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Judie−5

 会ったといっても、市丸と吉良が二人で話しているところに、偶然通りかかっただけなのだが。
「市丸隊長…あのう、いつまでここで楽しんでおられるおつもりなんでしょう?そろそろ行かないと、総隊長が待っておられると思うのですが」
「そうやねえ〜。せやけど、こない可愛えのに、これはじきに、消えてまうからねえ〜」
「足跡くらい、またいつでも見られますよ。日番谷隊長は、隊長に就任されたのですから」
 突然自分の名前が出て、日番谷はとっさに、ハッと身を隠してしまった。
「うん、せやけどな、これは特別やねん。見てみい、大きな足跡と並んどるやろう?こっちはこの大きな足で、めっちゃ大きな歩幅やねん。きっとすごい速さで歩いとったと思うんよ」
「はあ」
「剣八っちゃんかなあ。普通やったら、小さな子ぉと歩いたら、スピード緩めるもんやろうけど、容赦ないねん。その歩幅とな、ちゃんと並んで歩いとるんよ、この子」
「はあ」
「足跡のサイズと比べたら、ちょっと大きめの歩幅やけども、走ってはへんみたいやから、頑張ったんやろね。隊長さんなりたてやから、引かれへんかったと思うんよ。可愛えと思わへん、イヅル?」
 人の足跡で何をどこまで想像してくれちゃってるんだと、日番谷は驚くと同時に、ゾッとした。
 確かに更木はものすごいスピードで歩いていったので、それについてゆくのは大変だった。
 大変だったが、一度並んだ以上、追いつけなくて脱落など、同じ隊長として、あってはならないと思った。
 その瞬間に更木にはバカにされるだろうし、そうなったら今後一生、下に見られ続けるのだ。
 そしてそれは日番谷ひとりの話ではなく、十番隊全体が十一番隊にバカにされるということだと思った。
 だから置いてゆかれることも、追いつくために走ることもあってはならず、何が何でも平然として、歩いて隣をキープし続けるしかなかった。
 幸い、更木はそんな日番谷の努力には気付いていないようだった。
 彼は最初から意地悪で速足だったわけではなく、単にそこまで気が回らなかっただけで、更木に日番谷が合わせ切った以上、彼にとってはただ門から入口までを、日番谷と二人で歩いたというだけのことだった。
 それ以上の意味もなければ、それ以下でもない。
 そして日番谷にとっては、「ただそれだけ」ということがとても大事だったのだから、それはそこで成し遂げて終わりのはずだった。
 それは「当たり前」でなくてはならず、そこまで気付いてなどくれなくて良かったのだ。
 皆と並ぶために必死で背伸びをしているところを見られたようで、日番谷は屈辱で、顔から火が出そうになった。
 しかも日番谷は、常に霊圧を抑えるくせをつけていたのに、市丸は明らかに自分に向けて、
「頑張りや〜、十番隊長さん」
と言って去っていった。
 それから日番谷は、市丸が大嫌いだった。
 だが市丸の方はそれ以来、用もないのに何度も何度も十番隊に遊びに来るようになった。
 遊びに来ては、小さいとか子供だとか可愛いとか、隊長にまでなった日番谷にあまり皆が面と向かって言わないことを平気で言い、変なちょっかいばかりかけてくる市丸を、日番谷はますます嫌いになった。
 けれどそのうち、市丸が本気で日番谷を小さいとか子供だとか思っているのは間違いないが、それはただ事実をそのまま認識しているだけで、それを悪いことだとか、低く見ているということはまるでないということに気が付いた。
 バカにしたような話し方をするのは誰に対してもそうで、特に日番谷が子供だからという理由ではない。
 性格が悪いことは確かだが、市丸は相手の気にしていること、弱い部分を常に狙ってくるのだ。
 なんて嫌な野郎だとは依然思っていたが、市丸が日番谷をからかう時だけ、とろりと甘い色を含めてくることに、じきに気が付いた。
 日番谷に対してだけ特に熱心なことにも、興味のない者には決して使わない時間と労力を、日番谷にだけは、惜しむことなく注ぎ込んでいることにも。
 あんなにウザくてムカついて、あんなに大嫌いだったのに。
 たまに来ないと気になって、いつの間にかまんまと市丸の網にかかってしまっていた。
 チクショーコノヤローと思ったのに、その網はかかってみると予想外に居心地がよくて。
 うっかり逃げるのを忘れ、そのまま居座って中の様子を確かめていたら、市丸はそれを喜んでせっせともてなしてきたから、逃げ出すタイミングを失った。
(…てゆうか、バカじゃね、俺?なんで現世まできて、あんな野郎のこと、考えてンだ?…こんなストラップで喜ぶような子供だと思われてンのに。「これをボクだと思って」て、意味わかんねえ。なんでブドウなんだよ。どうせなら、キツネの人形とかにすればいいのに。あ、そういえば、キツネとブドウとかいう、童話かなんかがあったか?相当な変化球だな、おい)
 柔らかなブドウの実はさわり心地がよくて、つい指の先で、もてあそんでしまう。
(い、ち、ま、る、ギ、ン…ちぇ、一個多いよ。…あー…こんな任務、早く終わればいいのに)
 とうとう投げやりに、そんなことを思った時だった。
「君…ひとりかい?」
 突然声をかけられて、日番谷は慌ててストラップをポケットに隠した。
 別にストラップそのものは見られて困るものでもないのだが、ぼんやり市丸を想っていた心の中を、見られたような気になったのだ。
「あっ、いや、…もう帰ります」
 そろそろそうやって声をかけられることに慣れていた日番谷は、冷静に言って立ち上がると、場所を変えようとした。
「あ、違うんだ、もし時間があるのならば、手を貸してもらえないかと思ってね。私はこの近くに住んでいる者なんだが、この時間、通りかかる人もいなくて、困っていたんだよ。」
 続いた言葉に、日番谷は改めて、声をかけてきた男を見た。
 どこにでもいそうな、冴えない中年の男に見えた。
 禿げかけていて、腹が出ていて、そして右手に、松葉杖をついている。
「車がエンストしてしまってね。すぐ近くだから、荷物だけでも家に運びたいんだけど、この通り片手しか使えないから、ひとりではそれもできなくて。君が手伝ってくれたら、本当に助かるんだけど、ダメかな?」
「車?」
 チラッと見た先に、確かに一台の車が停まっていた。
 どこにでもありそうな、ファミリー用の白いセダンだ。
「その足で、あんたがここまで、運転してきたのか?」
「ははは、左足は使えなくても運転できるんだよ」
 善良そうに笑ってから、男は少し淋しそうな顔をした。
「君は、賢そうな子だね。物騒な世の中になってしまったから、今はどの親も、見知らない人に声をかけられたら逃げるように教えているんだってね。おかげでお年寄りがひとりで困っていても、助けようとしない子供ばかりになってしまったそうだ。淋しい世の中だよね」
「荷物て何すか?よければ友達を呼んでもいいスけど」
「いや、いいんだ。ありがとう。そんなにたいした量でもないんだ。わざわざ呼び出されたら、そのお友達に、君も怒られてしまうよ。…いや、実は娘にね、金魚を買ってきたんだけどね」
「金魚?」
「身体の弱い子でね。今年は夏祭りにも行けそうもない。…可哀相に。楽しみにしていたから、赤い金魚をね、買ってきたんだ。可愛い金魚を見たら、元気になるかもしれないだろう?」
「……」
 男は優しく笑って、愛しいものを見るように、近くの家に視線を投げた。
 公園の裏手は土手になっていて、庭の木々に埋もれるように、小ぎれいな家がぽつんと一件建っているだけだった。
「…あそこが、あんたの家なんすか?」
「ああ。本当にすぐそこなんだ。足がまともなら、こんなお願いをしなくて済むんだが」
 言われて日番谷は、チラッと男の松葉杖をついた足を見た。
「手伝いますよ」
「えっ、本当かい?」
 冴えない男の顔が、冴えないなりに、輝いた。
「助かるよ。早く娘を喜ばせたいし、金魚を一晩車の中に置いておくわけにもいかないし。ああ、本当にありがとう。優しい子だね。ありがとう」
 嬉しそうに何度も礼を言いながら、男は松葉杖で、不自由そうに車の方へ歩き出した。
「君は、このあたりに住んでいるのかい?近くに引っ越してきたの?」
「近くはないすけど、まあ、そんなもんです」
「ずいぶんしっかりしているんだね。兄弟がいるの?お兄ちゃんなのかな?」
「いねえすよ、そんなの」
 不真面目な部下ならいるけれども。そう言ったら驚くだろうな、と思ったら、少し笑えた。
「年はいくつなのかな?」
「聞いたら驚きますよ」
「12歳くらい?」
「はは」
 笑えない。
 こんなくだらない世間話など、面白くもなんともない。
 男が車の鍵を開け、後ろのドアを開けると、日番谷は素早く中を見た。
 シートの上に、可愛らしい金魚鉢が、木枠で固定されて置いてあった。
「可愛いだろう?坊や、金魚は好きかい?」
「特に好きでもない」
「そうなのかい?でも、この赤いのとか、可愛いだろう?一匹あげようか?」
「飼えねえから、いらねっす」
 子供好きなのか、暇なのか、淋しい男なのか。
 男に付き合っていつまでも金魚の話をしていても仕方がないので、日番谷は金魚鉢を持ち上げた。
 小さな金魚鉢とはいえ、水が入っているので、ずっしりと重い。
「滑るから、気をつけてね。落としたら、金魚さん、死んでしまうからね?」
「わかってるよ」
 男について家へ行くと、男は「奥の部屋まで、運んでもらえるかな?」と言った。
「すまないね。そこが娘の部屋なんだ。とても可愛い子なんだよ。会っていってくれるよね?」
「申し訳ないけれど、置いたらすぐに帰らせてもらう」
「そう言わないで。本当に可愛い子だから。いつもひとりで、淋しがっているんだよ?」
「……」
 面倒なことになってきたな、と日番谷は内心でタメ息をついた。
 こんなところで、淋しいオヤジと淋しい娘の相手をさせられるハメになるとは。
 だが、案外そういう少女が、自分達の探している不思議な能力を持っている少女かもしれない…
 そんな都合のいいことを、それ程本気で期待したわけではなかった。
 だが、男が開いたドアの向こうを見て、日番谷は全く予想もしていなかったその光景に、絶句した。
「ほら、可愛いだろう?」
 扉の向こうには、金魚鉢を手にした、銀髪の少年が立っていた。
 何の必要性があるのか、全くわからない。
 それほど広くもない部屋の中央に、巨大なベッドがどんと置いてあり、その周りの壁一面に、鏡がはめてあるのだ。
「おま…」
 その異様な様子に、即座におかしいと気が付いて、日番谷が振り向こうとするより先に、男の太い腕が日番谷の華奢な身体を抱き込んだ。
「本当に、なんて可愛いんだ。ああ、柔らかい。可愛らしい、甘い香りがするね?」
「は、離せ!お前、足…ッ!」
 男はいつの間にか、松葉杖を放り出していた。
(…こんな古典的な手に…!)