。
「おいしいんよ、これ。おひとついかが?」
「……」
 相変わらずのんびりとしたその空気にイラっとはしたが、器に添えられた手を見て、日番谷は何かが心に触れるのを感じた。
 大きいけれども、ほっそりとした、指の長いその手。
 見たことがある。どこかで。
 すぐに戻っていったその手から目を外し、改めて市丸の顔を見た。
 何を考えているのか全く表情の読めない、見事な狐顔。
 こんな独特な顔を、忘れるはずなどないのだが?
「下の子ぉはなぁ、現世のお仕事一生懸命やから。ボクもちょいちょい様子見に行きますよ、現世」
 茶菓子の袋を破って、大きな口が開き、茶菓子を取り込んで閉じる。
 獣みたいに、大きな口。
「…俺、前にアンタに会ったかな?」
 見ていたら、思わず口に出していた。
 大きな口は、お行儀よく中のものを嚥下してから、ニッと笑った。
「会いましたとも。隊首会で」
 指の長い手が柔らかな動きで、テーブルの上の湯飲みを取る。
「いや、もっと前に」
「あらら、これはこれは」
 冷たいお茶をぐびりと一口飲んでから、市丸はおかしくて仕方がないように、
「お歳の割に、ベタな手ぇを。現世の管轄区なん、えらくちっちゃな用事で来はった思うたら」
 言われて日番谷は、パッと頬を染めた。
「手じゃねえ。なんで俺が、アンタに、そんな手なんか使わないといけないんだ。…単に、そんな気がしただけだ。それに管轄区だって、大切なことだ」
 本当は来たくなかったとまで言ってやれたらスッキリするのだが、さすがにそこまで言えず、日番谷は市丸を睨みつけた。
「ごもっとも」
 ひらっと長い指が舞って、日番谷が広げた資料の上に、とんと乗った。
「最近ここらで、ちっちゃな虚が、よう出とるみたいですね?」
「霊的に、磁場となりつつあるみたいだ」
「見に行かはった?」
「行くつもりだ」
「お供致しましょうか?」
「……」
 日番谷は上目づかいで、ジロッと市丸を窺った。
「アンタは、行ったのか」
「長いこと三番隊の管轄区ですから」
 本当は、一緒に行った方がいいのかもしれない。
 だがこの男と行動を共にするというのは、考えただけでゾッとする。
「ならば結構だ。俺ひとりで行く」
「あら、フられてもうた」
 そんな軽口が、いちいちとても気に障る。
 最初の印象通り、掴みどころのない、腹の中が読めない、常にバカにされているような気分にさせられる、とても好きにはなれそうにないタイプだ、と日番谷は思った。
 それをぐっと堪えて十番隊としての要望を伝え、理解を求めると、ずっと黙って聞いていた市丸は愛想よく頷いて、
「お好きにされはったらええですよ。そない小さな磁場なん、ボクは興味あらしませんよって」
 その言葉で、またも日番谷はカッと怒りに頬を染めた。
 興味がなくても隊長として、他隊と話をつけておくことは、勤めだ。
 礼儀でもあると思ってわざわざ来たのに、なんという言い草なんだと腹が立った。
「では、そうさせてもらう。忙しいところ、邪魔したな」
 つっと立ってさっさと出て行こうとすると、十番隊長さんは、気ぃの短いお人やなあ、と笑いを含んだ声が掛けられる。
「また来てな?ちっちゃな用事でも、十番隊長さんやったらいつでも大歓迎や」
 それは、新米だからという意味か。それともちっちゃな用事で来たことを揶揄しているのか。
「来たくなくても、来る必要ができたら来ないわけにはいかねえ」
 二度と来ねえと言ってやれたら、どんなにいい気分だろう。
 燃える瞳で振り返ると、市丸はすうっと立って、音もなく背後に歩み寄ってきた。